西野ジャパンから森保ジャパンに切り替わるタイミングで、代表チーム入りした選手と言えば、南野拓実、堂安律、中島翔哉の3人がその代表格になる。1.5列目に位置するアタッカー。中島と堂安はサイドアタッカー、ウイングと言ってもいいが、3人は新時代の担い手として並称されてきた。

 中には三銃士などと称してもてはやすメディアもあったが、その3人の中から今回、中島が怪我で離脱。南野と堂安の2人だけになったいま思うことは、彼ら3人の関係が対等ではないということだ。中島がいなくなって、改めてその力の差に気付かされた感じだ。

 相手ゴールに迫る威圧感が明らかに違う。相手にとってより怖いのは中島。彼がいれば、森保ジャパンはもう少し楽な戦いができているに違いない。

 それはともかく、中島と南野は2011年U-17W杯(メキシコ)の本大会を戦った、日本チームのメンバーだった。日本U-17はそこでベスト8に進出。準々決勝でブラジルに2-3で惜敗したが、それでもその中から代表に上がった選手は、中島、南野、植田直通、室屋成に限られる。

 しかし、U-17から代表チームに上がってくる数は、これでも多いくらいである。伸びるのは誰か。化けるのは誰か。分かりにくいのがサッカー。U-19でも同じことが言えるし、23歳以下で戦う五輪チームでも、そこで選手の評価を確定させることはできない。サッカー選手はいつどこで伸びるか分からない。そうしたサンプルは日本より外国で多く目に止まる。27、28歳でも選手は平気で伸びる。いまはいま。半年後、1年後、状況はどう変化しているか分からない。

 グループリーグの最終戦で日本と対戦し1-2で惜敗したウズベキスタンの監督、エクトル・クーペルは、その試合後の会見で、こう述べた。「代表チームの選手は皆、平等な関係にある」と。

 かつてバレンシアを2シーズン連続(99-00、00-01)、チャンピオンズリーグの決勝に導いた、アルゼンチン人監督のクーペルだ。

 彼はグループリーグの3試合で、フィールドプレーヤー20人のうち19人を使った。毎試合、30%程度を入れ替えながら、まさに、コメント通り平等に選手を起用した。対する森保監督は20人全員を使ったが、ウズベキスタン戦の先発メンバーは、1、2戦でサブ扱いされていた選手で、クーペル式に比べると、平等さという点で見劣りする。

 どちらがサッカー的か。サッカーという競技の代表チームの在り方に適しているかと言えばクーペル式だ。このスタメンとサブの関係は、いまに限った話だ。1年後、さらに言えば、カタールW杯本番が行われる2022年11月の時点で、大きく変わっているだろう。

 クーペルが語ったこの平等の精神。日本のサッカー界に不足している点だと思う。AチームとBチームに分けて戦った森保監督は例外ではない。典型的な日本人監督の発想だ。ロシアW杯を戦った西野監督しかり。しかし2011年のU-17W杯を戦った日本U-17の吉武博文監督は別だ。完全な例外になる。平等の精神を感じさせる選手起用をする。

 吉武監督は続く2013年に開催されたU-17W杯でも、日本チームの監督として本大会に臨んだ。ホスト国はUAE。そして日本が戦った場所は、シャルジャだった。日本が21日、サウジアラビアと一戦をまみえる場所である。

 正直言えば、シャルジャと言う地名を耳にして、吉武式サッカーを想起した次第だ。サウジ戦。森保監督に望みたいのは吉武式だ。6年前、この地で見たサッカーは、スタメンとサブに分ける旧態依然とした日本式サッカーではなかった。スタメンは毎試合大幅に入れ替わった。登録メンバーが記録した出場時間はほぼ同じ。GKも毎試合入れ替わった。ポジションさえも流動的だった。ディフェンスとフォワードを入れ替えるなど、ひとりの選手が複数のポジションをこなすことは普通だった。