日本代表監督を務めた経験を持つジーコ【写真:Getty Images】

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Jリーグ鹿島の選手たちに熱弁「ブラジルには、私より上手い選手がたくさんいた」

「プロとアマの違い、それは自己管理能力だ。ブラジルには私より上手い選手がたくさんいた。もし私が周りの選手たちと同じように遊びたい誘惑に負けていたら大成しなかった」――ジーコ(元ブラジル代表MF)

 ジーコが加入したのはJリーグの鹿島アントラーズではない。アマチュア時代の日本リーグ2部の住友金属だった。しかし住友金属は、Jリーグ参戦を目指すからこそ、ジーコを招聘する理由があった。

 当時チームの監督だった鈴木満(現・強化部長)は振り返る。

「ウチは何もないところから始めなければならなかった。プロクラブのすべてを伝授して欲しかった。だから私たちは、まだ選手だったジーコにすべてを教えてもらおうと切り替えました。鹿島のプロ体制化が急ピッチで進んだ要因です」

 ブラジルはペレが君臨した1958年から70年までの4度のワールドカップで3度優勝を飾った。そしてペレの10番はリベリーノを経由してジーコへと引き継がれていく。リベリーノは、その重圧に辟易とした様子で、代表での背番号についての質問をすると怒り出してしまった。

「ただの背番号だよ、そんなものは」

 しかしジーコは重圧をはねのけ、80年代にペレの時代に次ぎ愛されたチームを牽引した。

 そんなジーコが、鹿島の選手たちに熱弁したという。

「ジーコには『これくらいでいい』という意識がない」

「プロとアマの違い。それは自己管理能力だ。ブラジルには、私より上手い選手がたくさんいた。もし私が周りの選手たちと同じように遊びたい誘惑に負けていたら大成できなかった。だが私はサッカーのマイナスになることは一切しなかった。毎晩10時には帰宅し、パーティーに付き合うことがあっても、翌日トレーニングがあることを忘れない。それができなければプロとしてやっていけない」

 ブラジルは才能の宝庫だが、ジーコより上手い選手がたくさんいたとは思えない。ただし、才能に恵まれスターになっても身を持ち崩してしまう選手も少なくない。早逝してしまったガリンシャや、相次いで問題を起こしてきたエジムンドなど、自制できない天才を挙げれば枚挙に暇がない。そういう意味で、ジーコの弁舌は的を射ていた。

「ジーコには『これくらいでいい』という意識がない。日本リーグでも、ナビスコカップでも、最初から優勝しかないと思っていた。逆にジーコが、なぜ優勝できないんだ、と悔しがるから、誰も満足はできなかった」

 そう述懐する鈴木は、再びジーコと並んで鹿島の戦いを見守る。AFCチャンピオンズリーグ準決勝の初戦を逆転で勝利し、アジアの頂点へと確実に近づいている。

(文中敬称略)(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記〜青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。