今秋開催するラグビーW杯について語ろうとするとき、まず取り沙汰されるのは成績だ。日本はどこまで行くか。前回大会の成績(グループリーグ3位)を越えられるか。昨年、ロシアで開催されたサッカーW杯にも同様な点にスポットが当てられたが、ラグビーW杯の場合は自国開催だ。成績話もいいが、それだけでは物足りない。日本には開催国として果たすべき役割もあるのだ。

 来年2020年には東京五輪も控えている。関心を寄せるべきは成績、結果とは一線を画したスポーツ話ではないか。文化と言えば堅苦しくなるが、広い意味でスポーツを論じるにはいいタイミングだと思う。

 ラグビーW杯が、サッカーW杯ロシア大会と東京五輪に挟まれた大会であることを踏まえれば、嫌でも両者との違いが目に止まる。

 ラグビー文化の特殊性について。よく取り沙汰されるのはノーサイドだ。しかしこの精神は他の競技にも大なり小なり存在する。キャッチーなラグビー用語ではあるが、ラグビーに限定されない。

 もっと決定的な違い。サッカー、五輪にはほぼ存在しない文化。実は多くの人が気付いているにもかかわらず、あまり口にしたがらない特殊性。

 それは「代表」の概念だ。代表チームに存在する外国籍の選手こそが、ラグビーの文化そのものに見える。その国の代表選手になるためには、居住歴3年以上など、いくつかのハードルはあるが、なにより国籍を一番の拠り所にしていないところに目を奪われる。

 抵抗感を抱く人と抱かない人と。日本ではどちらが多いかと言えば、断然、抱く人の方だろう。こう言ってはなんだが、同じ代表チームでも親近感はサッカーの日本代表の方が抱きやすい。ニッポン頑張れ!と叫びやすいのはサッカーなのだ。

 スポーツにはナショナリズムを喚起しやすい側面がある。メダル争いが繰り広げられる五輪は、その最たるものになる。何を隠そうこの僕も、五輪取材において、日本人選手が金メダルを獲得したシーンに立ち会った回数を自慢し、吹聴する癖がある。特に団体戦、チーム戦は感激もひとしおだ。個人競技は選手の名前が先に来るが、団体戦、チーム戦の場合はニッポンが呼称になる。

 想起するのは98年長野五輪のジャンプ競技。船木和喜が金メダルを獲得したラージヒルと、同じく金メダルに輝いた団体戦。より盛り上がったのは後者だった。

 頑張れニッポン! とシンプルに叫ぶことができる分だけ団体戦、チーム戦は盛り上がる。ラグビーも例外ではない。たとえばサッカーより格闘性が高いので、その分だけ観戦に力が入る。代表戦ともなれば国家的ナショナリズムに灯が点って当然かと思われるが、日本人と容姿が異なる選手が多く混じっている現実、さらに言えば、日本のストロングポイントになっている現実を目の当たりにすると、違和感に苛まれる。気持ちが引く人がいても不思議はない。そこに漂う無国籍感はどう解釈するべきなのか。

 日本人の従来の価値観との相性がよくないことを報じる側は知っている。この違和感に言及したがるメディアは少ない。メディアに露出する選手も純粋な日本人選手ばかりだ。ファンもファンで、その点を話題にしないメディアに不満を抱く人は少ない様子だ。違和感が露わになることはない。

 だが、そこに踏み込まずにW杯開催に向かうことは嘘っぽい。避けて通ることはあまりに不自然だ。そもそも、それこそがラグビー文化なのだ。逆に、胸を張るべきだと思う。

 むしろ話を聞きたいのは日本人選手以外だ。彼らはなぜ祖国を離れ、日本でプレーしているのか。その目に日本のラグビー界及びスポーツ界はどのように映っているのか。彼らにスポットを当てた報道こそ今日的だと思う。
 
 日本は昨年末、労働者受け入れ法案を可決。人口減少、労働者の減少を補おうとしているが、ラグビーの日本代表は、そうした日本の将来を暗示しているような、理に適った先進的かつ模範的な姿にさえ見える。隠したり、避けて通ったりする姿は時代遅れ。現状では異文化ながら近い将来、不可欠になる文化。

 日本社会はラグビー文化に学べ。そのラグビー文化が交錯するラグビーW杯をこの秋に控えたいま、スポーツ系のメディアには、それぐらいのことは自信を持って語って欲しいものである。