浦和レッズがベガルタ仙台を1-0で下した天皇杯決勝。国立競技場で長年、元日に開催されてきたが、新国立競技場の建設工事に伴い2014年から会場を転々とするようになった。直後にアジアカップが控える時は、開催日も流動的になった。

 今年の決勝は12月9日。埼玉スタジアムで18時にキックオフされたが、特別な日に特別な場所で行われる厳かさはもはやない。風物詩としての魅力は失われている。

 もしこの試合が元日に国立競技場で行われていたら、印象はもっと違っていただろう。5バックで守りを固める浦和に対し、パワープレーでゴールに迫る仙台。その終盤の攻防は、あるいは美しいモノとして映っていた可能性がある。元日の国立競技場には、泥臭い大時代的なサッカーでも神聖なものに見せてしまう独得の空気感があった。

 風物詩というべきプラスアルファの魅力が失われた天皇杯決勝。となれば、中身で勝負するしかない。しかし、浦和対仙台戦にその力はなかった。

 浦和ファンはそう思っていないだろう。緊張感のある痺れる試合展開に酔いしれたに違いない。仙台のファンも同様。試合には敗れたが、悔しさと同じぐらい、互角以上の試合をしたことに満足しているだろう。埼玉スタジアムに駆けつけた約5万余人のファンは、総じて充足感を胸に帰路についたにものと思われる。

 浦和ファンと仙台のファン。スタンドにそれ以外のファンは少なかったはずだ。当事者ではない第三者でこの日、アクセスの悪さ極まりない埼玉スタジアムまで、はるばる足を運んだファンは5万人中どれほどいただろうか。2、3千人がいいところだったに違いない。

 元日の国立競技場はそうではなかった。両軍ファンと第三者ファンがそれぞれ三分の一ずつを占めるという感じだった。第三者は言い換えれば中立的なサッカーファンだ。国立競技場がある場所は東京のほぼド真ん中。明治神宮外苑の杜だ。明治神宮の内苑に初詣に行ったその帰りに立ち寄るファンも少なくなかった。舞台はパブリックな場所だった。それこそが他の試合では味わえない天皇杯独得の魅力だった。

 Jリーグのヴィッセル神戸戦の現場には、イニエスタ目当てに神戸ファンでないファンが多く詰めかけるが、これはあくまでも例外。他の一般的なJリーグのスタンドは、両軍のファンで9割方埋まる。ホームのファンとアウェーのファン。スタンドは2色限定だ。浦和対仙台戦は、まさに赤対オレンジの対戦だった。第三者は存在しない試合であるかのように見えた。

 だが観戦者は、お茶の間にもいる。この浦和対仙台戦はNHKのBSで放送されていた。当たり前の話だが、浦和ファン、仙台ファンより第三者的な立場に身を置くファンの方が圧倒的に多い。多数派は第三者。にもかかわらず、アナウンスされがちなのは少数派の声だ。

 浦和の地元メディアは、浦和ファン向けに報じればいい。その14年ぶりの優勝をストレートに喜べばいい。仙台のメディアも健闘を讃えつつ、東北勢としての初優勝が飾れなかったことをストレートに残念がればいい。地元愛に満ちた報道をすればいい。

 問題はその他のメディアだ。一介のフリーランスである僕もそのうちの1人になる。第三者としてこの試合をどう受け止めるか。観戦して素直にどう思ったか。その言及を避け、やれ浦和万歳だとか、仙台残念でしたとか、突然、両チームに寄り添った視点で報じるのは不自然というものだ。

 立場が違えば印象は変わる。浦和側から見た視点と仙台側から見た視点。それにどちらでもないファンからの視点を加えた3点が、いい感じで交錯することで、適正なバランスは保たれる。

 JリーグはJ3まで合わせれば計54チーム。天皇杯決勝はアマチュアが勝ち抜かない限り、その中の2チームによって争われる。その他の52チームのファンはこの場合、第三者だ。たとえば東京在住のサッカーファン。その中にFC東京ファンがどれほどいるか定かではないが、この場合の立場は中立だ。浦和対仙台戦に求めるのは好試合。面白いサッカーが見たい。これが、お茶の間観戦者の本音になる。