-なぜ今、思い出すのだろう?

若く、それゆえ傲慢だった同級生・相沢里奈の、目を声を、ぬくもりを。

これは、悪戯に交錯する二人の男女の人生を、リアルに描いた“男サイド”のストーリー。

一条廉は3歳年上の美月と結婚し、駐在先のシンガポールで新婚生活をスタートさせる。

しかしその心には、特別な思いを抱く大学時代の同級生・里奈がいた。

腐れ縁のように少しずつ距離を縮めていくふたりはやがて一線を超え、廉は情熱のまま「結婚しよう」とまで口走ってしまう。

夫の不貞に気づいた妻の美月は、廉に別居を宣言。しかし一方では、脅迫電話をかけて里奈に釘を刺していた。


里奈との別れ


気づけば闇に浸かったホテルの一室で、僕は自分が口走った言葉をぼんやりと反芻した。

-里奈と離れるくらいなら、離婚したっていい-

熱情のままに口にした言葉ではあったが、本心だった。

しかし里奈が出て行ったあと、孤独の中で思い返してみれば、ありふれた不倫ドラマのセリフと何一つ変わらない。そのことに気がつき、僕は自嘲気味に頭を振った。

-できもしないこと、言わないで。

今にも泣き出しそうに見上げた里奈の、眼差しが胸を刺す。

…彼女はきっと、見抜いていた。

他人事であったなら「結婚なんて、たかが紙切れ一枚の契約」などと言えるかもしれない。

しかし僕も美月も、そして里奈も。その紙切れ一枚の上に生活を築いている。居心地の良さと引き換えに重い責任を負っている。

最初は薄っぺらい紙切れだったとしても、僕たちはもう、それを簡単に破り捨てることなどできないのだ。

僕はおもむろに冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ごくごく、と喉を鳴らして飲んだ。

冷えた水が、火照った身体の細部に染み渡る。その感覚を確かめながら、僕は努めて冷静に心を決めた。

里奈とはもう会わない、と。

里奈への思いを断ち切ると決めた廉。単身シンガポールに戻るが、すぐに環境の変化が訪れる
取り戻した、穏やかな日々


「そろそろシンガポールに戻ろうかな」

突然、気が変わったのだろうか。

美月がそんなことを言ってきたのは、里奈と関係が切れて半年が経とうかという頃だった。

妻は確実に、僕の不貞を疑っていた。しかし美月は結局、最後まで僕を責めることはなかった。

…そして、後から思えば、まるで里奈と断絶したタイミングを見計らうようにして僕への態度を軟化させたのだ。

「やっぱり夫婦は一緒にいないとダメね。廉、何か必要なものがあれば買っていくから、遠慮なく言ってね」

美月が戻ってきてくれるなら、もちろん助かる。

僕は胸の奥に小さな引っかかりを覚えながらも、彼女の提案を素直に喜んだ。

-里奈と離れるくらいなら、離婚したっていい-

そんなセリフまで口走った僕ではあったが、里奈とはもう会わないと決めた以上、美月との関係を不必要に悪化させる意味はない。

身勝手な男だと言われても仕方がないと思う。

しかし幼い頃から母と姉に溺愛されて育ち、大人になってからもそばに女性がいないということがなかった僕にとって、孤独ほど身に堪えるものはなかったのだ。

「…ありがとう、美月」

しみじみ呟いた言葉は思いがけず重く響き、僕はほんの少し焦る。

だが、その言葉に潜む様々な感情を、美月はさらりと聞き流してくれた。

「ううん。廉が私を必要としてくれて、嬉しい」

その声は穏やかで、柔らかで、まるで僕の心に溜まった泥水を一掃するかのように澄んでいた。

美月は僕の、どうしようもない弱さも醜さもすべてを包み込んでくれる。

「ああ、そうだ」と、僕は思い出す。僕は彼女の、こういうところに惹かれたのだ。

美月がそばにいれば、僕は正しく生きていける。

そう思ったから、彼女と結婚を決めたのだ、と。


しかし結局、美月が再びシンガポールにやってくることはなかった。

というのは、それから間もなくして、僕が日本に本帰国することが決まったからだ。

美月にそのことを告げると、彼女は驚いた様子で一瞬の間を空けたが、すぐに「そうなの、嬉しい!」と歓声をあげた。

帰国したら都心にマンションを借りようか、と僕は提案したのだが、美月は自由が丘の僕の実家で十分だと言う。

「廉が戻ってくるまでに、綺麗に整えておくわ」

ウキウキとした声に、彼女が夫の帰国を心待ちにしているのが伝わってきて、僕はそんな美月を心から愛しい、と思った。

だが運命というのは、どこまでも残酷だ。

日本への本帰国で、僕と美月は久しぶりに平和で穏やかな結婚生活を取り戻す…はずだった。

しかしそれは同時にあろうことか僕と里奈を、再び抗いようなく引き寄せてしまうきっかけにもなってしまうのだから。

ついに日本に戻ってきた廉。夫との平和な日々を取り戻したはずの美月だが、心乱す噂を聞きつけてしまう
美月:知ってしまった、相沢里奈の“ある噂”


「美月さーん♡」

待ち合わせの『Ginger Garden AOYAMA』に現れた結衣は、相変わらず大げさなまでの笑顔を私に向けた。

廉と離れ日本に残ることを決めた私は千葉の実家に戻っていたが、どういうわけか結衣は私にちょくちょく連絡を寄越し、ランチやお茶に誘ってくる。

彼女が“曲者”であることに、私も最初から気づいてはいたが、しかしその矛先はこちらに向いておらず、少なくとも私にとっては何の害もない女だということもわかっていた。

学生時代の友人や昔の同僚たちの多くは、すでに子育てで忙しかったり、あるいはバリキャリで忙しく働いていたりする。

こんな風に、平日昼間にのんびりアフタヌーンティーを楽しむ相手として、結衣はちょうど良い存在でもあった。


「廉、もうすぐ帰国するんでしょ?良かったね」

愛らしいアイシングが施されたクッキーをつまみながら、結衣が私の顔を覗き込んで微笑んだ。

私は反応に困り「うん、そう」と曖昧に笑ってみせたが、結衣はそんな私の表情にも満足そうに頷いている。

「美月さんが幸せそうで、私も嬉しい」

彼女はまるで独り言のようにそう言ったあと、何かを思い出したように「あ」と小さく声をあげる。そしてほんの少し潜めた声で、美月に“ある噂”を教えるのだった。

「…そういえばこれ、風の噂で聞いたんだけど。相沢里奈、妊娠したらしいよ」

「え…」

結衣の発した“妊娠”というワードが心を抉り、私は思わず声を詰まらせた。

-まさか。

まさか、あり得ない。そう思う一方で、意識に反して最悪の想像が脳を巡る。

けれども饒舌に語り始めた結衣の言葉に、私はすぐにホッと胸をなでおろした。

「サークル仲間が産婦人科で偶然、相沢里奈を見かけたらしいの。まだ4ヶ月とかだったかな?わかったばかりみたいだけど」

4ヶ月…4ヶ月か。4ヶ月なら、父親は廉じゃない。計算が合わない。

そうとわかって私は心の底から安心したが、しかしすぐに、それとはまた別の、もやもやとした思いが胸を支配していくのを感じた。

-どうして。どうして相沢里奈だけが、すべてを手に入れるの…?

社長夫人という肩書きとセレブ妻の座を易々と手にしておきながら、それでもなお青春時代の叶わぬ恋にまで執着し、ついには不貞を働いた女。

そんな女が、どうして。どうして子どもを授かるのか。

私が欲しくて欲しくてたまらないものを、どうして次々と手に入れていくのか。

お門違いであることはわかっている。

それでも胸を覆っていく灰色の砂を、私はどうしても振り払うことができなかった。

「…それにしても、人の夫にまで色目使うような女が母親になるなんて。恐ろしいわよね」

顔を歪ませ吐き捨てるように言った結衣を私は「醜い」と思ったが、しかし止めようもなく湧き上がる感情は、私にも同じ表情をさせているに違いなかった。▶NEXT:10月9日 火曜更新予定
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