都立高校の進学実績が、この30年で激変している。日比谷や青山といった都心の学校が復活している一方、立川や八王子東といった郊外の学校は実績を落とし、入学難易度も下がっている。不動産事業プロデューサーの牧野知弘氏は「この変化は人口の都心回帰と連動している。都心の学校ほど優秀な生徒が集まるようになった」と分析する――。

※本稿は、牧野知弘『街間格差』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■親世代の受験時とは大きく異なる現状

※写真はイメージです(写真=iStock.com/taka4332)

かわいいわが子の受験。子供をどこの学校に進学させるかは、親にとって最大の関心事のひとつであろう。

受験に関わらず、なんでもそうだが、一度自分で通過した物事の場合、その経験に立脚した視点で意見しがちである。しかし受験期を迎えた子供たちが通う塾からもらった資料などを見て、当時とは大きく異なった状況に驚かされることも多い。特に変化が激しいのが学校の合格可能偏差値である。たとえ自分が進学した学校であろうと、長く住んでいる地域だろうと、あらためて見てみて、いろいろ驚かされることが多いはずだ。

つまりこれは、自分たちが受験した時の学校絵図と現在のそれとがかなり異なっているという事実である。

戦後まもなくから高度成長期にかけての東京都内の進学コースで有名なものに「番町小学校⇒麹町中学校⇒日比谷高校⇒東京大学」があった。私の場合、やや時代が異なるがこのうちの麹町中学校を卒業した。もっとも麹町中学校は公立中学に過ぎず、地元に住んでいれば誰でも自動的に進学できる学校だった。地元の麹町小学校を出た私は何の苦労もなく麹町中学校に進学したのだった。

■都立高校が優秀な学生を独占していた時代

確かに、当時の日比谷高校は東京大学に毎年100名を超える合格者を出していた名門校だったが、そこに合格するためには、それなりに成績優秀でなければならない。そうした意味で、この「エリートコース」は都市伝説と呼んでいいのかもしれない。

そのほか、当時の都立高校には有名大学へ大量の合格者を出す進学校が数多くあった。日比谷高校のほかにも新宿区にある戸山高校、立川市の立川高校などがそれだ。これらは日比谷高校と並び、戦前の旧制府立中学。いわゆるナンバースクールと呼ばれた学校だ。

当時も私立の麻布高校や開成高校などの有名校は存在したものの、これらの都立高校は東京教育大学(現在の筑波大学)付属高校、同駒場高校、東京学芸大学付属高校などとともに優秀な学生を独占していたのである。

■学校群制度で「都立ガリバー」校が凋落

その後都立高校は、新しい入学者選抜方式として、1969年に学校群制度を導入。このとき同時に学区制を採用したことで、ほとんどの都立高校で学区外の学校の受験が認められなくなった。

当時の東京都の小尾乕雄教育長が唱えたのは「富士山よりも八ヶ岳」。学校間の格差を減らし、いろいろな学区で複数の優秀な学校を作ろうとしたのである。

しかし教育長の思惑とは別に結果として、日比谷や西といった都立のガリバー校は凋落。残念ながら都立高校はかなり低い八ヶ岳になってしまった。その一方で、都内それぞれのエリアとそのエリアの中心となる進学校の位置づけを明確にすることにつながっていった。

なお麹町中学校を卒業した私が進学先に選んだのが、当時家があった練馬区が所属する第3学区第32群の進学校である西高校。

■人口の郊外拡散に伴って進学校が移動

私が高校に進学した昭和50年頃は、都心に通うサラリーマンのベッドタウンが、中央線や京王線、西武線沿線に西へ西へと成熟した街並みを形成し始めた頃に該当する。

たとえば第3学区を形成する杉並区、中野区、練馬区はまさにその時期に成熟したエリアの典型であり、そこで教育熱心な親に育てられた子供たちは、学区内の進学校に進むようになったのだ。東京西部に広がる住宅地開発の流れはさらに、JR中央線の線路に沿って西に進み、国立市にある国立高校、八王子市にある八王子東高校といった都立高校が、地域の進学校としての地位を固めていく。

こうして人口が郊外へと拡散する中、日比谷高校らの進学成績は凋落していった。また下町の都立名門校であった上野高校や白鷗高校、両国高校、墨田川高校などの進学校も、台頭し始めた私立高校に優秀な生徒を奪われ、進学成績を落としていくことになる。

■白鷗、青山が復活し、立川、八王子東が凋落

牧野知弘『街間格差』(中公新書ラクレ)

都内どこからでも希望の都立高校を受験できるように入試制度を大幅に変えた際、当時の石原慎太郎都知事は「高校生なんだから好きな学校に電車に乗って通えばよい」といったようだが、通学時間はあまり長くないほうが良いに決まっている。また希望の高校までの交通利便性も重要な指標になったはずだ。その後、都立高校の入学者選抜方式はその後、幾度かにわたって改変され、現在では都内どこからでも「単独志願」で学校を選べるようになっている。また各学校に特色を持たせるために進学指導重点校、進学指導特別推進校などの指定や小石川中等教育学校(旧都立小石川高校)のような中高一貫校も設置されるようになった。

ではこうした動きがその後の都立高校の進学絵図にどのような変化をもたらしたのだろうか。学校の良し悪しを東京大学進学者数だけで判断するのが良いとは思わないが、あくまで参考数値という意味で、18年度の各都立高校の合格者数を見てみよう。

一時、東京大学合格者数が一桁台に落ち込んでいた日比谷高校の48名を筆頭に国立高校26名、西高校19名が続く。注目すべきは、進学成績を落としていた下町の名門校、白鷗高校が6名、都市部の学校で、こちらも一時期進学成績が低下していた青山高校が7名、小石川中等教育学校も12名の合格者を出している。一方、郊外人口の増加の流れに乗って進学成績を伸ばしていた立川高校は3名、八王子東高校に至っては進学指導重点校であるのにもかかわらず合格者が0名になっている。

※初出時、「白鷗高校が12名」としていましたが、「白鷗高校が6名」の誤りでした。訂正します。(1月30日19時00分追記) 

■都心部ほど良い生徒が集まる

この現象は入学者選抜制度の改変や各学校の進学指導などの努力の賜物である一方、人口の都心回帰の動きと連動しているように考えられる。

私立高校でもこの流れは顕著だ。たとえば、渋谷区にある渋谷教育学園渋谷高校。同系列の幕張高校は48名の合格者を出しているが、近年進学成績を急伸させた渋谷高校が25名もの合格者を出すに至っている。かつて東京大学への合格者を輩出していなかった、豊島区の本郷高校も17名。同じ豊島区の豊島岡女子学園は21名。38名の合格者を出した早稲田高校、48名の合格者を出した海城高校はいずれも新宿区、13名の合格者を出した攻玉社高校は品川区にある。

まとめると、公立でも私立でも、今は都心部にある学校ほど、良い生徒が集まる傾向にある。そして今やこの傾向は、大学のありようにまで影響を及ぼすようになっている。

■小学校も大学も都心回帰の潮流

都心の地価の高騰によって昭和の終わりから平成にかけて多くの私立大学が都心のキャンパスを捨てて、郊外に転出した。その代表的な街が八王子をはじめとする多摩地区だ。

しかし、多摩地区での人口減少を見越してか、このエリアに拠点を構えていた大学が都心へと移転するケースが急増している。たとえば、15年に中央大学が法学部を23区内に移転することを発表。既に共立女子大は2006年に千代田区に、14年には実践女子大学が2つの学部と短大を日野市から渋谷区に、15年には拓殖大学が2つの学部を文京区内に戻している。

トレンドとしては、多少地価が高くとも都心のブランドエリアに戻り、学生の人気を得ることが重要な戦略になっている。学校も所在する「街」のブランドを見定め、選びなおさなければ学生からそっぽを向かれ、死に絶えることが確実な時代になったのだろう。

もちろん、受験は高校や大学入試から始まるわけではない。今やマンションを購入する際のファミリー層の最大の関心事が「進学先の小学校の評判」だという。

都内三大名門公立小学校といえば千代田区の番町小学校、港区の白金小学校、そして児童相談所問題ですっかり有名になった南青山の青南小学校である。また教育レベルが高いと言われる文京区には3S1K(誠之、千駄木、昭和、窪町)と呼ばれる小学校がある。そうした学校の通学区にあるマンションはファミリー層に絶大な人気を誇り、新築も中古も高い価格で売れていくという。

■都心居住者が注目する「学校の立地」

これまでは圧倒的な住宅不足を背景に、より郊外へと住宅地が拡散し、そのエリア内で新たな進学校、有名校が生まれていくという構図だった。だが、夫婦共働きが前提となる中、現代の住宅選びは、会社までの交通利便性を重視し、都心居住を選択する傾向が顕著になった。そうした中で彼らがあらためて注目するのが学校の立地であり、何を隠そう「街」なのだ。このあたりの事情は著者の近刊『街間格差』に詳しく記してあるので、関心をお持ちの読者はぜひ目を通していただきたい。

学校側としても、これまでは大量の受験生から選抜できる立場にあった。しかし少子化が進む昨今、一部の有名校を除き、「お客様」となった学生が住む街の近くへと自ら寄りそっていかなければ経営が成り立たなくなってきているのが実情である。

つまり住宅購入客も学生も、学校自体も、望もうが望むまいが、自分たちが所在する「街」を主体的に選ぶ時代になっている。そしてただ単に「住宅というハコ=ハード」の価値だけを見て選ぶような時代から、「街」そのものを選ぶ時代に変わった今、それに伴って、東京23区内の不動産価値にも大きな変化が生まれつつあるのだ。

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牧野知弘(まきの・ともひろ)
オラガ総研代表取締役
1959年生まれ。東京大学経済学部卒業。第一勧業銀行(現:みずほ銀行)、ボストンコンサルティンググループを経て、89年三井不動産入社。数多くの不動産買収、開発、証券化業務を手がけたのち、三井不動産ホテルマネジメントに出向し、ホテルリノベーション、経営企画、収益分析、コスト削減、新規開発業務に従事する。2006年日本コマーシャル投資法人執行役員に就任しJ-REIT(不動産投資信託)市場に上場。09年株式会社オフィス・牧野設立およびオラガHSC株式会社を設立、代表取締役に就任。15年オラガ総研株式会社設立、以降現職。著書に『なぜ、街の不動産屋はつぶれないのか』『空き家問題』『民泊ビジネス』(いずれも祥伝社新書)『老いる東京、甦る地方』(PHPビジネス新書)『こんな街に「家」を買ってはいけない』(角川新書)『2020年マンション大崩壊』『2040年全ビジネスモデル消滅』(ともに文春新書)など。テレビ、新聞などメディア出演多数。

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(オラガ総研社長 牧野 知弘 写真=iStock.com)