最低賃金を「全国一律」にするのは、もはや「世界の常識」です(撮影:尾形 文繁)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。退職後も日本経済の研究を続け、『新・観光立国論』『新・生産性立国論』など、日本を救う数々の提言を行ってきた彼が、ついにたどり着いた日本の生存戦略をまとめた『日本人の勝算』が刊行された。
人口減少と高齢化という未曾有の危機を前に、日本人はどう戦えばいいのか。本連載では、アトキンソン氏の分析を紹介していく。

地域別の最低賃金があるのは世界の「少数派」

前回の記事(最低賃金の引き上げが「世界の常識」な理由)では、日本経済を維持・成長させていくためには、永遠の賃上げを実現し、国民の所得を増加させることが不可欠で、それを実現させるためには、最低賃金の継続的な引き上げが極めて重要だという話をしました。


ただし、日本の場合、最低賃金制度には大きな問題点があります。それは、現在、日本では都道府県別に最低賃金が設定されていることです。この制度を是正し、最低賃金を全国一律にすることは、地方創生に欠かせない制度変更です。

実は全国一律の最低賃金の実現に向けた動きは、すでにスタートしています。

2019年2月7日、自民党内に「最低賃金一元化推進議員連盟」が発足しました。連盟の会長には衛藤征士郎衆院議員、幹事長に山本幸三衆院議員が就任されました。この連盟の発足式では、私が基調講演をさせていただきました。

全国一律の最低賃金導入は、衰退する一方の地方経済の悪循環を断ち切り、地方創生を推進する挑戦的な試みです。

2013年時点で、地域別の最低賃金を導入している国は、カナダ、中国、インドネシア、日本の4カ国のみです。4カ国というのは、全体のわずか3%にすぎません。つまり、全国一律ではない最低賃金を導入しているのは、世界的に見るとかなりまれなことで、日本はそのまれな制度を導入している珍しい国の1つなのです。


「業種別・全国一律」という国はありますが、最低賃金の数が増えすぎて複雑になるので、今はできるだけシンプルにするのが主流です。特に、最低賃金政策に積極的に取り組んで研究と検証が進んでいるヨーロッパでは、業種別でない純粋な全国一律としている国が全体の65%となっていることに注目しています。

国が決めた全国一律の最低賃金を上回る水準で、各地方に独自の最低賃金を決めることを認めている国もあります。アメリカがその1つです。ニューヨークやカリフォルニアなどで、独自の最低賃金を設定しています。ほかにも、ロシアとブラジルが同じ制度を導入しています。

この制度を導入している国と、地域別最低賃金を設定している日本以外の3つの国には、1つ、決して無視してはいけない特徴があります。それは、国土が非常に広いということです。面積で見ると、ロシアが世界第1位、カナダが第2位、アメリカが第3位、中国が第4位、ブラジルが第5位、インドネシアが第15位です。それに対して、日本は世界第61位です。

国土が広いと、自分の住んでいるところより最低賃金が高い地域があっても、移動するには多くの障害をクリアしなくてはいけないので、労働者はそう簡単には移動しません。

「全国一律」にしたイギリスでは、失業は増えなかった

実は、この点が日本での最低賃金のあり方を考えるうえで、大変重要なのです。

地域別に最低賃金を設定した場合、交通の便がよく、移動が容易なほど、労働者は最低賃金の低い地域から高い地域に移動してしまう可能性が高くなります。最低賃金の低い地域からは、段々と人が減り、経済には大きな悪影響が生じ、衰退していくことになります。


『日本人の勝算』刊行記念イベントとして、紀伊國屋書店 梅田本店主催、デービッド・アトキンソン氏の講演会を2/22(金)19時30分よりOIT梅田タワーで実施します。詳しくはこちら(撮影:今井康一)

前回の記事で、イギリスが1999年に最低賃金を導入したことはお伝えしました。このときのイギリスでも、最低賃金は地域別にするべきだという議論があったようですが、結局は「世界の常識」である全国一律最低賃金にしました。

イギリスで最低賃金を設定する際には、慎重のうえにも慎重に検討を重ねました。その結果、地方によって物価の違いがあるという事実はあえて無視しました。もちろん、最も賃金水準が低い地方に合わせて、最低賃金を低く設定することもしませんでした。物価と最低賃金導入以前の平均賃金が地域によって異なっていたにもかかわらず、全国一律の最低賃金を導入したのです。

その結果、最低賃金に合わせるための低所得者の所得の引き上げ率は、地方によって異なっていました。賃金水準の低いところでは、引き上げ率はかなり高い水準になりました。

前回も説明しましたように、「労働市場は完全に効率的に価格形成がされているので、最低賃金を上げると失業者が増える」という新古典派経済学の説は、実際の社会での実験の結果、否定されました。実際の事例に基づいて、「労働市場の価格形成はもっと複雑で、単純ではない」ということが海外の論文でも証明されています。

最低賃金は、引き上げ方次第で雇用にはほとんど影響しないことが注目されていますので、イギリスも全国一律最低賃金制度を導入したのです。

確かに、最低賃金の導入によって賃金の水準を大きく引き上げる必要があった地域に関しては、しばらくの間、起業のペースや新規雇用の増加率が相対的に低下しました。しかし、失業率が高まるなどの、既存の雇用者への影響は見られませんでした。

この事実も日本にとって大変重要です。日本ではこれから生産年齢人口が減り、企業数も減ります。ですので、既存雇用への影響は最も大事な確認事項になるからです。

一方で、最低賃金を上げると、それが刺激になって、生産性が上げられることが確認されています。

最低賃金の格差」と「地方衰退」の悪循環

今までのように最低賃金の水準を都道府県別のままにしておくと、日本の地方はさらに衰退を続けることになるでしょう。日本は国土がそれほど広くないうえ、全国の交通インフラが整っているので、移動が簡単です。

このまま東京と地方の最低賃金のギャップが拡大し続けると、労働者は地方を離れ、ますます東京に移動してしまうでしょう。以下のプロセスで、地方の衰退が引き起こされるのです。

 地方の最低賃金が相対的に低いから、若い人がその地方を出る
→人がいなくなるから、経済基盤が弱まる
→経済が弱いから最低賃金が上げられない
→東京などとのギャップが広がる
→さらに人がいなくなる
→東京などとのギャップがさらに広がる

このような「悪循環」としか呼べないループが、都道府県別の最低賃金により引き起こされているのです。

地方衰退の悪循環は、かなり前から始まっています。事実、地方の最低賃金水準と県民の数を比較すると、0.88という大変強い相関係数が認められます。2040年の人口予想では、その相関はさらに強くなります。地域別最低賃金が地方の衰退を引き起こしている可能性は極めて高いと思います。

前出の議員連盟の議論の中では、外国人労働者の受け入れも、全国一律最低賃金を導入するために考慮するべきポイントとされています。

外国人の受け入れを最も希望しているのは地方の事業者です。しかし、外国人労働者の訪日目的はお金を稼ぐことなので、とりあえず地方から日本での生活を始めたとしても、東京など賃金の高い都会に移りたいと考えても何の不思議もありません。

ですので、今までのように東京と地方の最低賃金のギャップを放置したままにすると、東京への集中は外国人まで巻き込んで、今まで以上に進むこととなるのです。

地方創生を掲げながら、地域別最低賃金制度のもと、東京などとの最低賃金のギャップによる地方の衰退を誘導している政策は、明らかに矛盾しています。

「現状維持志向」と「想像力の欠如」が問題

最低賃金を都道府県別にすると、先ほど説明したような悪循環が生まれることは、ちょっと頭を使えばすぐに想像がつきます。しかし、なぜ今のような制度が長年放置されてきたのでしょうか。

私は、日本独特の「現実に則した物事の決め方」に問題があるうえ、「想像力が乏しい」からだと思います。この問題の根源を理解するためには、そもそも最低賃金がどう設定されているかを理解する必要があります。

厚生労働省のホームページには、最低賃金は次のように決まっていると書いてあります。

最低賃金は、最低賃金審議会(公益代表、労働者代表、使用者代表の各同数の委員で構成)において、賃金の実態調査結果など各種統計資料を十分に参考にしながら審議を行い決定します」

「地域別最低賃金は、(1)労働者の生計費、(2)労働者の賃金、(3)通常の事業の賃金支払能力を総合的に勘案して定めるものとされており(以下略)」

要するに、最低賃金は福祉政策の一環で、生産性が低い場合には最低賃金も低くて当然と考えられているようです。

しかし、この最低賃金の決め方は大きな問題をはらんでいます。人口が減少し、その影響でデフレになった場合、この最低賃金の決め方では、最低賃金そのものがデフレスパイラルの悪循環を引き起こすことになりかねません。それと同時に、生産性向上という国策を骨抜きにする可能性もあるのです。

現実に則して最低賃金を決めようとすると、現状の支払能力を勘案し、事業者の今現在の予算を事後的にどう配分するかだけに終始してしまいます。この決め方をしていては、現状維持がせいぜいでしょう。

これでは経営者に刺激を与えることはなく、今まで通りに経営すればいいというインセンティブを与えることになります。生産性を高めるインセンティブが働かなければ、所得が増えることもなく、その地域の経済が次第に衰退していくことになります。

私が、今の最低賃金の決め方が想像力に乏しいと感じるのは、今の決め方が、「支払能力が固定であること」を前提としているからです。あたかも事業者の支払能力は変えられないと想定されているのです。

しかし、事業者の支払能力というのは、当然のことですが、可変です。変えようと思えば変えられるものです。生産性を向上させれば、事業者の支払能力も上がります。特に多くの地方にはインバウンドの観光需要が増加しているので、新しいビジネスモデルに挑戦する絶好のチャンスでもあります。

何度も繰り返していますが、人口が減少する以上、日本では生産性を向上させることが国家の死活問題となっています。しかし、現状の事業者の支払能力を前提に最低賃金を設定すれば、経営者を刺激することはできず、またしても彼らを「現状さえ維持できればいい」と勘違いさせることになりかねません。

それでは彼らの中に、生産性を向上させる意欲を生み出すことも、新しい技術を導入する動機を作り出すこともできません。結果、日本の最先端技術の普及を妨げることにもなるでしょう。特に、年齢の高い経営者を挑戦に駆り立てることは困難になるでしょう。

別の切り口からも、地方創生と都道府県別最低賃金の矛盾を指摘できます。

国全体で最低賃金の引き上げに挑戦することが決まって、全国の経営者がそれに向けて生産性を上げることに努力することとなったとします。

地方によっては、経営者たちが「私たちは参加しない、努力しない」と、自分の地域だけ最低賃金が上がらないようにゴネることも考えられます。そうなれば、努力した地方の生活水準が上がって、努力しない地域は衰退したままになります。

そのとき、努力しなかった経営者たちは、必ず「補助金を出してほしい」と言ってくるでしょう。これは、典型的な制度上のモラルハザードです。要するに、この制度のままでは、国策を無視することができて、生産性向上政策が全国津々浦々まで及ばない可能性が高くなるのです。

「低いほうに合わせる」は、やってはいけない愚策

今の日本の最低賃金の制度は、昭和の時代のままです。昭和のままの最低賃金の制度を放置すると、地方経済も昭和のまま置き去りになってしまい、若い世代はますます東京に集中してしまいます。

最低賃金を全国一律にし、さらに水準を引き上げて、全国津々浦々で生産性を向上させる挑戦は、日本にとっては初めての試みなので、期待通りの成果が上がらない可能性もないことはないでしょう。しかし、今までの制度のもとでは 、地方経済は確実に、そして深刻に衰退します。

繰り返しますが、地域別最低賃金制度は世界的に見ると稀な制度です。これを世界標準である全国一律に変えるのは、日本にとって非常に価値ある試みです。もちろん、今度とも地方創生のための支援は引き続き不可欠ですが、全国一律最低賃金によって地方に夢を与えるのは、大変重要で、かつ有効だと私は確信しています。

最後に、私は地方にこそ最低賃金の引き上げが必要と考えています。ですから、全国一律にする際、最低賃金が低い地域に合わせて帳尻を合わせることは許されません。東京の最低賃金を引き上げつつ、地方の引き上げ率をより大きくして、現状1.3倍にも拡大されてきた東京と地方のギャップを縮小させることに、大きな意味と価値があるのです。