海自のいずも型ヘリ護衛艦が事実上の空母へ改造されることに決まりましたが、旧日本海軍では、建造中の戦艦が空母に改造されたこともあります。最大最強空母となるはずだった大和型3番艦「信濃」の、不運すぎる22時間を追います。

史上最大戦艦の3番艦は空母

 戦艦「大和」といえば、旧日本海軍のシンボルとして広く知られています。大和型2番艦である「武蔵」も有名です。しかし大和型3番艦「信濃」の名はあまり知られていません。戦艦として生まれながら途中で空母に転身し、1961(昭和36)年にアメリカ海軍の原子力空母「エンタープライズ」が登場するまでは、史上最大の排水量を誇った空母です。


秘密のベールに包まれた、旧日本海軍の空母「信濃」(画像:アメリカ国防総省)。

 強力な空母として期待されながら、竣工後わずか10日で戦闘も交えず沈められてしまいますが、なんと当時の日本海軍内でもこの大事件は知られていません。ほかの大和型戦艦と同様に建造が秘密であったこと、就役から沈没まであまりに短時間であったこと、沈没自体が秘密にされたことなど、とにかく秘密だらけだったのです。写真もほとんど残されていません。

「信濃」沈没に衝撃を受けた旧海軍が極秘にまとめた「S事件調査委員会報告」は、5冊だけ作成されましたが、終戦時にすべて焼却処分されてしまいました。誕生から沈没まで、「信濃」は謎のベールに包まれた艦です。

 太平洋戦争の開始を告げた1941(昭和16)年12月8日の「真珠湾攻撃」、その2日後の12月10日に発生した「マレー沖海戦」において、旧日本海軍は航空攻撃により戦艦を撃沈し、これからの海戦を決するのは戦艦兵力ではなく、航空兵力であることを実証しました。一方で巨大戦艦「大和」を12月16日に、「武蔵」を1942(昭和17)年8月6日にそれぞれ就役させました。大和型は全部で4隻(資料により5隻とも)が建造される計画で、3番艦「信濃」と4番艦(予定名称「紀伊」)まで建造が進められていたのです。

 1942年6月7日の「ミッドウエー海戦」で旧日本海軍は、主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一挙に失い、今度はアメリカ海軍が、海戦の主役は航空兵力であることを改めて示します。ここで旧日本海軍は、ようやく戦艦から航空機への力点変更を決心し、大和型戦艦で船体が7割方完成していた3番艦「信濃」を空母へ設計変更、四番艦については建造中止を決めます。「信濃」の就役は1944(昭和19)年12月末と計画されました。大和型の船体で作られる空母「信濃」は世界最大というだけでなく、防御力も戦艦並みに強固な世界最強の「重装甲空母」となることが期待されていました。

竣工、そして不運な旅路へ

「信濃」は、1944(昭和19年)11月19日に横須賀軍港で竣工しましたが、激しくなりつつある空襲を避け、残工事を完成させるため呉軍港に回航されることになります。

 呉への航路については、潜水艦を警戒して昼間に沿岸を航行する案と、空襲を警戒して夜間に外洋を航行する案で議論となりましたが、伊豆七島に沿って南下した後に西へ転進、紀伊半島を迂回して瀬戸内海に入る、夜間の外洋航行に決定します。大和型は20ノット(およそ37km/h)以上の高速航行が可能で、万一、潜水艦から魚雷の1発や2発程度を受けたとしても、十分に耐えられるとの自信もあったといいます。

 11月28日13時30分、第17駆逐隊の駆逐艦「磯風」「浜風」「雪風」を護衛に付けた「信濃」は、横須賀軍港を出港しました。

 外洋に出た19時、「磯風」がアメリカ潜水艦の電波発信を捉え、対潜警戒に入ります。浜名湖南の沖合約160kmに位置していたアメリカ海軍潜水艦「アーチャーフィッシュ」が、20時40分に「信濃」を発見します。一方、「信濃」側は、潜水艦の存在は分かったものの、位置は特定できていません。


アメリカ海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」(画像:アメリカ海軍)。

 夜間の海上で、空母と潜水艦の追跡戦が始まりました。「信濃」は機関が本調子ではなく20ノット以上は出せず、さらに魚雷攻撃を警戒して変針を繰り返すジグザグの航路を取ったため距離が稼げません。引き離されまいと必死の「アーチャーフィッシュ」は、ほとんど潜航せず水上全力航行で追跡します。

 日付変わって11月29日の午前3時10分、約6時間20分の追跡劇ののち、「信濃」の前方、距離1500mへ占位することに成功した「アーチャーフィッシュ」は魚雷6発を発射、そのうち4発が「信濃」に命中します。

「信濃」は浸水が始まりますが、大和型の防御は、この程度の被害には耐えられる“はず”でした。被雷直後でも「信濃」は18ノットを維持、これを護衛する駆逐艦から退避行動を取った「アーチャーフィッシュ」は以降、追撃が出来なくなります。

たった4発で1日も過ごせず

 ちなみに大和型が撃沈されたときの被弾数を見ると、「大和」の被弾数は爆弾7発、魚雷10発(日本の戦闘詳報による。アメリカ軍戦略調査団資料では爆弾5発、魚雷10発)、「武蔵」の被弾数は爆弾17発、魚雷20発(記録員戦死のため、後日生存者など関係者の証言から作成された戦闘詳報による。アメリカ軍資料では爆弾44発、魚雷25発)とされています。

 しかし「信濃」は、戦闘艦としては不完全でした。船体をいくつかに区分し浸水や火災の際、防火防水扉を閉鎖することでその区画だけで被害をくい止められるようにした「水密区画」は未完成で隙間だらけ、乗員も乗艦してから日が浅く、各装置の操作に不慣れで浸水を抑えることができません。水蒸気を水に戻す復水器が停止してボイラー用の真水が欠乏したため、ボイラーの運転が止まり、午前8時には完全に動力、電力を喪失してしまいます。護衛駆逐艦による曳航作業にも失敗し、浸水と傾斜はどんどん進行。午前10時37分に総員退艦発令、10時55分(57分説もあり)に転覆、艦尾から沈没しました。


「信濃」の被雷状況(月刊PANZER編集部にて作成)。

 こうして大和型末っ子の世界最強最大になるはずだった重装甲空母「信濃」は、竣工から10日、出航からわずか22時間で、たった4発の魚雷により失われたのです。正確な沈没地点は2019年現在も分かっていません。

「信濃」を撃沈した「アーチャーフィッシュ」は戦争を生き延び、1945(昭和20)年9月2日に東京湾の米戦艦「ミズーリ」艦上にて行われた日本降伏文書調印式の際には、同じ東京湾内に停泊していたといいます。また1963(昭和38)年には、「信濃」が建造された横須賀の工廠にも入渠しています。退役したのは就役から25年後の、1968(昭和43)年のことでした。

【画像】旧日本海軍空母「信濃」、最後の航路


1944年11月28日13時30分に横須賀を出港した空母「信濃」だったが、翌29日10時55分に沈没。詳しい位置はわかっていない(月刊PANZER編集部にて作成)。