藤田信雄は戦後、米国から大歓迎された

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「日本機侵入」米国の警戒網をかいくぐった機体は史上初の米本土への爆撃を成功させる。40年以上の時が流れ、米国大統領はそのエースパイロットの勇気に最大級の讃辞を送った。作家の倉田耕一氏が、その日本人パイロットがなぜそのような待遇を受けたのかを記す。

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 昭和十七年四月、海軍の軍令部は東京など主要都市が米軍機に空襲されたことを重く受け止め、その報復として米国本土爆撃を計画した。しかし、その計画は奇妙奇天烈(きてれつ)なものであった。

 同年八月上旬、横須賀軍港の岸壁に係留されていた伊号二五潜水艦の飛行長、藤田信雄(飛行兵曹長)は「入湯上陸」の予定で、いわゆる泊まりがけの外出が許可されていた。

「飛行長、ちょっと来てくれ」

 艦長の田上明次が狭い艦長室から、士官室に顔をのぞかせ、藤田を呼び出した。彼が艦長室に行くと、田上が電報を差し出す。それには「伊号二五潜水艦飛行長、本日軍令部第三課ニ出頭セヨ」とあった。

「これはどういうことですか?」

「オレにも分からん。まあ、行けば、分かるだろうよ。これからすぐ行ってくれ。多分、井浦中佐だろうが、彼は潜水艦担当で、俺もよく知っている奴だ。彼に会えば、飛行長を呼んだ真意が分かると思う」

 井浦祥二郎は第三潜水戦隊先任参謀などを歴任し、戦時下には軍令部で潜水艦作戦の立案に携わっていた。藤田はなぜ自分に軍令部から出頭命令が来るのか、まったく見当がつかなかったし、間違い電報ではないかと、何度も反芻(はんすう)しながらも夏の軍服を着込み、最寄りの横須賀駅から新橋行きの切符を買った。

 海軍省の古風な赤レンガの建物の二階、軍令部第三課と書かれたドアをノックする。案内された部屋で待っていると、井浦が「おう、ご苦労さん。田上艦長は元気か。実は、こんど君のところでアメリカ爆撃をやってもらいたいんだ。いま、シアトルで駐在武官をしていた副官を連れてくる。詳しいことは彼が説明するから」と、緊張ぎみの藤田を促し、会議室へ案内する。

 会議室には数人の参謀将校がいた。その中には昭和天皇の弟君、高松宮(宣仁親王)のお姿も。高松宮は参謀肩章をつけた中佐で、藤田より六つ年上。当時、三十七歳。一介の飛行兵曹長が今上天皇の弟君である皇族が参加する会議に列席を許されることは異例なこと。いかに海軍上層部が藤田の水上機の腕前を買っていたかの証左でもある。

 副官が円筒を小脇に抱え、会議室に入って来るなり、地図をテーブルに広げ、話しはじめた。

「米国の西海岸は山林が多く、ほとんどが原始林。敵さんが一番恐れているのは山火事である。自然発火することもまれにある。西海岸の大森林でいったん火災が起きると、消しようがない。猛烈な熱風が近隣の町を襲い、炎はすべてを焼き尽くす。こうなると、多くの住民は命からがら避難しなければならない。焦熱地獄で心身ともに疲労困憊してしまうのだ。従って敵のもっとも苦痛とする森林火災を、飛行機から焼夷弾を投下して発生させれば、その効果は絶大である」

 藤田は殿下に最敬礼し、米国西海岸の地図を受け取り、会議室を出た。

「よし、やってやるぞ」

 この空襲が成功すれば、敵は本土防衛に多大な精力を注がなくてはならなくなる。帰りの電車で一人、藤田は興奮した。

 潜水艦作戦担当の井浦は戦後、伊号二五潜水艦を選んだ理由として、艦長の田上明次(中佐)が極めて有能な指揮官であったこと、そして藤田信雄という水上機のエースパイロットがその艦に乗っていることを考えてのことであったと明らかにしていた。

◆「爆発。燃えています」

 二五潜水艦は米国オレゴン州のブランコ岬灯台の光芒を望む二十五カイリの沖合に浮上した。

 藤田が操縦する零式小型水上偵察機はこの二五潜水艦の艦載機である。後席には偵察員の奥田省二(二飛曹)が乗り込み、十七年九月九日の黎明、米本土を爆撃するため飛び立つ。水上偵察機には六十kgの焼夷弾二発が搭載され、潜水艦甲板から轟音を響かせ、カタパルト射出(*)された。

(*:レールに台車を乗せ、その上に飛行機を乗せ、圧搾空気の力で勢いよく飛行機を飛ばす機械のこと。巡洋艦などからのカタパルト射出は火薬を使用するが、潜水艦の場合は圧搾空気が使われる)

 低翼複座の藤田の愛機は、オレゴン州の森林をめがけ、二度にわたり搭載していた焼夷弾を予定地に投下した。これが日本人パイロットによる唯一の米本土の爆撃だった。

 後席の奥田が眼下を注視する。はるか眼下の地上に落下した焼夷弾が爆発するのが、線香花火のような火焔で確認できた。目を凝らすと、ピカピカと発火して四方に火花が飛び散っているのが見えた。

「爆発。燃えています」と奥田が伝声管で藤田に伝える。

 これで四月十八日のドーリットル爆撃隊の東京空襲に報いることができたと、彼は満足感に浸る。さらに東に進路を取り、数カイリ飛んだところで、第二弾を投下。またもや爆発が起き、眼の眩むような白い火花が飛び散る。彼は奥田に「敵機の見張りを厳重にやれ」と指示し、飛行機をブランコ岬の方に向ける。エンジンを絞り、機首を下げる。敵のレーダー網をかいくぐり、洋上で待つ母艦を探した。

 大空から母艦を探すのは大海原の中で棒きれを探すのに等しい。

 また、敵機に追尾されると、潜水艦は敵の攻撃を避けるため、海中深く潜らねばならない。この時点で藤田機は自爆しなければならないのだ。苦心の末、母艦である二五潜水艦を見つけ、藤田機は大きくバンク(左右に交互に翼を傾ける運動)をしながら、母艦脇に着水した。

◆「敵ながら実に天晴れ」

 戦後、藤田一家は米国から招待を受け、昭和三十七年五月二十三日、羽田空港を出発。

 オレゴン州ブルッキングスのアゼリア祭りは毎年五月に開催され、ブルッキングスの最大行事といえた。紺碧の澄み渡った空の下、主催関係者と主賓役の藤田一家が壇上に並び、市民らに手を振っていた。彼は思う。どうして市民はこんなにも自分たちを熱烈に歓迎してくれるのだろうか──。大勢の市民らは思いおもいにカラフルな装飾を施した姿でパレードに参加し、一家の方へ手を振っている。

 州内の各新聞は連日、日本からの“英雄”一家の歓迎ぶりを大きな題字と大きな写真で報道していた。五月二十九日付の「タイムズ」では「フジタのサムライ剣、ブルッキングスの市長へ寄贈」と、写真と見出しが躍っている。彼は日本からのお土産を何にしようか、渡米前に迷っていた。自分が任官した時、日本刀を軍刀に造り替えていた。その軍刀をお土産にしたのだ。

「この軍刀は私の魂だ。武運つたなく最後のときは、自分の一命を断つために何時も自分のそばに置いていた。もちろん飛行機にも持って乗った。そうだ、武士の魂のこの軍刀にまさるお土産は、ほかにはない。この軍刀を研ぎに出して手入れをし、茨城県庁や文部省に赴き、持ち出しの手続きを取った」

 渡米の少し前、藤田はブルッキングス市のJC(青年会議所)からの招待状を土浦市内の自宅で受け取った。外務省から届けられたJCからの招待の「真意」が判らず、彼はその真意を尋ねる手紙を出す。向こうからの返書はこうであった。

「米国は開国以来、未だかつて外敵の侵入を許したことがありません。太平洋戦争において貴殿は、この歴史的な記録を破って単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかいくぐり、米本土に侵入し、爆弾を投下致しました。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れであると思います。その英雄的な功績をたたえ、日米の友好親善を図りたいと我々は考えております」

レーガン大統領からの賛辞

 その後も草の根の日米交流を続けた藤田は、JCなどから招待された時の恩を何とか返そうと、ずっと思い抱いていた。しかし、戦後自分が育てた会社が倒産。一家は離散し、彼は人生をやり直そうと、齢六十八の時、伝手をたどって電線会社の神奈川県内の工場に住み込み、従業員の送迎バスの運転手として雇われる。

 質素で「清貧」を旨として少ない給料から借金の返済と毎月三万円のお金を蓄え、あの時の恩を返そうと、懸命に努力する。ブルッキングスの高校生を日本に招待するため、藤田は無我夢中で働いた。

 昭和六十年七月八日。藤田がブルッキングスから招待した女子高校生らの歓迎会が土浦市内のホテルで開かれた。引率してきたJCの会長、マイケル・モーランの謝辞は出席者の誰もが予想もしない、意表を突くものであった。

「藤田信雄元中尉殿、貴殿の好意と惜しみない心や友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は、貴殿の立派で、また勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります。ロナルド・レーガン」

 現職大統領のポートレートを掲げ、メッセージを代読したのである。

 メッセージに書かれている通り、米国旗は藤田へ渡すため、「五月一日」にワシントンのホワイトハウスに掲揚されたことを示す証明書付きの星条旗であった。

 藤田の一番の理解者であった「タイム」誌の元記者、エス・チャングが次のように述懐している。

「超大国の大統領がこれほど強い讃辞を個人、しかも旧帝国軍人に与えるなど聞いたことがない」

 彼は過酷な戦時下の苦労があったので、戦後も力強く生きられたのかもしれない。若い人には是非、藤田信雄の生き方を学びとって欲しいと思う。

(文中敬称略)

●くらた こういち/1952年秋田県生まれ。業界紙記者を経て産経新聞社に入社。現在はフリーランスとして活動。著書に『アメリカ本土を爆撃した男 新書版』(毎日ワンズ)などがある。

※SAPIO2018年7・8月号