報道バイアスによって見当違いの言説も振りまかれている(写真:takasuu/iStock)

内閣府の調査により、18歳以下の自殺者数が最も多いのは夏休み明けの9月1日だということが明らかになった。日本でいじめが社会問題化して以来30年以上にわたり、国内外でさまざまないじめ研究が行われ、数多くの社会理論が磨かれてきた。こうしたエビデンスに基づき、本当に有効ないじめ対策を行わなければならないと主張するのは、評論家であり、NPO法人ストップいじめ!ナビ代表理事を務める荻上チキ氏だ。新著『いじめを生む教室』より、一部を抜粋して紹介する。

いじめは「増やす」ことができるか

突然ですが、ここで1つ質問です。どうすれば、教室でのいじめを「増やす」ことができると思いますか? いったん目を閉じて、少しの間、ぜひ真剣に考えてみてください。

たとえば、こういうのはどうでしょう。児童にストレスを与えていらいらさせる。先生が率先して特定の児童をいじる。小さなトラブルを見て見ぬふりをし、エスカレートするのを待つ。仲の良くない者同士でグループを組ませる。相談を受けても対処せずに放置する。

あるいは、大人の目が届きにくいような場所を増やす。同性愛者差別などの言動を大人たちが子どもの前でとり続ける。教師の仕事を増やしたり、教師の数を減らしたりして、個別のトラブルに教師の手が回りにくくする。露骨に生徒の上下関係が発生するような部活指導などを繰り返す──。

どうでしょう。じっくり考えれば、いじめを「増やす」ためのいろいろなアイデアが思い浮かぶのではないでしょうか。

いじめについて議論をする際、しばしば「どうせいじめを減らすなんて無理だ」という反応が見受けられます。しかし、「いじめを増やすなんて無理だ」と思う人は少ないのではないでしょうか。実際、ワークショップなどでこうした質問を投げかけると、いじめを「増やす」ための、具体的で現実的なアイデアの数々が、参加者の中から出てきます。

いじめを「増やす」ことができるのであれば、「いじめの数は、条件によって増減する」ということが確認できます。そして、「いじめを増やす要因」について考える作業は、そのまま「どの環境を改善すればいじめを抑制できるのか」という発想につながります。

児童のストレスに配慮した教室づくりを行う。先生が特定児童にラベリングをしない。トラブルの初期段階から介入する。集団行動を無理強いしない。相談を受けやすい体制をつくる──。先ほどあげたアイデアを反転させるだけでも、さまざまな解決策が浮かぶでしょう。

「本人の資質」と「環境要因」の双方が関わる

いじめについてこれまでは、被害者と加害者の心理にばかり焦点が当たりがちでした。しかし、いじめなどの行為には、「本人の資質」と「環境要因」の双方が関わります。

大人でも、のびのびとした環境ではにこやかに過ごせますが、ストレス下に置かれれば行動が変わることがあります。ニコニコ優しかった人が、親となり、育児ストレスによって子どもに手をあげるようになってしまった、というのもその典型でしょう。

あるいは、この社会にはブラック企業もあればホワイト企業もある。ハラスメントが多い会社もあれば、少ない会社もある。大人の集団でも、人間同士の組み合わせや環境によって、人々の行動が変わります。会社がつぶれて貧困になった家庭で、父親が荒れだす。その時、周囲の人は、「あの人は、人が変わってしまった」と言います。しかし、その人の行動を変えたのは、環境の変化です。

人は環境で変わる。それは子どもだって同じこと。環境のあり方によって、いじめが増えたり減ったりするのです。

いじめ等の問題が多い教室を、ここでは「不機嫌な教室」と呼びましょう。逆に、児童の満足度が高く、いじめ等の問題が少ない教室を、「ご機嫌な教室」と呼ぶことにします。さまざまな条件がそろうことによって、「不機嫌な教室」や「ご機嫌な教室」が作り出されるのです。

「不機嫌な教室」は、いじめだけでなく、不登校や非行などの問題を生じさせます。そうならないように、「不機嫌因子」を丁寧に除去することも大人の役割です。「いじめを増やす要因」を取り除くことで、いじめは減らせるのです。

いじめ対策というのは、「発生したいじめに対応する」「いじめをしないように教育する」ばかりがすべてではありません。「いじめが起きにくい環境を作る」「人をいじめに追いやる背景を取り除く」「何がいじめ対策に有効なのかを検証する」など、さまざまな対策が必要になります。単純化すれば、いじめ対策は「予防→早期発見→早期対応→検証」のサイクルで回す必要があると言えるでしょう。

これまでは、「いじめっ子を厳罰化しよう」とか「道徳教育でいじめを抑止しよう」といった、部分的かつ感情先行型の議論ばかりが目立ち、いじめ対応のサイクルが意識されてきませんでした。また、道徳教育であるとか生徒指導といったような、子どもの内面に着目するアプローチばかりが目立っていて、環境を改善するという発想が脆弱でした。

いじめ対策においてこれからは、「心理的アプローチ」のみならず、「環境的アプローチ」が必要になります。どういう教室にすれば過ごしやすいのか。どういう教員であればいじめを抑止できるのか。

人の心ばかりを変えようとするのではなく、人が過ごす環境を変えることで、行動の変化を促していく。そうした、発想の転換が求められています。

報道バイアス

いじめが増加している」「いじめが流行している」「いじめが凶悪化している」。こうしたイメージは、メディアによって助長された側面があります。そしてそのメディアによって共有された誤ったイメージは、いじめ議論をも歪めてしまいます。

そもそもメディアがいじめを取り上げるのはどんなときでしょうか。それは、「話題性のある特殊ないじめ」が発生したときです。いじめによって自殺した、被災地からの避難者がいじめられた、いじめの様子がネットで拡散されて大きく話題となった。こうした特殊ないじめが発生したとき、メディアはこぞって報道に乗り出します。

しかし、いじめは毎日あちこちで起こっていますし、子どもの自殺も毎年発生し続けています。メディアがあるタイミングで一斉にいじめ報道を繰り返したからといって、その時期にいじめが増加しているとは限りません。いじめ報道の流行と、いじめそのものの増減は、区別しなくてはなりません。

質的な面でも同様です。メディアでは、特に悪質ないじめが取りざたされがちです。激しい暴力を伴うケース、多額の金額を恐喝したケース、いじめ動画が撮影され拡散されたケース、そして不登校や自殺にまで追い込まれるケース。こうした事件が起こると、「事件報道」として、社会部の記者や情報番組のカメラクルーなどが対応します。

そうすると、いじめが従来の犯罪報道やスキャンダル報道と同様の方法論で取り上げられます。しかし、取材している記者たちでも、いじめ問題について詳しい人はまれです。そのため、誤った印象を与える報道がなされることが珍しくありません。

またワイドショーなどの場合、こうした事件についてコメントする人たちのほとんどが、いじめ研究についてのデータなどをインプットしていません。結果として、「最近の若者のいじめはひどい」といった見当違いの言説がふりまかれることになるのです。

しかし、事件化したいじめというのは、特に極端ないじめです。そうした例ばかり想定して議論すると、的外れな議論になりがちです。

たとえば「いじめは犯罪」という言い方があります。確かに暴行や恐喝は犯罪であり、こうしたケースについては警察などとの連携を増やしていかなくてはなりません。学校を聖域化して、第三者の目を入れず、独自の采配で事を済ませることが横行している現状は、正していかなくてはなりません。

しかし、いじめには大きく分けて、「暴力系いじめ」と「コミュニケーション操作系いじめ(非暴力系いじめ)」の2つがあります。

殴る、蹴る、性暴力を行う、恐喝をするといった前者と、物を隠す、嫌なあだ名をつける、嫌なうわさ話を流す、無視するといった後者とでは、対応の仕方も変えなければなりません。

現代日本の場合、大半のいじめは「コミュニケーション操作系いじめ」です。こうしたいじめも、「暴力系いじめ」と同じように「犯罪」として取り扱い、「警察に通報」しさえすれば、解決するでしょうか。いえ、そもそも「犯罪」としての要件を満たさないケースが多いため、難しいでしょう。ですので、「いじめは犯罪なので警察に」とひとくくりにはできないのです。

「コミュニケーション操作系いじめ」では特に、被害者にそのいじめの記録をつけさせたり、丁寧な聞き取りを行ったりすることが重要となります。だからこそ、どんな指導がより適切なのか、現場では頭を悩ませているのです。

外野からの「加害者を罰すればいい」という意見は、「特効薬」を求めるあまり、いじめの実態を無視してしまう結果となっています。教師の目を盗んで行われる「コミュニケーション操作系いじめ」に対して、教育現場でいかなる指導(早期発見・早期解決)をすればいいのかという観点が抜け落ちているのです。

「自殺するくらいなら学校から逃げろ」の副作用

また、「いじめられて自殺するくらいなら学校から逃げろ」と言われることもあります。緊急措置としては、この意見には賛成できます。しかし、この意見ばかりが独り歩きすると、それに伴う副作用が見落とされてしまいがちです。

仮に学校に行かなくなった時、その児童にはどういう手段で教育の機会が確保されるのでしょうか。大半のコメンテーターはそこまで深く考えて発言していません。

確かに、「学校に通う」というのは、教育を実現するための手段の1つにすぎません。しかしこの国では、「学校に通う」以外の手段が、しっかりと育てられてきませんでした。フリースクールやホーム・ベースド・エデュケーション(家庭中心の学習)をはじめ、民間で活動している団体が増えつつあるものの、まだまだ多様な教育のあり方は発展途上です。フリースクールや夜間学校などの設置状況には地域差も大きくあります。

文科省の統計では、いじめや友人関係による児童の自殺は、毎年十数件から数十件程度、発生しています。この報告が過小報告だとして、15歳までの自殺率全体に目を向けても、おおむね横ばいをたどっています。他方で、不登校者の数は、年間で10万人以上にものぼります。「不登校生徒に関する追跡調査報告書」(文部科学省、平成26)によれば、不登校経験者に不登校になった理由を尋ねるアンケートを行ったところ、いじめを含む友人関係がきっかけとなって不登校に至ったと答えた者の割合が、52.9%となっています。

つまりは、コメンテーターに言われるまでもなく、すでに多くの児童が、いじめなどの人間関係によるトラブルから逃れる手段として、「死ぬくらいなら学校に行かない」ことを選択させられているというのが実情なのです。

「教育オプションが充実している社会」は大賛成

私は、「学校から逃げてもいい社会」、より丁寧に表現すれば「〈学校以外〉の教育オプションが充実している社会」を実現することには大賛成です。しかし、安易に「学校から逃げてもいい」と言ったとき、多くの視点が抜け落ちていることを危惧しています。

まず大前提として、私たちはすべての児童が安心して教育を受ける権利を満たさなくてはならず、そのために、主要な教育の場となっている学校を安全・安心な環境にする努力をしなければなりません。しかし、「学校に行かなくてもいい」という意見ばかりが強調されると、そうした具体的な学校改善の議論を成熟させることができません。

また、他の選択肢が脆弱な状態で「学校に行かなくてもいい」とだけ伝えると、問題が個人化・矮小化されてしまいます。学校に行かないとその児童が選択した時点で、この社会では教育が「自己責任化」されてしまうのです。2016年に、私がEテレ「ハートネットTV」と行った調査があります。


不登校当事者の家庭444世帯にアンケートを行ったところ、世帯年収によって、家庭学習にかけられる金額に大きな開きがあることがわかりました。他方、その教育費の占める割合は、所得が低い世帯ほど高い。つまり、家庭教育費の「痛み」が大きいこともわかったのです。

学校というのは、憲法に定められた公教育を実現するための一手段です。どの家庭に生まれても、教育を受ける権利が子どもたちにはあります。今はその主たる手段が「学校に通うこと」となっています。その学校に行かないとなれば、当然ながら、家庭の経済格差がダイレクトに子どもに影響しやすくなります。

「学校に行かないなら、他の選択肢を自己責任・家庭責任で選べ」というのが、残念ながら現在の社会です。その結果、貧富の差によって、教育にかけられる支出が変わり、その影響が大きく現れやすくなります。だから私たちは、「ご機嫌な教室を増やそう」という議論と、「学校以外の選択肢を拡充しよう」という議論の、両方を同時に行わなくてはならないのです。