買い物は、魔法だ。

流行の服と良質な宝飾品を買えば、美しい自分になれる。

贅沢なエステや極上のグルメにお金を費やせば、優雅な自分になれる。

女は買い物という魔法を使って、“なりたい自分”を手に入れるのだ。

ならば、どれだけ買っても満たされない女は一体何を求めているのだろう―?




キーボードを叩く右手の薬指に、ダイヤが散りばめられた可憐なカメリアの花が煌めく。

買ったばかりのシャネルのカメリアコレクションリング。20代前半の頃から長い間憧れていたものだ。

90万円近いリングだが、32歳にして年収1,200万円以上を稼ぐ高木紗枝にとっては決して無理な買い物ではない。

―やっぱり奮発して良かった。テンションあがる!

憧れだったリングが目に入るたびに、連日の激務でヘトヘトになった体にパワーがみなぎる。

次は何を買おうか?

そう考えるだけで紗枝の心は、まるで女王にでもなったかのように、えも言われぬ高揚感に包まれるのだった。



“バリバリ働いて、ジャンジャン好きなものを買う”。

それが紗枝のポリシーだ。

学生時代から必死に勉強してセカンドティアではあるものの外資系証券会社に入社したのも、“自立した女性”として豊かな人生を送るための選択だった。

年収1,200万円は、湯水のようにお金を使えるほどの額とは言えないかもしれない。でも、気に入った場所に住み、美味しいものを食べ、ときどき贅沢な「自分へのご褒美」を買うのには十分な金額だ。

―欲しいものはまだまだたくさんある。もっと素敵な自分になるためには、お金を使うことを惜しんでちゃダメよね。

ポジティブな物欲が自分の原動力だということを、紗枝はよく理解している。

この時の紗枝にとってはまだ、買い物は“幸せになるための魔法”だった。


憧れのリングが運んで来る、予想外の不穏な空気


有意義なお金の使い方。その認識がすれ違う


紗枝が仕事を切り上げタクシーに乗り込んだ時には、すでに時刻は24時を回っていた。

麻布十番に借りているマンションまでは徒歩でも帰ることができるが、ただでさえ多忙な毎日だ。「時間を買う」という意味でタクシーを利用するのは、有意義なお金の使い方だろう。

走り始めて5分もせずにマンションに到着すると、自宅のドアをなるべく音を立てないようにそっと開ける。

―きっともう寝てるよね。起こさないように静かに入ろう…。

だが予想に反し、奥のキッチンから「おかえり」と朗らかな声が出迎えた。声の主は、つきあって3年で先月同棲を始めたばかりの彼氏・慎吾だ。

「もしかして待っててくれたの?先に寝ててよかったのに」

「うん、たまにはゆっくり“実業家さん”の顔が見たくてね。熱いほうじ茶淹れたところだけど、紗枝ちゃんも飲む?」

慎吾は時折、紗枝のことを“実業家さん”と呼ぶ。サン=テグジュペリの「星の王子様」に登場する星の数をひたすら数え続ける仕事に追われる実業家に、日々数字に追われる紗枝をなぞらえているのだ。

ひとつ年上で大手電機メーカーに勤める慎吾との出会いは、3年前に通っていた朝活の読書会だった。

のんびりした雰囲気の慎吾の第一印象は「男っぽさに欠ける人」。正直なところ、はじめは恋愛対象として目に入っていなかった。しかし、「人生で最高の1冊」という読書会のテーマで、偶然にも同じ「星の王子様」を持ってきたのだ。

「三十路の男が児童文学を持ってくるのもどうかなと思ったんですけど、同志が居てよかった」

「大人になってからの方がこの本の良さが分かりますよね。『大切なものは目にみえない』。大好きな言葉です」

そう意気投合してから2人が恋人同士になるのに時間はかからなかった。

はっきりと聞いたことはないが、おそらく慎吾の年収は紗枝の3分の2程度だろう。もしかしたら、もっと少ないかもしれない。

しかし紗枝にとって慎吾の優しく詩的な性格は、高収入であること以上に魅力的だ。

スペックに捉われることなく、ただ心のままに愛した人。そんな慎吾と一緒にいる時だけは、心の底からリラックスできるような気がしている。




慎吾の淹れてくれた熱いほうじ茶を受け取ると、紗枝は同棲を機に購入したばかりのアルフレックスの名品・エーソファに深々と身を預ける。

60万円以上するソファの購入に慎吾は乗り気ではなかったが、「どうせ買うならいい物を」と紗枝が自腹を切ったのだ。家具や食器、キッチンのスポンジに至るまですべて厳選して買い揃えたこの部屋は、ごくシンプルな58平米の1LDKでありながら一流ホテルのように居心地が良い。

「あぁ、美味しい〜」

ほうじ茶をすすり心の声が漏れ出た紗枝に、慎吾が答える。

「あまりにも寒いから、暖まるもの飲もうと思って淹れたんだ」

「慎吾って本当に寒がりだよね」

紗枝はそう言いながらおもむろにスマホを手に取り、通販サイトにアクセスする。検索バーに「モコモコ 靴下 メンズ」と入力すると、画面にズラリと防寒用の靴下が陳列された。

「部屋の中でもこういうの履いてあったかくした方がいいよ。慎吾、どれにする?」

スマホの画面をぐいぐいと見せる紗枝に、慎吾はわざとらしくため息をついた。

「俺はいいよ、もったいないから…」

「えぇ〜、たかだか800円くらいだよ?」

「金額の問題じゃなくてさ、必要ないものはいらないって言ってるの」

「800円で快適な生活が手に入るなら“買い”でしょ。ホラ、これなんて可愛いよ?」

紗枝が食い下がると、慎吾はまいった、といった様子で少し笑う。

「まったく。お金を数えるだけじゃなくてしっかり使うのが、紗枝ちゃんと“実業家”の大いに違うところだね。…あれ?」

スマホを握る紗枝の手元を見て、ふと慎吾の顔色が曇った。

「紗枝ちゃん…そんな指輪持ってたっけ?」


気まずい雰囲気が、紗枝の物欲に火をつける


ストレス発散法は「カートに入れる」


「あ、気付いた?ずっと欲しかったシャネルのリング、先週銀座でちょっと時間が空いた時に買ったの」

「へぇ…」

心なしか、慎吾の表情がこわばったように感じた。

その表情の中に隠れている、ほんの僅かな非難。

それを敏感に感じ取った紗枝は、蓄積した疲労のせいもあってか自分でも意外なほどに過剰な反応をしてしまう。

「なに?別に慎吾にタカってるわけじゃないじゃん。買い物でモチベーション上げるのはいけないこと?」

「別に。そんなこと思ってないよ」

2人の間に気まずい沈黙が横たわる。慎吾はひと呼吸置くと立ち上がり「じゃ、そろそろ寝るね。おやすみ」と言い残して寝室へと引っ込んでしまった。




―何よ。久しぶりにゆっくり話すために起きてたんじゃなかったの?

慎吾に対して不満があるとすれば、この逃げグセだ。少しでも不穏な空気が流れると、衝突を避けてすぐに撤退してしまう。

争いを好まない穏やかな性格は、慎吾の持つ美点だろう。しかし、何事も根本的な問題解決を好む紗枝にとっては、言いたいことを飲み込んでいるように見える慎吾の姿は時々無性にもどかしく感じるのだった。

ほうじ茶のマグカップが手の中で熱を失っていく。

広いソファに一人ポツンと取り残された紗枝の体がブルっと震えた。

―寒い…。

紗枝は傍らに放り出していたスマホを再び手に取り、画面のロックを解除する。先ほど検索結果を表示したままにしてあったメンズの防寒靴下を適当に2、3見繕ってカートに入れると、続けて検索窓に「ルームウェア あったかい」と入力した。

ジェラートピケのルームウェアと、3万円を超えるベアフットドリームズのロングパーカーを、値段も見ずにカートに入れる。暖かで可愛い部屋着に包まれてくつろげば、今よりもっと満たされるに違いない。

ひとまず満足した紗枝は、冷え切ったマグカップをキッチンに下げながら先ほどの慎吾との会話について思いを巡らせた。

―さっきの慎吾への態度、仕事の疲れで八つ当たりしちゃったよね…。お詫びの印に、慎吾の分のルームウエアも買っておこうかな。

多忙な中少しでも一緒にいたいと1ヵ月前に始めた同棲だったが、ソファの購入を強行した時からだろうか。気持ちのすれ違いが増えてしまったように感じる。

モヤモヤとした現状を打破しようと再びショッピングサイトにアクセスした紗枝は、カシウエアの3万円を超えるバスローブをメンズとレディース各1枚ずつ選択する。ついでに、4万円程のダマスク柄のキングサイズブランケットもクリックした。

―この寒さが気を立たせるのよ。一緒にあったかくして過ごせば、きっと同棲前みたいに仲良くできるよね…。

カートに商品を放り込んでいくたびに、むしゃくしゃした気分が晴れていく。

「購入」のボタンをクリックした時には、先ほどまで紗枝を苛んでいた憂鬱な気分はすっかり何処かへ吹き飛んでいた。

この買い物が2週間後、紗枝を破滅へ導くことになるとも知らずに…。

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