『和田京子不動産』社長 和田京子さん

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「今ひとたびの青春でございます。ちょうど夕日が沈む前に、カーッと一時明るくなるようにね」

【写真】和田社長の幼少期、主婦時代、宅建合格の祝賀会の様子など

 穏やかで、ていねいな口調。微笑(ほほえ)みを絶やさない和田京子さんは88歳にして、現役の社長だ。8年前に設立した和田京子不動産の年商はなんと5億円!

 夫を看取った後、79歳で宅建(宅地建物取引士)の資格を取得。翌年、自宅の一室を事務所にして仕事を始めた。

 それまではずっと専業主婦で、働いた経験もない。最初の2年間は全く収入がなかったという。それが、徹底した顧客目線の経営で急成長。今ではテレビや雑誌などメディアの取材が相次ぐ。

 身長150センチと小柄で華奢(きゃしゃ)だが、仕事にかける思いは誰よりも熱い。

「うちは24時間、365日営業をしています。もう、死ぬまで布団では寝ない。その覚悟がなくて仕事ができるかと、布団を捨ててしまいました。主婦は自分の家が職場です。いつも家族に合わせて待つ暮らしをしてきましたから、同じような感覚で、深夜でも気軽に相談できたらお客様は助かるかなと考えたのです。でも、われながら、なんてバカなことを始めちゃったんだろうと思いますよ(笑)」

 以来、仕事の合間にマッサージチェアやコタツで、うたた寝をするのが京子さんの睡眠だ。

 顧客の1人である畑山誠さん(54=Grill-Pan ZENオーナーシェフ)は仕事柄、帰宅が遅い。ウェスティンホテル東京のレストランで働いていた3年前、深夜にメールを送ったら、和田さんからすぐに返信が来て驚いたという。

「本当に24時間やっているんだなと(笑)。困っているときに、たまたまテレビで和田さんを見たんです。自分が何度も不動産屋にだまされてきたから、私は正当なやり方をしていくと話す言葉を聞いて、“ああ、この人なら安心して任せられる”と」

 畑山さんの依頼は所有するマンションの売却。ローンが残っているのに査定額が低くマイナス財産になっており、連帯保証人がらみの問題もあった。最初にそうした心配事を伝えると、親身な答えが返ってきた。

 買い手はなかなか見つからなかったが、2年前、東京オリンピックに向けて、その地域の物件価格が上昇すると、ほかの不動産業者からの問い合わせが相次いだ。

「僕は1日でも早く売りたかったのですが、和田さんはよく考えなさいといろいろアドバイスをくれて。評判のよくない業者から守ってくれたんです。おかげで売却した代金で残債を払えました」

 京子さんによると、不動産は扱う額が大きいだけに、詐欺まがいの業者も残念ながら存在するという。不動産を買う場合は、さらに慎重な見極めが必要になる。

「例えばね、誰も手を出さない悪い物件を特別サービスだとウソをついて格安で売る業者もいます。買った人は住めばわかるから、すぐ売らざるをえなくなる。そんな業界の腐ったところというと語弊がありますが、悪いところを少しでも正したくて、この仕事を始めたんです」

 創業以来、京子さんは扱う物件のよさだけでなく、デメリットも必ず伝えている。

 その裏には、自分がだまされて悔しい思いをしてきた経験がある。

果敢に挑んだ「欠陥住宅」問題

 京子さんの亡き夫、正武さんは高校の国語科教師だった。1952年に22歳で結婚後、転任先に引っ越しをするたび欠陥住宅に悩まされた。戦後の混乱期で、まだ法律が整備されていなかったこともあるが、欠陥があっても不動産業者は説明してくれず、実際に住むまでわからなかったのだ。

 丘の上で水圧が弱くすぐ断水してしまう家、配水管がきちんと通っていなかった家、本の重さで床が抜けてしまった家……。いちばん困ったのは、'65年に買ったトイレが使えない家だ。当時はまだ水洗トイレが普及しておらず、バキュームカーによる汲(く)み取り式が一般的だった。その家は細い私道の奥に立っており、汲み取り業者が来たが、ホースが50センチ届かない! 

 どうしたらいいのかと、その場に座り込んでしまった。ひと晩考えて翌日、幼い息子を連れて江戸川区役所を訪れ、窓口で「暮らせない」と切々と訴えた。

 すると、その夜、その家を売った不動産業者が自宅に謝罪に来た。

 同じ価格の家を用意すると言われ、うなずきかけた京子さん。ふと相手の顔を見て違和感を覚えた。笑顔を浮かべて罪悪感のかけらもない様子に、自分でも思わぬ啖呵(たんか)を切っていた。

「引っ越すのは嫌です。うちが出たら、また別な人にお売りになるんでしょう。そうしたら、私と同じように困るわよね。この家で住めるようにしてちょうだい!」

 汲み取り業者の協力もあり、50センチの延長ホースを自分で用意して汲み取ってもらえるようになったが、それまでは娘の通う小学校のトイレを借りたり、切羽詰まると隣の家に頭を下げて借りたり、苦労を強いられた。

 不動産業者の賠償金はお金では受け取らず、私道の舗装をしてもらった。おかげで迷惑をかけた隣近所の人たちと仲よくなれたと、京子さんは屈託なく笑う。

父に教わった“家の見方”と商人魂

 こうした家にまつわる武勇伝を、娘の洋子さん(60)は母が起業するまで、全く聞いたことがなかったという。

「やさしくて、いつもニコニコしていて黙って私たちの話を聞いてくれる人だったので、本当に意外でした。区役所に直談判に行ったなんて、信じられないです(笑)。こんなに積極的で、こんなに前向きな人なんだというのは、初めて知りましたね」

 洋子さんの息子の昌俊さん(30)は少し違った見方をする。洋子さんは30歳を前に離婚して実家に戻った。高校教師として働いていたため、赤ん坊のときから昌俊さんを育てたのは京子さんだ。

「祖母は何でもできる能力があるのに抑えつけられている女性だなと感じていました。例えば、僕が友達ともめた話をすると、相手の家庭の事情まで言い当てて、その場しのぎの対処法じゃなく、大局的なアドバイスをしてくれるんです。子ども心に、祖母の言うことは普通の主婦っぽくないな、なんか女城主みたいな人だなと思っていました。祖父が亡くなって、抑えつけていた枷(かせ)がはずれたんじゃないですかね」

 実は、京子さんには商人の血が色濃く流れている。

 京子さんの父は愛知県岡崎市で証券会社を営んでいた。3代続いた婿養子で、4代目も娘ばかり3人。長女の京子さんは父から跡取りの心得を厳しく仕込まれた。株で損をした客が家や別荘を手放すと、小学生の娘を連れて査定や買い取りに行った。

「父には家の見方を教えてもらいました。最初に台所を見ること。カビていないか、排水は悪くないか。床柱にはどんな木材を使っているか。現代では役に立たない知識もありますが、どんな物件も“自分の目で確かめろ”という教えは守っています。最近は間取り図だけ見てすませる方もいますけど」

 父が東京で軍需工場を始めることになり、'42年に一家で上京した。空襲がひどくなり代々木の自宅は焼失。父と2人で拾ってきた材木でバラックを建てた。体調が悪く動けない母を地面の上に毛布を敷いて寝かせた。

 終戦の数日前、京子さんはたったひとりで家を買いに行った。仕事に追われる父に頼まれたのだが、まだ15歳の少女だ。父がかき集めた大金を盗(と)られないようパンツの中に隠し不動産業者を訪ねたが、怪訝な顔をして相手にしてくれない。必死に交渉しているうちに涙が出てきた。

「母を畳の上で死なせてやりたいんです……」

 ボロいが8部屋ある家を買えたと報告すると、父に言われた。

「バカだな。何で値切らないんだ。向こうは疎開したいんだから、1割値切っても売ったよ」

夫は命の恩人、と主婦業を精いっぱい

 女学校を卒業後、武蔵野大学(旧千代田女子専門学校)に進学。国文学を学び中学の教員免許を取った。

 ところが、'52年、22歳のときに肺結核を発症。それが思わぬ方向に、人生の舵(かじ)を切ることになる─。

 亡き夫の正武さんはそのころ、高円寺の近くで古書店を共同経営していた。ボードレールの詩集などを熱心に立ち読みする京子さんに好感を抱いたのか、「読みたい本があれば古本市で買ってきますよ」と声をかけてくれた。やがて手に入れた本を自宅に届けてくれるようになり、間もなく京子さんの病気がわかった。

「肺結核は手術で治ります」

 正武さんは京子さんの家に来て熱心に説いたが、両親は大反対。まだ手術例は少なく成功率も低くて、危険を伴ったからだ。

「私、手術を受けたい」

 意外なことに京子さん自身はすぐに心を決めた。

「そのころ結核の療養所はいっぱいでね。2年くらい待たないと入れなかったんです。家にいて妹たちに結核がうつらないか気兼ねしながら暮らすのがつらくて……。医者に診てもらったときはすでに重症でしたから、どんなに死にたいと思ったか。だから、手術を受けて死ねるなら、チャンスだと思ったんですよ」

 だが、手術を受けるには親族の承諾書がいる。首を縦に振らない両親を見て、正武さんがこう切り出した。

「書類上だけでも夫婦になればいい。僕が承諾書に署名捺印します」

 手術の直前に入籍。肋骨4本と左肺上葉部を切除した。

 無事に生還して退院できたが、両親を振り切るように出てきたため実家には帰れない。教師になった正武さんの勤務先の近くに部屋を借りて、ともに暮らし始めた。

 親戚を通じて声をかけてくれた静岡県の高校に転任。京子さんは医師の指示を守って安静な生活を2年間続けると、結核菌も出なくなった。

「お医者さんに完治したと判子をもらって、その日にお祝いをしました。ケーキを買って、2人だけの結婚式をしたんです」

 '58年、28歳のときに娘の洋子さんを出産。3年後に長男が生まれた。

 京子さんは常に夫を立てるよき妻、よき母だった。いつも料理をたくさん作り、子どもたちの洋服やおやつも手作りして家族を支えた。

「夫とはね、惚れた腫(は)れたじゃないんです。ただ、私のことをかわいそうに思って、私の身体を治してやりたい一心で、結婚してくれたんです。だから、私は夫への感謝と申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたね」

 晩年の夫は病気続きだった。心臓や大腸を患い、5回手術した。血液をサラサラにする薬を飲んでいたため腸から出血すると止まらなくなる。車に入院グッズを積み込んでおき、夜中でもすぐに病院に連れて行った。精神的に緊張を強いられた介護生活は10年間に及んだ。

人生も洋服も変えた孫のひと言

 77歳で夫を看取ると、京子さんは抜け殻のようになってしまう─。

 寝たり起きたりの生活を見かねた孫の昌俊さんは、こう声をかけた。

「おばあちゃん、勉強してみたら?」

 家の購入で何度もだまされたことを知っていたので、宅建の資格を取ることをすすめた。

「落ち込んで、かなりヤバかったんですよ。もしあのままだったら、1、2年後には祖父の後を追っていたかもしれないし、ボケてしまったかもしれない。資格を取るために学校に通えば、少なくとも、その間は人間らしい生活を送れるんじゃないかと思ったんです」

 戦時中に女学生だった京子さんは、授業をろくに受けられず飛行機の部品作りに動員された。孫の言葉で、もっと勉強したかったという思いが再燃。専門学校に通って猛勉強を始めた。

 そして、合格率約16パーセントという宅建の試験を79歳で受験。初めてのチャレンジで見事に合格した。

 苦労して得た知識を生かしたいが、高齢すぎて雇ってくれる会社などないだろう。京子さんは起業を決意した。

 それまで「和田さんの奥さん」「洋子ちゃんのお母さん」「昌俊君のおばあちゃん」としか呼ばれなかったため、多くの人に自分の名前を呼んでほしくて、フルネームをそのまま社名にした。

 外見もがらりと変えた。それまで洋服はもっぱら娘のお下がりを着ていたが、会社の制服がわりに選んだのは、ヴィヴィアン・ウエストウッドの服。昌俊さんから反骨精神を持ったデザイナーだと聞き共感したのだ。

 つけまつげとピンク色のアイシャドー、真っ赤な口紅は、今では京子さんのトレードマークともいえる。

 きっかけは孫のすすめで原宿にある美容室「Sherbets(シャーベッツ)」を訪れたこと。おしゃれな髪型が気に入り、京子さんは毎月、カットに通っている。

「ヘアスタイルはバッチリでも、顔がこれじゃあね。目だってこんなに小さいし」

 あるとき、京子さんが嘆くと、ヘアスタイリストのSATOMIさん(47)が教えてくれた。

「つけまつげをすれば目が大きく見えますよ」

 京子さんがテレビに出るようになってからは、撮影前にSATOMIさんがメイクも担当している。いつも京子さんのタフさには感心しているそうだ。

「和田さんは私の倍くらいの年齢ですけど、すごくバイタリティーがあって元気ですよね。気力が違うんですかね、やっぱり。すごいロングのブーツをはいてきたり、派手なファッションもされますが、似合っているし、洋服に負けてないなと思います。ただ、普段お忙しいので、カラー剤を塗って待たれている間など、頭が倒れるくらい深く寝入っていますよ」

無収入のピンチを救った“男の約束”

 2010年4月、営業を開始した。経費を抑えるため自宅の一室を事務所にした。表通りから少し入った住宅街にあるごく普通の一戸建てで目立たない。2階の壁に「和田京子不動産株式会社」と書いた大きな看板をつけた。

 畳敷きの8畳間にローテーブルと大きなクッションを並べ、くつろげる雰囲気に。ホームページを見たお客が来店するようになった。

 だが購入を希望する物件に案内しても、成約には至らない。京子さんが途中でしり込みしてしまうからだ。せっかく来たお客をほかの会社に紹介することすらあった。

「売り主の不動産屋を信じ切れなかったからです。取引をするには相手を見抜く心眼が必要ですが、私にはまだ経験が足りなくて、自信がなかったんです」

 2年間、無収入の状態が続き、娘の洋子さんは気が気でなかったという。

「毎日、毎日、母と顔を合わせれば、“もう会社をやめて”と言い続けて、ケンカばかりしていました。ただ、息子はずっと母のことを信じていましたね」

 孫の昌俊さんはITベンチャー企業で経営コンサルタントの仕事をしていたが、祖母の会社を手伝おうと退職して宅建の資格を取得。経験を積むためほかの不動産会社で修業をしていた。

 自分の給料37万円のうち、毎月7万円で生活。残りをすべて運転資金として祖母に渡した。

 パソコンの使い方を教えたのも昌俊さんだ。京子さんはなかなか覚えられず同じことを何十回でも聞く。昌俊さんはパソコンを立ち上げてメールソフトを開くまでのマニュアルを作って渡した。それでも京子さんがメールでやりとりできるようになるまで2年かかった。

 どうしてそこまでして、祖母を助けたのか。不思議に思って聞くと、昌俊さんは祖父との最後の思い出を話してくれた。

「キッチンで倒れて、手術室に運ばれていくとき僕がずっとそばにいたんです。“おばあちゃんを頼むよ”というのが最後の言葉でした。もともと宅建を取ることをすすめたのは僕ですし、途中で手を引くのは無責任じゃないかなと。でも、いつまで続くのかもわからないし、正直、不安はありましたよ。僕もまだ22、23歳で若かったからできたけど、もうあの生活に戻るのは無理です(笑)」

 会社設立3年目に入り、ようやく初めての契約が取れた。京子さんはそのときの喜びをこう表現する。

「ヤッター! 稼いだ! 自立した! 自分でお金を稼いだのは生まれて初めてですから。この年で自立できた喜びは、何ものにもかえがたいですね。それまではずっと養われてばかり。特に胸を悪くしてからは、もう誰も雇ってくれないとコンプレックスがありましたからねえ」

 若い夫婦を希望する物件に案内したのだが、売り主が購入を急(せ)かすうえに説明が不十分など信用できない。京子さんは「ここはやめたほうがいい」と伝えて、別な物件に案内した。その対応で、京子さんは信頼できると感じたとその夫婦に言われ、自分のやり方が間違っていなかったと自信がついた。

業界の掟を破り、孤軍奮闘!

 京子さんが行っている不動産仲介業は、売買した物件の額に応じた手数料が収入となる。通常は買い主と売り主の両方から3パーセントの仲介手数料をもらう。例えば、3000万円の物件の場合、片方の手数料だけで消費税を含めて100万円近い。

「ほとんどのお客様はコツコツ貯めたお金を頭金にして購入するので、何とかしてあげられないかなと。100万円あったら、1ランク上の物件にも手が届きますよね。それで、買い主様からは手数料をいただかないことにしました。うちの利益は半分になるけど、私が2倍働けばいいわと」

 いわば業界の掟(おきて)を破ったわけだ。手数料を多少値引きする業者はいても、最初から片方を無料にしてしまう業者はいない。

 お客には喜ばれたが、同業者からはさまざまな嫌がらせをされた。

 売り主に電話をすると、まだ売りに出ているのに「そんな物件はない」と断られたことが何度もある。和田京子不動産を通じては売りたくない、業界から締め出してやろうと意地悪されたのだろう。

 最初に成約したときも、売り主の不動産会社から手数料を値切られた。売り主から手数料をもらえないとタダ働きになるのを知ったうえで、全額踏み倒そうとする会社もあった。トラブルが続き、契約時には顧問弁護士に同席してもらうようにした。

 孤軍奮闘していると、思いもよらないところからチャンスが舞い込んだ。

 ある日突然、テレビ局のディレクターを名乗る男性から電話がかかってきた。京子さんにバラエティー番組に出てほしいという依頼だった。

 京子さんを知ったきっかけはYouTubeにアップされている和田京子不動産の広告動画。会社の設立時、少しでも知名度を上げようと昌俊さんの発案で作った動画をアップから3年もたって、スタッフが偶然、目にしたという。

 ところが、京子さんは頑として出ないと言い張る。

「私ね、ただでさえブスで、写真を撮られるのも嫌いなんです。テレビに映って、みなさんに顔を見られるなんて、とんでもないって」

 このチャンスを逃したら会社の未来はない。そう思った昌俊さんは懸命に祖母を説得した。洋子さんは詐欺だと疑い、最後まで半信半疑だったと振り返る。

「撮った後に、料金を払えと言われるんじゃないかとか心配で(笑)。当日、ロケバスが着いて、タレントの森三中さんの顔を見たときは、本当にビックリしました」

 2013年7月。80歳で起業した「不動産屋らしくない不動産屋」としてテレビで紹介された。すると、ほかの番組などからも取材が相次ぎ、たちまち有名になった。

 お客からの依頼は絶えなくなり、開業5年目には年商5億円に達した。

眠れぬ夜にも幸あり

 今年の4月から洋子さんが加わり、和田京子不動産は3世代3人体制になった。

 同業者からも一目置かれるようになったのだろう。顧問弁護士の太田真也さん(42)に聞くと、以前のような嫌がらせやトラブルはないという。

「この会社の規模で年商5億円って、普通は難しいですよ。それなのに和田さんのところは、ガツガツした感じがなくて、本当にアットホームな雰囲気なんです。契約の書類をチェックするときも、3人でていねいに見ています。ほかの不動産会社だとだいたい担当の人だけですけどね。ご家族一体になって協力してやっているので、より安心感があるんじゃないですかね」

 強引にでも売ろうとする業者がいるなか、顧客目線を貫く和田京子不動産が人気になるのは、当然ともいえる。

 問題は忙しすぎることだ。電車でつり革につかまり立ったまま寝てしまい、何度も乗り過ごしたという京子さん。娘が加わり、「眠る時間ができた」と喜ぶ。

 そんな88歳は、どこを探してもいない。どうして、そこまで頑張れるのかと聞くと、ちょっと違うのよねとやんわり否定した。

「頑張るというより、仕事を順にこなしていると眠る時間がなくなっちゃうだけなの。私は手がのろいし、頭の働きものろい。鈍行列車だから行きつくまでに時間がかかってしまうんです。この年になるとね、やりたくないことはやりませんよ。この仕事が好きなんです。眠るより仕事をしたいんですよ」

 今ひとたびの青春はまだまだ、真っ盛りだ。

 幸せですかと聞くと、勢いよく返事が返ってきた。

「はい!」

(取材・文/萩原絹代 撮影/齋藤周造)

はぎわらきぬよ◎大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。