横浜F・マリノスの黄金時代を支えたドゥトラ【写真:Getty Images】

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ブラジル代表史に残る左SBロベルト・カルロスと競ったドゥトラの実力

「ロベルト・カルロスも言っていたそうだよ。俺とドゥトラが争って、どちらかが次のセレソンでプレーするだろう、って」――ドゥトラ(元横浜F・マリノス)

 先月45歳のロベルト・カルロスが来日し、Fリーグ選抜(フットサル)でプレーをしてゴールを決めた。長年ブラジル代表とレアル・マドリードを支えてきた名サイドバック(SB)の左足は健在だった。

 だがロベルト・カルロスのかつてのライバルは、すでに日本で通算9シーズンにわたり活躍してきた。Jリーグで200試合以上のキャリアを重ね、横浜F・マリノスの黄金時代に当時の岡田武史監督から「代えのきかない選手」と全幅の信頼を寄せられていた。

 1994年のアメリカ・ワールドカップ(W杯)で、“王国”ブラジルは24年ぶりに優勝を飾った。当時は左SBとして2人の名手を擁し、レオナルドとブランコが交互にプレーしていた。そして彼らの次の世代を競うのが、ロベルト・カルロスとドゥトラだと言われていたそうである。

「ロベルト・カルロスとは、年齢も近いし、メディアにもよく比較された。実際に友人から聞いた話だけど、ロベルト・カルロス自身も言っていたそうだよ。俺とドゥトラが争って、どちらかが次のセレソン(代表)でプレーするだろう、ってね」

 ただしドゥトラには大きなハンデがあった。リバウド、エジムンド、エバイール、ジーニョ、サンパイオら、錚々たるメンバーとともにパルメイラスの黄金期を満喫するロベルト・カルロスに比べ、ドゥトラが所属するパイサンドゥではチーム力に差があり過ぎた。

 だが1996年には、ついにブラジルの名門サントスとの3年契約が成立。移籍後は、バイーア戦で伝説的な60メートルのロングシュートを決めるなど華々しいパフォーマンスを見せて、欧州の名門クラブからもオファーが殺到したという。

セレソンへの夢を諦め、横浜FM黄金期の一員として活躍

「僕は欧州へ行きたかった。でもクラブが相当な金額をふっかけて実現を阻んだ」

 さらにフランスW杯を翌年に控えた1997年には、監督と衝突し、以後短期のレンタルを繰り返すことになる。やがて欧州からの誘いは減り、結局2001年に横浜FMからの短期レンタルを受けることになった。

「短い貸し出しだから、終わったらブラジルに戻るか、欧州に出ようかと考えていた。でもレンタル期間が終わると、マリノスから『もう1年残ってくれないか』と言われた。正直なところ、辛い決断だった。日本にいたら、たぶんセレソンの監督には見てもらえない。代表で活躍する夢は終わったんだ、と考えるしかなかった」

 しかし、その後の横浜FMでの活躍は周知の通り。ロベルト・カルロスとセレソンのSBを争った実力は、日本のピッチでしっかりと証明された。

(文中敬称略)(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記〜青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。