カメルーンで生まれ、4歳から日本で暮らしている星野ルネがマンガを描くに至った経緯とは?(筆者撮影)

『まんが アフリカ少年が日本で育った結果』の作者であるクリエーター、星野ルネは、ハーフではない。民族的にはカメルーン人だ。しかし4歳から日本で育ったため、“外人”の身体に日本人の魂が閉じ込められるとはどんなことを意味するか、というユニークな視点に恵まれている。

ルネの視点は、日本の文化、伝統、言語、歴史をすべてネイティブの直の視点で知りながら外見など自身ではどうしようもない表面的な理由で疎外されやすい立場に立つ真のインサイダーかつアウトサイダーの人間の視点だ。

それゆえに彼のマンガは、こうした者の目を通して見た生活に興味を持つ人々の間で高い人気を博している。 ルネが他者に沿う心、そしてユーモアをもってこの視点をマンガに昇華させていることは、彼の人間としての忍耐強さ、日本への愛情、そして人間の弱さに対する辛抱強さを表している。

日本の幼稚園で初めて絵を描いた

彼はアフリカの発展途上国カメルーンで、カメルーン人の両親のもとに生まれた。しかし実の両親は彼がまだ母親の胎内にいる時に仲違いして離婚してしまったため、シングルマザーのもとに生まれた。彼の幼少期に母親がカメルーンの大学で日本人の星野教授と出会って求愛され、結婚。ルネが4歳の時に兵庫県姫路市へ移り住んだ。


ルネが描く『まんが アフリカ少年が日本で育った結果』

初めて絵を描いたのも4歳の時、幼稚園のお絵かきの時間だった。遊びや課題ではなく、コミュニケーションの道具として絵を描いた。日本語がまだ話せなかったルネは、絵を通して先生やほかの園児たちに自分の考えや気持ちを伝えた。

「絵を描けば言葉はいりません。ペンと紙があれば十分です」とルネは説明する。「そして僕が絵を描くと、園児たちが僕のところへ集まってくるのに気づいたのです。そして僕が描いたものについて、彼らはいろいろなことを言ってきました。何を言っているのかは理解できませんでしたが、僕のことを褒めていて、僕の描いたものを心から認めてくれているのだというのは感じられました」。

幼稚園に入って3カ月後には日本語を話せるようになり、小学校へ上がる頃には流暢に話していた。しかし、彼は絵を描くことをやめなかった。描くことは、自分と日本人の子どもたちとの間に橋を架ける最初のツールだったからだ。描くことが彼を人気者にした。

「小学校ではいじめも少しありましたが、幼稚園から同じ小学校へ上がった友達がたくさんいたので、いじめられることはまれでした」

中学校では600人以上の生徒の中で彼だけが日本人でなかったため、とんでもなく失礼な態度をとる生徒たちも時にはいた。「僕は良い生徒でいたかったのですが、時々『お前は黒人だ! 日本人じゃない。あっちへ行け! 自分の国へ帰れ!』などと暴言を吐いてくる日本人生徒たちとけんかになったりもしました」とルネは振り返る。

「なぜ自分の肌の色だけ母と同じように黒いのだろう」

実の父親とは会ったことがなくその存在さえも知らなかったため、日本で日本人の父親の元で育ったルネは、自分はハーフ なのだと信じていた。しかし、2人の弟と3人の妹はみなハーフでルネとはかなり異なる外見をしていたため、疑問が沸いた。

「僕はよく『なぜ自分の肌の色だけが母と同じように暗褐色なのだろう? 自分の家族には何が起こったのだろう?』と思っていました。そこである日、8歳か9歳の時に、母のところへ行って『僕のお父さんは、弟たちや妹たちのお父さんとは違うの?』と尋ねました。すると母は『あらまあ! 今頃それに気づいたの?』と言いました。母は、僕が知らないということを知らなかったのです!」

カメルーンでは誰もが親戚を含む拡大家族のなかで暮らすため、父親のいない環境で育つ子どもは珍しくなかったのだとルネは説明してくれた。両親と暮らさずに、叔父叔母や祖父母たちなど他の家族と暮らす子どもが多くいるのだという。

「日本人はよく僕に、カメルーンと日本のどちらが祖国なのかと聞いてきます。僕はいつも両方とも祖国なのだと答えます。両方の国を両親のように捉えています。両親を同時に愛することはできますよね。カメルーンと日本についても同じことです。僕は両方の国を同じように愛しています」

ルネはカメルーンを3年ごとに訪れ、大抵ひと月ほど滞在する。しかしそこに友人は多くないと言う。

「カメルーンに友人はいりませんよ」と彼は笑い声を立てながら言う。「だって、あちらには200人以上の拡大家族がいるのですから。全員の名前を覚えることすらできません。僕が日本に住むカメルーン人という特別な存在であるため、みんな僕の名前を知っているし、覚えてくれています。でも僕はみんなのことを、個人個人として考えていません。僕にとってみんなはカメルーンそのものなのです。誰かが僕のところへ来て『やあ、ルネ!! 僕のこと覚えているかい? 一緒に川へ行ってエビ獲りしたよね、覚えてる?!』と言います。 そして僕は『ああ、そうだったね!』と言いますが、エビのことしか覚えていないんです」。

高校を卒業してからは工場に勤務

多文化や多言語にまつわる面白い体験には事欠かない。ルネは7歳の時、カメルーンに送られ、1年半滞在した。当時彼は第一言語として日本語を話すことに慣れていたが、カメルーンに行って3カ月経つとフランス語で話すだけではなく、夢もフランス語で見るようになっていた。

「自分の夢がフランス語にすり替わった晩のことを覚えています。起きて、『わぁ! フランス語だった!』と叫びました。それから日本へ帰ってひと月くらい経ち、精神的にもやっと日本へ戻った時に、夢が日本語に切り替わりました。言葉の時差ボケのようなものでした。身体がまず戻り、心は遅れて戻ったのです。僕の身体が言葉を待っていました。『お前はどこにいるんだ? まだカメルーンにいるのか?』と」

高校を卒業したルネは、工場で働き始めた。しかし2、3年務めてから、自分の望む人生の方向性について少し真剣に考えるようになった。

「僕はそれほどいい生徒ではなく、若い頃は少し反抗的だったので、将来について考えるということがなかったのです」とルネは言う。「父は僕と話し合おうとしました。でも、自分は、本当は日本人ではなく、父の本当の息子ではないのだから、父の言葉に耳を貸すこともない、とずっと思っていました。僕には何の志もありませんでした。友人とつるんで踊ったり楽しいことをしたりしたいと、ただそれだけでした。でも、工場労働者をずっと続けたいとは思いませんでした」。

「ひとかどの人物になる方法を見つけたいと思っていました」と彼は言う。「そこで、給料の中から貯金をして、工場の仕事を辞めました。それから6カ月の間、毎日図書館へ通って多くのことを勉強しました。お金の稼ぎ方、そして心理学や科学など、あらゆることを勉強しました。毎朝起きて朝ご飯を食べてから、図書館へ行っていました。5時の閉館まで図書館で過ごし、帰宅して夕飯を食べ、翌日も同じようにしました。やがて僕は変わり、新しい人格を持つ別人のようになったのです」。

結局、貯金が底をつくまでこの生活を続け、その後、職を得たレストランで働くようになった。そこでルネは客と話をしたりするうちに、図書館で過ごした時間がいかに自分を変えたかを知った。彼は他人の目を通して自分自身を見いだしたのである。

日本語を流暢に話さないよう求められる

「お客さんの中には、僕のことを天才だと言う人もいました。僕が魅力的な人生を送っているとか、僕の話は日本人には非常に受けるだろうと言う人もいました。多くの人たちから、東京に行って夢を追うよう勧められました」

そこで26歳にして、彼はテレビタレントになろうと東京へ移り住んだ。しかし、今度はテレビ番組のディレクターたちとの問題に直面する。

「彼らは僕に流暢な日本語を話さないようにとつねに要求してきました。日本の視聴者は、変な日本語を話す外国人というステレオタイプのほうが面白く感じるからです。若かったし成功するチャンスを望んでいたこともあり、しばらくは言われたとおりにしていましたが、僕には日本の黒人のイメージを変えたいという思いがありました。そして、日本人の黒人として自分を表現したかったのです」

「自分が中学生だった頃のことを覚えています。僕はボビー・オロゴンのようなタレントが好きではありませんでした。彼らはとても愚かに振る舞っていて、日本の人々に黒人は愚かだとの印象を与えてしまうからです。日本のスタッフは、僕もそういったキャラクターになるべきだと考えていました。しかし僕はその役割をしたくありませんでした。そこで僕は、考えを自分流に発信できる場所を見つけたいと思ったのです」

2018年4月に、彼は『まんが アフリカ少年が日本で育った結果』をスタートさせた。テレビの仕事があまり入らなかったため、暇な時間がたくさんあったのだ。

「お金も仕事もありませんでしたが、時間はたくさんありました。そのときひらめいたのです。マンガを描けばいいんだ!」と彼は指を鳴らしながら言う。「漫画を使って自分の個性を表現したり、考えをシェアしたりできるぞと。自分の考えや気持ちを初めて日本人に伝えることができたのは、絵を描くことを通してだったことを思い出しました。一周して元の場所にたどり着いたような感じでした」。

なぜか英語で話しかけてくる日本人

彼がマンガを描く主なモチベーションは、「日本人に、日本人が知らないことについて知ってもらう」ことだと言う。


「誰もが同じではないこと、日本人でさえ同じではないことをわかってほしい」というルネ(筆者撮影)

「僕は日本の人々に、僕について、世界について、ほかの人たちについて知ってもらいたいのです。誰もが同じではないこと、日本人でさえ同じではないことをわかってほしいのです。誰もが非常に面白い形で違っているのです。これを描くことで人々の心をオープンにさせられたらいいなと自分で思えるようなストーリーを展開しています」

「たとえば、実際マンガにした中に、僕が駅で地図を見ていたときの話があります。日本人は僕を見て手助けをしようとやってくるのですが、彼らはいつも英語で話しかけてきます。もちろん僕は日本語を話します。話しかけてくる人たちは英語をうまく話せないのですが、彼らは僕を助けたがるのです」

「僕は彼らに、『ユー・アー・ベリー・カインド!!』と言います。なぜかわからないのですが、僕は英語で対応してしまったのです。彼らが一生懸命英語を練習しようとしているので、僕は外国人のふりをしたのです。そして彼らは僕に英語で行き方を説明し、僕が彼らにサンキューと言うと、彼らは『やった!』みたいな、とてもうれしそうな顔になるのです。そして僕もとてもうれしくなるのです。なぜなら僕も英語を話すことができたからです」