藤子不二雄先生のアシスタントとして働いていたえびはら氏に、仕事場の裏話や『ドラえもん』の制作秘話などを語ってもらった(撮影:梅谷秀司)

国民的漫画『ドラえもん』は来年で生誕50年。その愛され続ける理由とは。『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガドラえもん達との思い出編』を描いた漫画家のえびはら武司氏に聞いた。

“黒歴史”を乗り越えて人気勝ち得た


──リオ五輪の閉会式、次の東京五輪のPR映像でも「ドラえもん」は重要な役で登場しましたね。

作者の「藤子不二雄」とは藤本弘(後に、藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(同、藤子不二雄A)の合作ペンネーム。『オバケのQ太郎』でブレークしました。ただ僕が2人の「藤子スタジオ」に弟子入りした1973年にはもう合作はやめていて、ドラえもんは藤本先生と僕のほぼ2人で描いていました。

──『ドラえもん』の詳細はチーフアシスタントさんが決めたとか、いろんな裏話が出てきます。案外そんなノリで進めていくものなんですか? 手が回らないときは助っ人を呼んで代筆を任せるとか。

話の流れで重要な設定はもちろん先生が考えます。でもストーリーに直接関係ない属性は、勝手にやってという感じ。「ジャイアン」の本名「タケシ」も僕の名前。最初ジャイアンはジャイアンで通してた。名前をつけて同名の子がいじめられたらかわいそうだから、と。でもそのうち、「何でジャイアンだけ名前がないんですか?」って子供たちから投書が来た。それで急きょ、隣で手伝ってた僕の名前と誕生日が使われました。

──今や押しも押されもせぬドラえもんにも“黒歴史”があったとか。

僕がアシスタントで入ったのは、日本テレビで『ドラえもん』のアニメが終了した年でした。久々のアニメ化で喜んでたのもつかの間、この日テレ版は全然人気が出なくて半年で打ち切りになった。原作にない話やキャラクターが出てきたり、途中でドラえもんの声が変わったり、いじりすぎたんです。

アニメ化した人が原作をちゃんと理解してなかったんですね。作り方があまりにメチャクチャで、こんなのもう、ドラえもんじゃないって作品になっちゃって。見てる側が訳がわからずついていけなくなった。先生は、この件についてはいっさい語りたくない、と。

──アニメ化に際して、原作者はノータッチなんですか?

ええ、漫画は藤子スタジオで描くけど、アニメはアニメ制作会社が作る。暇を見てチェックすればよかったんだけど、そんな暇がなかった。結局、でき上がったものを見せられて終わりです。


えびはら武司(えびはら たけし)/1954年生まれ。高校卒業後、1973年千代田デザイナー学院入学、同時に藤子スタジオにアシスタント入社。1975年退社後、映画配給会社、広告代理店を経て1980年『まいっちんぐマチコ先生』を『少年チャレンジ』で連載開始。追ってアニメ、実写版、舞台版も(撮影:梅谷秀司)

当時はテレビアニメが終了したら雑誌連載も終了というのが定番で、藤本先生は「もっと評価されてもいいのになあ」と落ち込んでた。そこで僕は「原作は数百倍面白い。絶対『ドラえもん』をやめちゃダメです」と必死に訴えました。

ドラえもん』の人気が出たのは、その後単行本が出てからなんです。出版社と交渉して、それじゃ売れない覚悟で全6巻出してやるという話になった。連載してた学年誌より、単行本のほうが子どもから大人まで広く手に取ってもらえる。

すると、こんな漫画があったのかとジワジワ人気が出て、100万部、200万部、1000万部、最終的には45巻1億部以上売れました。その後、今度はテレビ朝日でアニメ化され、ドラえもんは世界中に羽ばたいていった。

大卒者の初任給よりもらっていた

──山あり谷ありの現場の空気感が手に取るように伝わってきます。

藤子スタジオのアシスタントは7〜8人で、藤本先生にはもともと先生のファンだった僕1人、ほかは全員安孫子先生についていた。藤本先生が超マジメで寡黙なのに対し、安孫子先生は社交的で話しやすいというのもあったかな。

一方の人手が足りないと、アシスタントはそちらへ手伝いに回るので、そうとう忙しかったのは事実です。10代最後の2年間、僕ももう無我夢中でした。連日徹夜とか残業月200時間、300時間は当たり前。今ならブラックですね(笑)。その分、たぶん業界一の好待遇で、残業代に夜食代、少し多めの深夜手当がついて、当時大卒サラリーマンの初任給より高かった。

──1987年に別々のペンネームにする前も、2人の先生が共同で何かすることは、あまりなかったんですか?

ドラえもん』にはいっさいタッチしてなかった安孫子先生が、何かの場でファンから「ドラえもんを描いてください」と色紙を渡されて、全然似ていないドラえもんを描いたりはしてましたよ(笑)。確かに藤子不二雄だけど自分は違うんだ、なんて子どもには言えませんから。

部屋も藤本先生は大部屋でアシスタント全員と机を並べ、僕らがギャーギャー騒いでても、横でベレー帽をかぶりパイプくわえて黙々と仕事していた。

一方、ほとんどのアシスタントがついてる安孫子先生のほうが1人個室でした。たまに2人でテレビに出ても、しゃべるのは8割方が安孫子先生。接待やパーティー、ゴルフも安孫子先生が担当。藤本先生はもともと社交的ではないので、絵描きに専念できて楽だったと思います。

雑誌の写真なんかで2人並んで写ってるけど、それはそのときだけ安孫子先生が隣室からやってきて、あたかも「いつも2人一緒です」ふうのポーズを取って、取材が終わればサッサと引き揚げていく。何かトラブルがあって2人で相談してたりすると、一ファンだった僕にはすごく貴重な光景で、見ててウキウキしたものです。

ドラえもんがウケたのは「丸いから」

──慣れたアシスタントさんは重宝したと思いますが、両先生は決して抱え込もうとしなかったとか。

ここは修業の場で長くいる場所じゃない、って言われましたね。自分の作品を早く描きなさい、と。だから当時は2〜3年で辞めるのが当たり前だった。アシスタントっていわば弟子。弟子が何年もいちゃいけないですよ、やっぱり。

弟子を早く一本立ちさせようと、藤子スタジオで同人誌『Q』を発行しました。いつまでもオリジナル作品を描こうとしないアシスタントたちに無理やり描かせて、各誌の編集部に配ってくれた。こんな新人がいますよっていうカタログですね。実際に、編集者の目に留まってデビューしていく人もいました。僕の『まいっちんぐマチコ先生』もこの同人誌が原点です。

──今も再生産され続けるドラえもん。その究極の魅力とは?

ストーリーはもちろんだけど、頭も胴体も目も鼻も、全部丸で描けるシンプルさが大きいんじゃないかな。丸ってやっぱりいいんですよ。シンプルなほどウケる。丸でデザインするって実は大変なことで、ドラえもんは丸で構成されたデザインの完成形なんじゃないかな。藤本先生の才能でしょうね。