「オレが負ける戦をするかい」と豪語していた田中角栄は、ライバル福田赳夫への怨念はなかったものの「角福総裁選」に対する用意は、極めて周到だった。

 すでに昭和47年(1972年)5月の「沖縄返還」を花道に7年8カ月の長期政権にピリオドを打ち、退陣が確実視されていた佐藤栄作首相は、公にはしなかったが自らの後継に実兄・岸信介の流れを汲む福田派領袖の福田を推していた。事実上、佐藤派内の“台所”を一手に担い、泥をかぶること度々の田中には、その実力と恩義を感じながらも、危い橋も渡りかねないという一沫の不安があったと思われる。対して、大蔵省出身のエリート福田には、安定感を見たようであった。

 ために「13歳年上の福田を先に、そのあとに田中という順番がいいのではないか」との思いが強かったようである。そうした佐藤の物言いを、それとなく耳にしていた佐藤の側近もいた。
 しかし、すでに田中がヤル気を露わにしていたことから、昭和46年(1971年)7月の佐藤内閣最後の第3次改造内閣で、田中を通産大臣に、福田を外務大臣に起用することで、互いを競わせる方策を取った。田中はその直前の参院選で敗北したことから、都合5期の幹事長を降りたばかりの通産大臣就任であった。

 その田中は、この通産大臣ポストで手腕を示し、自民党内外に改めて「田中あり」を誇示した。折から、日米間には繊維貿易での不均衡問題が浮上していた。米国側はとくに“繊維”を俎上にあげ、「米国全体の貿易収支が悪化しているのは、突出した対日貿易赤字のせいだ」としていた。この日米繊維交渉は、田中の前の二代の通産大臣、大平正芳、宮澤喜一では何ら成果を出せなかった。田中は、これを一気に解決に導いてみせたのである。その過程で、抜群の交渉能力、弁舌能力を発揮、通産省のエリート官僚もその頭脳回転の速さに舌を巻いたのだった。

 田中はまず、米国側の言い分に対し、「貿易は複数の国を相手にするもの。黒字の相手もあれば、赤字もある。日本は米国に対しては黒字であっても、産油国に対しては赤字になっている。二国間で常にバランスを保たねばならないという考えには無理がある」と反論した。交渉事に対する田中は、相手の論理に合わせ、相手の土俵に上がって理路整然と切り廻すというのが常であった。

 しかし、田中の凄いところはここからであった。もとより、理屈と主張だけで交渉が決着するとは考えていない。打った手は、なんとも大胆なものであった。
「繊維問題でこれ以上こじれたら、日米関係を悪化させる。理不尽ではあるが相手の要望も呑まねばならん。その代わり、日本の業界を救済する」として、3000億円で日本国内の繊維業界の損失を補償、交渉を決着させてしまったのだった。

 業界からは米国の主張を受け入れたことで猛烈な批判が噴出し、佐藤内閣にはその後の「沖縄返還」問題があったことで、野党からは「イト(糸)でシマ(島)を買った」の声も出た。この田中と米国側の交渉に同席していた当時の通産官僚は、のちに次のように“田中交渉術”に舌を巻いたものだった。
「とにかく、弁舌の鮮やかさには度肝を抜かれた。理解力、弁論の切り口、どれをとっても当代一流だと思い知った。歴代の通産大臣では、ピカ一だった」

★佐藤首相の調整不発

 日米繊維交渉が落着した翌昭和47年(1972年)1月、佐藤首相は田中、福田の両大臣を同行させ、サクラメンテでのニクソン大統領との首脳会談に臨んだ。「沖縄返還」への最後の詰めである。しかし、田中、福田をあえて同行させたことで、これには次のような憶測の声があった。

 「佐藤は表向き『両君は君子の争いをせよ』と言っていたが、その胸中が福田にあることは誰もが察していた。ために、日本を離れたかの地で、まず福田、次に田中への禅譲という調整に動くと思われた。実際に調整話があったのかは不明だが、すでに走り始めている田中は聞く耳を持たなかったともっぱらで、両者の“握手”はなかったとされている」(同行記者)