181系ボンネット型車両の特急「とき」(筆者撮影)

私が初めて「ボンネット型」の特急電車に乗ったのは、18歳だった1964年のこと。東海道新幹線開業の半年前であった。

乗車したのは名古屋―東京間の特急「第2こだま」。名古屋駅の隣のホームには紀勢本線の蒸気機関車C57が停車していた。当時、特急列車はまだまだ高嶺の花で、私はどうして「こだま」に乗れたのであろう。おまけに東京に着いた後は、浅草から鬼怒川温泉まで東武の特急「デラックスロマンスカー」に乗ったのだから、若くして相当のぜいたくな旅行をしたわけだ。

この初めての特急の旅がボンネット型車両だったこと、そして故郷の北陸本線が電化されて最初の特急電車「雷鳥」「しらさぎ」もボンネット型の481系電車だったこともあり、私の鉄道写真家人生において「ボンネット型特急」は特に思い入れの強い列車なのである。

国鉄特急電車の象徴


名古屋駅で紀勢本線のC57形蒸気機関車と並ぶ特急「こだま」151系電車(筆者撮影)

かつて国鉄特急電車の象徴的存在であったボンネット型特急が登場したのは1958年。それまでの機関車牽引に代わる初の電車による特急として、同年11月に「こだま」の運転が始まった。最高時速110kmで東京―大阪間を6時間50分で結び、両都市間を日帰り可能とした列車だ。

この列車のために投入されたのが20系電車、のちの151系である。高速運転時における前方の視界をよくするため運転台を高い位置に置き、前面はスピード感あふれる流線形のボンネットスタイルを採用。最初に「こだま」に使われたことから「こだま形電車」とも呼ばれるようになった。

特徴的な形状のボンネットの中は、圧搾空気を作るコンプレッサーや電動発電機などが収められていたという。こだま形電車は1959年7月に藤枝―金谷間で行った走行試験で、当時の狭軌鉄道で世界最高となる時速163kmをマークし、新幹線開発の礎となった。


特急「しおかぜ」(新大阪―広島)に使用される151系。先頭は「パーラーカー」クロ151形(筆者撮影)

こだま形電車は優秀な性能で成功を収め、その後東京―大阪・神戸間の「つばめ」「はと」、東京―宇野間を結ぶ四国への連絡列車「富士」、東京―名古屋間の「おおとり」、大阪―宇野間の「うずしお」などの特急列車が次々と電車化され、日本の鉄道に新たな時代が到来した。

ボンネット型のバリエーション

こだま形のボンネットスタイルはほかの車両にも影響を与えた。


独特の顔から「ブルドッグ」と呼ばれたキハ81系(筆者撮影)

非電化区間の特急列車では、1958年10月から独特のスタイルをしたボンネット型気動車、キハ81系が上野―青森間の「はつかり」として運転を開始した。その顔から「ブルドッグ」の愛称でも呼ばれ、1961年、鉄道友の会が優秀車両に贈る「ブルーリボン賞」を受賞したが、初期故障も多く「はつかり号はがっかり号」などとも揶揄された。

このボンネット型気動車はのちに特急「いなほ」や「くろしお」などにも使用されたが、1979年に「くろしお」での活躍を最後に廃車となった。現在は、京都鉄道博物館で先頭車が静態保存されている。


東武鉄道の「デラックスロマンスカー」1720系特急電車(筆者撮影)

また、東武鉄道は1960年、浅草―日光・鬼怒川への特急に新型の1720系電車「デラックスロマンスカー(略称:DRC)」を投入した。

こちらもボンネット型だが、その形状は前面のヘッドライトなどがぐっと突き出ており、スピード感あふれる格調高い特急電車だった。ライトなどの形は、当時流行の日産セドリックの縦形ヘッドライトを意識したとも言われた。その名称から「デラ」と呼ばれ親しまれた車両だ。


特急「とき」として活躍する181系。ヘッドマークは「とき」「朱鷺」「TOKI」と3つの表示がある(筆者撮影)

「こだま形」はその後も増え、1962年には上野―新潟間の特急「とき」用として派生形の161系が登場。1965年には151系・161系の性能・仕様を統一し181系となった。

走り始めたころの181系「とき」は運転台の左右にバックミラーが付いており独特のスタイルをしていた。ボンネット先端に掲げられたヘッドマークは「とき・朱鷺・TOKI」の3つの表記が目を引いた。181系は「とき」以外に「あずさ」や「あさま」にも使用された。


特急「雷鳥」の481系ボンネット車(筆者撮影)

北陸・九州の鉄道が交流で電化されると、これらの地区にもボンネット型特急が走り始めた。交流・直流の両方に対応した481系だ。1964年、電化されたばかりの北陸線に「雷鳥」(大阪―金沢・富山)、「しらさぎ」(名古屋―金沢)が登場すると、筆者は北陸路で初めて見る「こだま形」に感激して、安物カメラに白黒フィルムで撮影したものだった。

ちょっと「異色」の車両も

1965年には東北本線が盛岡まで電化されたのに伴い、東北方面用として交流50Hz対応の483系が投入され、それまで気動車だった上野―仙台間の特急「ひばり」が電車による運転となり、さらに増発も行われた。さらに1968年からは、交流50Hz・60Hzと直流に対応し、国鉄の電化区間すべてを走れる485系が誕生した。

1972年には、急勾配区間である信越本線横川―軽井沢間で、後押しするEF63形電気機関車と協調運転できる489系もボンネット型で登場し、特急「白山」などに使われた。


スカート(前面下部)を赤く塗装したクハ481形。交流60Hzの九州から関東地方に転属し、常磐線の特急「ひたち」に使用されている姿だ(筆者撮影)


側面に小窓が並ぶクロ481形を先頭に走る「あいづ」(筆者撮影)

この時代、鉄道ファンの間で「赤スカートボンネット」と呼ばれ珍重された車両があった。前面のスカート部分を赤く塗装したクハ481形で、これは交流60Hz区間限定編成を表していた。主に九州で活躍したが、のちに関東地方に転属して常磐線の特急「ひたち」に使用され、ファンを喜ばせた。

もう1つ異色なボンネット型車両としては、481系のクロ481形がある。「ロ」はグリーン車を表し、つまり先頭車がグリーン車という豪華仕様。側面の窓が普通車と比べると小さい外観が特徴で、東北特急の「ひばり」と共通運用の「あいづ」に使われ、九州では「みどり」「にちりん」の一部で使われた。


絵入りのヘッドマークを付けた489系「白山」(筆者撮影)

1972年には全国の主要幹線の電化がほぼ完成して全国に特急電車網が広がり、運転本数の多い列車には「L特急」の名が付けられた。この時期から新たに製造される特急の先頭車はボンネット型から平面的な形に代わり、寝台兼用特急電車の583系なども合わせ、特急車両のバリエーションが豊かになった。この時期がボンネット型特急の最も活躍した時代ではなかろうか。

また1978年のダイヤ改正以降、特急電車のヘッドマークが文字だけのデザインから絵入りに変更されていった。ただ、私の好みから言えば、ボンネット特急のヘッドマークは「絵入り」のものより、漢字、またはひらがなにローマ字のものがふさわしかったような気がしてならない。

国鉄からJRへ、そして終焉


JR発足後、側面に「JR」のマークを付けて走る481系「にちりん」。先頭に立つのはクロ481形だ(筆者撮影)

その後、1980年代に入ると東北・上越新幹線の開業によって東日本の在来線特急は多くが廃止となり、1987年の国鉄分割民営化後はJR各社による独自開発の特急車両が相次いで投入された。JR化後は両サイドに輝く「JNR」マークをはがされ、塗装も大幅に変更されるなどしたボンネット型車両も多かった。

関東地方を走る特急でボンネット型が最後まで残ったのは、常磐線の「ひたち」だった。ボンネット型が数多く使われていた「雷鳥」も「サンダーバード」681・683系に置き換えが進み、ほかの特急でも国鉄時代の車両は次々と姿を消していった。


快走するボンネット型車両の「しらさぎ」(筆者撮影)

ボンネット型特急電車が定期運用で最後まで走っていたのは上野―金沢間の急行「能登」で、2010年をもって廃止された。日本の特急電車の夜明けを築いた流線形の特徴あるボンネットスタイルの車両は、ここにその歴史の幕を閉じた。

なお、ここで取り上げた181系や485系以外にも、新幹線0系や私鉄各社の車両など「ボンネット型」の車両は存在する。異論もあろうが、今回は一般に言われる国鉄特急電車のボンネット型車両を主として取り上げた。