アジアカップで準優勝に終わった森保ジャパン。結果を数字で表せば6勝1敗となる。それ以前の親善試合で収めた成績が5戦して4勝1分けだったので、アジアカップ決勝対カタール戦は、森保ジャパンが許した初黒星だったことになる。

「森保ジャパンの通算成績はこれで10勝1分1敗になりました」

 テレビのスポーツニュースはこう言うだろう。しかし日本は、フランスやベルギー、ドイツやスペインではない。FIFAランキング50位という現実と、この通算成績との間には大きなギャップがある。50位のチームにしては勝ちすぎ。となれば、対戦相手の程度が知れる。親善試合がすべてホーム戦という対戦環境の緩さも同時に浮き彫りになるが、スポーツニュースの原稿が、日本代表の現状を示す数字としてどれほど的外れかは、世界ランクとのギャップで明白になるのだ。

 代表戦の結果に一喜一憂することはナンセンス。結果至上主義がいかに馬鹿げた視点であるか、少し考えれば理解できるはずだが、勝利という現実を目の前にすると、必要以上に喜ぼうとする習性が日本にはある。ムードに乗っかろうとする商魂とも相まって同調圧力は最高潮に達する。ネガティブな話はしにくい環境に置かれる。瞬間的に日本は、ランク50位の国とは思えぬ強国と化す。

 準決勝のイラン戦に3-0の勝利を収めた後の日本は、そうした状態だったに違いない。ところが、決勝でカタールに敗れると、それまで発見しにくかった批判的な意見が急に登場。メンバー交代が遅い等々、メディアにおいても批判的な意見が飛び交うようになっている。負けることの必要性を感じさせるが、とはいえ、勝って喜び、負けて怒る姿は、日本の世界的な立ち位置を考えるとあまりにも単純だ。

 理想的な敗れ方は、それでもなお拍手を送られることだ。負けたけれどよかったと言ってもらえる敗戦だ。最近の代表戦で言うなら、ロシアW杯の決勝トーナメント1回戦の対ベルギー戦。西野監督が選手交代のカードを1枚分、残して敗れた点は残念至極だが、それを圧してもよくやったと讃えたくなる敗戦だった。試合に敗れても讃えたくなるサッカーを、選手たちはしていた。

 もう一つは「ドーハの悲劇」。1994年アメリカW杯アジア最終予選の最終戦で、イラクと戦った一戦だ。現場で、ガックリ膝をつく選手たちを目の前に、さすがによくやったとは言えなかったが、その直後に書いた原稿には、大善戦だったと記したものだ。
 
 ドーハの悲劇は、年月が経つほどその敗戦の価値を高める結果になったが、「ロストフの悲劇」はどうだろうか。あれ以上、惜しい試合に今後、遭遇することはできるだろうか。
 
 ロストフの悲劇には、交代カードを1枚出し損ねた西野采配が絡んでいた。しかし、その時コーチを務めていた森保一現監督は今回のアジアカップで、その反省を活かすことができなかった。選手交代を軽んじるサッカーを展開。カタール戦では交代カードこそ3枚すべて切ったが、いずれも期待感に乏しい采配で、3人目の交代(南野拓実→乾貴士)に至っては、後半44分という、勝っているチームの時間稼ぎ交代を連想させる、遅すぎる交代と言えた。ロストフの悲劇を薬にすることができなかった。

 10勝1分1敗。この数字は、監督として学ぶ機会が少ないことを意味する。5勝5分け5敗の設定にするのが難しいなら、メディアは勝利至上主義に基づく報道姿勢を捨てなければならないが、これもできそうにない。日本は監督が成長する環境にはないのだ。

 なにより、森保監督は代表監督就任にあたり自らの哲学を語っていない。それらしき見解を会見で問われると「臨機応変」という言葉を発した。その後、「柔軟さ」、「戦う姿勢を持ち続ける」、「継続する力」等々、いくつか会見で言葉を残しているが、どれも当たり前すぎる言葉だ。