34歳、国立大卒の美しき才女、高木帆希

「家事手伝い」という名の「無業」で10年もの間、ぬくぬくと過ごしてきた帆希に、突如、降りかかった「父の死」。

年下の彼氏・牧野涼輔の家に転がりこもうとするも別れを告げられ…

二子玉川の兄夫婦の元へと転がり込むも失敗…。

そんな中、何故か父・港一が助けた痴漢被害者の桧山泉と奇妙な共同生活を送ることになった最中、泉の妊娠が発覚し、お腹の子の父親であるユウジに話をつけにいく帆希。だが、ユウジの思いがけない行動により、帆希は泉との関係を壊されてしまう。

行くあてもなくたどり着いたインターネットカフェで、自分自身の過去を振り返った帆希は…。




「ごめんね、急に来ちゃって」

私は目白の家を訪ねていた。久しぶりに戻った我が家は、懐かしい匂いがした。

整備された林のように父の書架が並び、窓辺から射しこむ日の光で、母が選んだ調度品たちは猜譴慮沈″という色彩を放ちながら浮き上がっている…なんて妙に文学的な表現がしたくなるのは、兄と対峙している「今」に緊張しているせいなのかもしれない。

「ちょっと痩せたんじゃないか?」

「まぁ、色々あったからね」

「そうか」

日頃、強気で冷静な兄が、何となく今日は気弱に見える。私に対して、罪悪感を抱いているからなのか? どことなく落ち着かない雰囲気を漂わせていた。

いつも隣にピッタリと寄り添う兄嫁がいないせいかもしれないが。

「この数か月、私なりに行動して見えたことがあって。これからのことも考えたから、ちゃんと聞いてほしいの」

私は、この目白の家を出てから経験した出来事を兄に話していた。真剣に婚活したら、昔フッた男に復讐されたこと、北関東の山奥の怪しげな団体の施設に居たこと、泉との共同生活…兄は、「信じられない」といった表情で私を見つめていた。

10年もの間、この「我が家」に籠城していた私を近くで見ていた兄にしてみれば、あり得ないと思うのは当然だろう。

しばらく黙って私の話を聞いていた兄が、ため息をついた。それから唇を少しだけ横に広げるように微笑みながら、「お前は、人様に迷惑ばかりかけてきたんだな」とつぶやいた。

「そう、その通り。私は厄介な人間だと思うよ。自分でも呆れてる。でもね、それでも私は、この不十分な私で生きて行くしかない」

私だって兄のように立派な人になりたかった。だけど、私は、このとんでもない私と付き合いながら生きて行くと決めたのだ。

「だからね、泣き寝入りしてこの家を出て行ったけど、ちゃんと私の権利を主張させてもらう。二時間ドラマか!って引くくらいの骨肉の争い的なこともするつもりで今日はここに来たんだから!」

鼻息荒く、少し勇気を振り絞って兄に主張した私。不機嫌に叱られてもかまわないと覚悟していたが、兄は意外にも…大笑いし始めた。

「お前は本当に面白いなぁ」

何だか拍子抜けするような兄の態度に、私は戸惑いを隠せなかった。


兄はなぜ、突然笑った?その意外な理由とは?


「まぁ普通、34歳の社会人ならあんなめちゃくちゃな遺言書に疑問を持つだろうし、遺留分減殺請求にたどり着くだろう?普通」

「普通って…どういう意味? まさか、あの遺言書って…嘘?」

「父さんから、頼まれてたんだよ」

どうやら私は、根本から色々と間違っていたようだ。

生前、父は自分にもしものことがあった時、私がまだ父の脛をかじっていたとしたら、大芝居を仕掛けるよう兄に頼んでいたそうだ。

父にしてみたら「冗談のひとつ」くらいだったのかもしれなかったらしいが、私の「財産でなんとか今までの生活をキープできる」オーラに、兄はカチンときてしまったそうだ。

「素直というか世間知らずというか…まぁ、お前が家から一歩でも出て何とかしようとしただけでも意味があったよ」

―最悪だ。色々と最悪だ。父に対しても、兄に対しても、何だか解せない。

インターネットカフェで自分の黒歴史と向き合って、父に想いを馳せ、将来のこととか真剣に考えて、5歳くらい一気に老けてしまった気分の、私の時間を返せ! と言いたくなるくらいイライラしたが…もう、そんなことどうでもいい。

骨肉の争いをせずにすむだけで御の字だと思おう。我が家に戻って何とか生活できるならそれでいい。

「私ね、やっと自分がやりたいこと見つかったの」

私は、これからのことを兄に話していた。

私なりに出した答え。

この数か月感じたこと、出会った人から影響を受けて、自分と向き合って決めたことを兄に伝えたのだ。

「お前の好きにしろ」

最後に兄は呆れながら笑っていた。

ーよし、ひとつ問題はクリア出来た。

あとひとつ…心残りを整理しなければ。




私は『ザ・カフェ by アマン/アマン東京』にユウジを呼び出していた。

「素敵なお店ですね。やっぱり作家の娘だけあっていいセンスだ」

「よかった、喜んでくれて」

「泉から変なこと吹き込まれて、避けられてるかと思ってたから…今日は嬉しいです」

ユウジはそう言うと爽やかな笑顔を私に向けた。

「彼女とはどうなの? あれから話はしたの?」

私が尋ねると、ユウジはおどけたような表情を浮かべて言った。

「ああ、泉は新しい彼氏ができたとかで…子供も諦めたって…結局、フラれましたよ」

やけに感傷的なユウジ。コーヒーカップを指でなぞっているが、それがいつもの手慣れた「ポーズ」だということくらい、私にでもわかる。

「でも、こうやって帆希さんと再会できたし…っていうか泉とのことも、帆希さんと出会うためだったかもしれないし…」

上目使いにユウジは私を見つめていた。潤んだ瞳がキラキラと輝いている。

この男は、この分かりやすい手口で、女の母性につけこんできたのだろうか。正直、吐き気がした。

「こんなこと言ってるけど…この人。どう思う? 泉さん」

私は、ユウジの真後ろの席に背を向けて座っていた泉に声をかけた。ユウジは何を言われたのかピンときていない。間抜けな顔でこちらを見つめている。

泉は立ち上がると、手に持っていたグラスをゆっくりとユウジの頭に傾けた。

「冷たっ! ちょ、何だよ!」

振り返ったユウジをジッと睨みつけている泉。

「こんな男を好きだった自分が恥ずかしい…」

そうつぶやくと泉は、思いっきりユウジに平手打ちをしたのだ。

「泉…あの…暴力は反対だな…女の子は…優しくないと…へへ」

ユウジはヘラヘラと薄っぺらい言葉を並べながら足早に去っていく。

泉は呆然と立ち尽くしながら、情けなく微笑んだ。

「見る目…ないですよね…私。帆希さんのこと信じられなくて…あんな酷いこと言って…ごめんなさい」

私は今にも泣きそうな泉を座らせ、「私のことは気にしなくていいから」と伝えると、泉は少し落ち着きを取り戻した。

「あんな男は、もう相手することないけど、お腹の子は? 泉さんはどうしたいの?」

私は妊娠した経験もないし、ましてや一緒に育てることの出来ない最悪な男の子供を宿したこともない。だから、泉の気持ちはきっと理解してあげることはできない。

産む、産まない、どちらを選ぼうと泉の出す決断はきっと正解なんだと思う。ただ、本当の想いを私は知りたかった。こんな私でも何か泉の力になれるかもしれないからだ。

「産まないほうがいいに決まってます」

泉は私の目をしっかりと見て話し始めた。泉がそう決めたのなら、それでいい。

「だけど…私は…産みたいです…どんなに最低な男の赤ちゃんでも…もう…私のここに居るから…私、バカなんですかね?」

泉は愛おしそうにお腹を撫でている。その姿が、あまりにも美しかった。


帆希と泉。二人の女の行く末は…?


新しい命


数か月後―。

「鼻から象が出ちゃうくらい痛いって本当だった?」

私は、泉が出産した産婦人科の病室にいる。泉が横になっているベッドの脇に、小さなベビーベッドがあった。恐る恐る覗き込むと、小さくて弱々しく見えるけれど、清潔でキラキラとした赤ちゃんが眠っていた。

命の塊だ。凄い。泉のお腹の中に、ずっといたんだと思うと不思議で仕方なかった。

「帆希さん、もうすぐ入試ですよね? 終わって落ち着いてからで全然、よかったのに」

「新生児のイケメンパワーを頂こうと思ってね」

泉がユウジの子供を産むと決めたあの時、私もあることを決めていたのだ。

そう、私はもう一度、大学で塗装の勉強をし直し、イチから…いや、ゼロから始めようと、今、受験勉強の真っ最中なのだ。

「大学で勉強するって凄いなぁって思うんですよ、リスタートっていうか。でも、よく考えたら…受かったとして学生になったら…無業が延長されるってことですよね?」

「まぁ、そうだけど」

「働かないで生きる、都合のいい言い訳閃いただけだったらって…まさか…」

私は泉に向かって優しく微笑んだ。

泉も私の笑顔に何か悟ったようで、呆れ顔でベビーベッドへと視線を向けた。

「こんな大人になっちゃダメだし、こんな女に引っかかっちゃダメだよ!」

泉の願いは、思いのほか切実さをはらんでいる。

そんな泉をよそに私も、ベビーベッドを覗き込みながら心の中でつぶやいた。

「大きくなって、月に旅行出来ちゃうくらいお金持ちになって、私を養って!」

目の前のキラキラとした命の塊が、嫌そうな顔をした気がして、私は何だか楽しい気持ちになるのだった。

Fin.