巨人・原辰徳監督【写真:Getty Images】

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1946年に日本で初めて春季キャンプを張った巨人、その歴史は…

 日本で本格的な春季キャンプを始めたのは、巨人だ。終戦間もない1946年に愛媛県松山市で春季キャンプを張ったのが最初だった。

 道後温泉のある松山でのキャンプは好評だった。そこで巨人は、1947、48年と温泉地である大分県別府市の別府市営球場でキャンプを張る。

 1949年は2リーグ分立を控えて選手数が増えたこともあり、後楽園球場、兵庫県明石公園球場、甲子園球場でキャンプを行った。明石公園球場は、戦前から合宿などに使っていて地元とのつながりが深かった。

 1953年にはカリフォルニア州のサンタマリアでキャンプを行った。これが初めての海外での春季キャンプだった。翌54年にはオーストラリア・フィリピンに遠征する。また1955年にはキャンプ期間中に中南米遠征をおこなった。パナマ→コロンビア→ドミニカ共和国→キューバ→メキシコと5か国を転戦するハードな日程で、8勝18敗という結果。受け入れ態勢にも問題があり、選手は食べ物に苦労したという。この遠征で新人の廣岡達郎が頭角を現した。

 この55年に巨人は若手を中心に、宮崎県串間市で春季キャンプを行う。宮崎県と巨人の関係はここから始まった。

 巨人が宮崎県で本格的に春季キャンプを行ったのは、1959年のことだ。宮崎市は1954年に「宮崎観光の父」岩切章太郎がフェニックスを51本植えて以来、「新婚旅行のメッカ」になりつつあったが、前年プロ入りして大活躍をした長嶋茂雄をはじめとする巨人ナインがやってきたことで、宮崎の知名度は一層高まった。この年は甲子園で活躍した王貞治が宮崎でデビューした。

 宮崎市は、今年まで61シーズン連続で巨人の春季キャンプ地となっている。他の地でのキャンプとの併用の期間が大部分だが、宮崎市は巨人の「第2のホームタウン」と言ってよいだろう。

「9連覇」はベロビーチキャンプに端を発する?

 1961年、巨人は中南米遠征以来6年ぶりに海外キャンプを実施した。フロリダ州ベロビーチで、ロサンゼルス・ドジャースと合同キャンプを張ったのだ。名著「ドジャースの戦法(アル・キャンパニス著、内村祐之訳)」が日本で刊行されたのは1957年のことだったが、コーチ時代にこの本を読んだ川上哲治は、監督に就任したらドジャースとの合同キャンプを実現させたいと強く願っていた。

 巨人ナインは、ドジャースとの合同練習を通じて、練習法や作戦について徹底的に学び、意識改革を行った。さらに、巨人は1963年にはコーチの牧野茂をベロビーチに派遣し、アル・キャンパニスから直接指導を受けた。巨人の1965年からの空前の「9連覇」は、このベロビーチキャンプに端を発するといってもいいだろう。

 巨人は以後も数年おきにベロビーチでドジャースと合同キャンプを行っていたが、1983年、バブル景気によって円が強くなると、宮崎市と併用してグアム・パセオ球場でキャンプを張るようになる。移動の費用を含めても、海外キャンプのほうが安くなったからだ。グアム・キャンプは1999年まで続いた。

 宮崎県の春季キャンプ地では、1974年に宮崎市営野球場が完成。2001年には3万人を収容するサンマリンスタジアムが完成し、室内練習場やサブグラウンドなども完備された南北2キロに及ぶ最大級の施設になっている。

 2011年からは沖縄県那覇市の奥武山公園・奥武山総合運動場を二次キャンプ地として使用するようになる。こちらもセルラースタジアム那覇を中心とした大規模な施設だ。

 現在は、2月キャンプ開始時点では1、2軍が宮崎市のKIRISHIMAヤマザクラ宮崎県総合運動公園でキャンプを張り、3軍は奥武山公園でキャンプを行う。中盤になると、1軍が沖縄に移動し、3軍が入れ替わりに宮崎市に入る。

 巨人のキャンプは、宮崎、沖縄ともにファンサービスも充実し、売店や飲食施設の規模も大きい。一日かけて野球の楽しさを満喫できるだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)