10歳で突然、朝鮮人と言われた男性の驚きとその後とは……(イラスト:Masami Ushikubo)

『家族無計画』『りこんのこども』など家族に関する珠玉のエッセイを生み出してきたエッセイストの紫原明子さん。この連載で綴るのは、紫原さんが見てきたさまざまな家族の風景と、その記憶の中にある食べ物について。紆余曲折あった、でもどこにでもいる大人たちの過去、現在、そして未来を見つめる物語です。

「10歳のときよ。兄貴と俺が2人、いきなり親に呼ばれてさ。“お前たち、今日から転校するぞ”って。そりゃもうびっくりよ」

呆れたように笑いながら語る友人P。けれども、10歳のその日から2カ月の間に経験したことは、その後の彼の人生を大きく変えるものとなった。

10歳だったPがその日、兄とともに両親に連れられた転校先。それは最寄り駅から電車でほんの数駅の場所にありながら、言葉も、文化も、それまで見知ったものとはまるで異なる学校。この日からPは朝鮮人として、朝鮮学校に通うことになったのだった。

たった2カ月間の、朝鮮学校での生活


紫原明子さんによる新連載。この連載の一覧はこちら

Pは52歳。ひょんなことがきっかけで知り合った、年の離れた友人だ。IT企業の経営者で、在日コリアン2世。

Pの両親は、Pが生まれる前に韓国から日本にやってきたという。ところがPは10歳になるまで、そのことをまったく知らずに育った。

日本で生まれ、日本語の名字と名前を持ち、両親や家族とも日本語で会話をしてきた。当然のように近所の公立小学校に通い、日本人の友達と過ごしてきた。ところが10歳のその日、Pは両親に「お前は日本人ではなく、朝鮮人だ」と告げられた。

「そう言われてよくよく考えてみるとさ、両親が夫婦喧嘩するときなんかに、知らない言葉を話していたようなこともあった。でも、不思議なことに自分が朝鮮人かもしれないとは思ってもみなかったわけよ」

朝鮮学校では、日本語を使うことは禁じられていた。そのため朝鮮語を話すことのできないPと兄は、海外からの転校生のように、1日のカリキュラムのうち2時間を朝鮮語習得のための学習に費やすことになった。クラスメートたちと同じ授業は、それ以外の時間に受けた。

ところが、そんなPの新しい生活も、2カ月で終止符を打つ。言葉の壁は存外に大きく、Pは次第に同級生からいじめられるようになってしまったのだ。日に日に顔を曇らせ、沈みがちになるPの様子を心配した両親によって、2カ月ののち再び、以前通っていた日本の公立小学校に戻されることとなった。

「だけどさ、当然ながらそれですべてが元通り、なんてうまくはいかないもんなのよ」

その日Pは、私や私の家族に手料理を振る舞ってくれるといい、わが家の狭い台所に、長身を丸めるようにして立っていた。調理しながら、昔のことを少しずつ、思い出したように語る。

朝鮮学校から、それまで通っていた学校に戻ると、2カ月いったいどうしていたのかとみんなが口々に尋ねてきた。大多数の友人には適当なことを言ってごまかしたものの、特に仲の良かった数人には、意を決して本当のことを打ち明けた。

“え、お前、朝鮮人だったの?”

なかには露骨に眉をひそめる友達もいた。けれどもそんな反応と同じくらいPの心に突き刺さったのは、“朝鮮人だからって気にするなよ”という慰めの言葉だった。

見た目も、話す言葉も、生活も、以前と何一つ変わっていないのに、自分に朝鮮人であるという事実が付け加えられただけで、同情され、慰められる。なぜ慰められなければならないのかわからなかった。馴染みのある場所に帰ってきたはずなのに、みんなと同じだった自分は消えてしまった。10歳の少年が突如として背負うには、重い現実だった。

「やられたら徹底的にやり返せ」

一方Pとは対象的に、一緒に転校した兄のほうはというと、新しい環境にみるみる適応していった。

Pいわく、当時の在日コリアンは、企業への就職や結婚といった、生活におけるさまざまな場面で露骨な差別を受けていた。大人たちでさえそうなのだから、理性や知性の未熟な子どもたちの世界はなおさらだった。朝鮮学校の生徒は朝鮮人であるという理由だけで、直接的な暴力の対象となった。

当時、近隣の不良中高生の間では、朝鮮学校の生徒を通学路で待ち伏せしてケンカを挑み、相手を負かして学ランのボタンを奪って帰る、そんなタチの悪い遊びが横行していた。奪ったボタンの数だけ、仲間内でハクがつくというのだ。学校同士の抗争となれば、人数が少ない朝鮮学校の生徒は不利だが、だからって、ただ黙ってやられているわけにもいかない。やられたらやり返す。その応酬がいつまでも続く。そんな時代だった。生傷の絶えない戦場のような毎日の中で、もともとは気の優しかったPの兄も、次第にある種の凄みを増し、転校して1年も経たないうちに、いわゆる“ヤンキー”の世界にすっかり染まってしまった。

そんな兄も、今から20年前に、病気で他界してしまった。Pには子どもの頃、兄から聞かされた忘れられない言葉がある。

“いいか、やられたら絶対にやり返せ。それも、次にまた仕返ししようなんて気力さえ失わせるほど徹底的にやれ。そうじゃなきゃお前がやられるんだ”

そんな兄の姿や、同様に在日コリアンとして生きる親戚の姿を間近で見ながら、Pは自分がどう生きるべきかを思い悩んだ。

「俺はもともと生真面目な性格だから。お前は朝鮮人だと親や親戚に言われると、そうか、俺は朝鮮人だ。これからは朝鮮人として生きていかなきゃと思う。でも、兄や親戚を見てるとやっぱりいろんな葛藤があるわけよ」

自分は何者か。何者として生きるべきか。

大学に進学したPは、途中で1年休学し、留学生としてアメリカに渡った。長い葛藤の中で、日本人にも、朝鮮人にもなりきれない不確かな自分のまま日本で暮らし続けることに耐えられないと感じていた。いずれ日本で暮らすことをやめてもいいように、その準備をしておこうと考えたのだ。

Pの実家は、両親が日本に渡って以来、一代で築き上げた町工場。決して裕福とは言い難い中で、Pを東京の私大に通わせてくれた。そのうえ留学までさせてくれるというのだから、当然贅沢は言えない。

費用を最優先に検討した末、渡航先はミシガン州に決まった。訪れてみてわかったことに、大学はとんでもない田舎町にあり、繁華街に出るには数時間車を走らせなければならない。それでいて、貧乏学生のPには車を買えるような余裕もなかった。しばらくは友人もできず、ホームシックになり、東京にいる友人に手紙を書いたりして過ごした。それでもなんとか慣れてくると、アメリカでの生活はPに思いもよらない世界を見せてくれた。

「なんせアメリカには、純粋なアメリカ人なんてほとんどいない。メキシカンアメリカン、スパニッシュアメリカン、コリアンアメリカン。いろんな国にルーツを持つ人たちがアメリカ人として生活している。もともとの国の言葉のファミリーネームと、英語のファーストネームを堂々と名乗っている。それで俺も、自分は日本で暮らすコリアンジャパニーズなんだって。ようやくそう思えたんだよ」

日本に帰国したPは、それまで使っていた日本の名字を、両親が本来持つ、韓国の名字にあらためた。韓国の名字と日本の名前。それこそがPの、自分で選んで決めた生き方だった。

簡単に捨てられないもの

この日、Pがわが家で作ってくれていたのは“トック”と呼ばれる、韓国のお餅を入れたスープ。たっぷりの水と大きな鶏の骨付き肉、それにネギの青い部分とニンニク1片。ぐつぐつ煮込んでとったスープに、塩だけでシンプルに味を付ける。ここに、トックを入れて、少し火を通せば完成だ。お雑煮のような食べものだといい、実際にPの実家ではお正月に母親が決まって作ってくれていたのだという。

時間をかけて煮込んだ、澄んだスープを一口飲み込むと、じわっと体中に優しい味が広がった。程よい弾力のあるトックに、スープがよく絡む。器の底に沈む鶏肉は、箸の先が触れたそばからほろほろと身がほぐれていく。

「だけどね。そうは言っても情けない話、俺にはまだどっちつかずの部分も残ってるのよ。日本でコリアンジャパニーズとして暮らしてる以上、さっさと帰化しちゃえばいいと頭では思っている。それが世界的に見てもスタンダードだと思うしね。だけどどうしてもそこに踏み切れないわけよ。自分でもなんでかわかんなかったんだけどさ。あるとき俺の大事な友達が言うのよ。“誰かが長い間大事にしてきたものを、簡単には捨てられないよな”って。自分のことなのに他人事みたいに、あ、そうかってね」

理屈じゃないのだとPは言う。日本に渡ってからのPの両親が、いったいどれほどの苦労をして生活の基盤を整えてきたか。両親が背負ってきたもの、息子である自分に託されたもの。それらの大きさを思うと、自分ひとりの意思で、簡単に手放すことはできないのだ。

何年か前、私は、それまで親しくしていた人との思いがけない別離に直面し、どうしようもないほど打ちのめされていた。そんな話をどこからか聞きつけたPは、その日のうちに近所のカフェに私を呼び出した。待ち合わせの時間より少し遅れてやってきたPは、私の前に立つなり、羽織っていたジャケットの前をバサッと、クールなポップスターさながらに観音開きにした。

ジャケットの裏地には、縁あって私が制作に携わった“泣いてもいいよ”と書かれたシールが、ぎっしりと何枚も貼られていたのだった。おまけに、よく見るとそれらは本物のシールより一回りほどサイズが大きく、画質も荒い。聞けば、シールの入手困難な事情を鑑みたPが、オフィスのプリンターで自前で印刷、一枚一枚ハサミで切り取っては、テープで貼り付けたのだという。

そのときの私はあまりにも打ちひしがれており、自分の置かれている状況にもかわらず、どこか現実味が欠けていて、だからほとんど泣くことができずにいた。けれどもPの思いもよらない優しさを前に、悲しいのかうれしいのかわからない涙が次々とあふれ出てきて、しばらくの間どうすることもできず、ただ許されるままに泣いた。

その人が、そのとき、いちばん大切にしたい気持ち

Pはいつも、誰に対してもそんな調子なのだ。周りに困ったり、落ち込んだりしている友人がいれば、何をおいてもすぐに駆けつけてくれる。そのうえで、黙って話を聞いてほしい人のそばでは、ただ黙って話を聞いている。もう一歩で立ち上がれそうな人には、背中を押す言葉をかける。誰かが良い仕事をしたり、幸運に恵まれたりすれば、自分がそれによってどれほど感動したか、オーバーなほどの言葉を重ね、延々と力強く称賛してくれる。

Pは、目の前にいる人がその瞬間、いちばん大切にしたい気持ちを、正確に見抜くことができる。なぜならそれは、Pが子どもの頃から今に至るまで、ずっとやり続けてきたことだから。またそれと同時に、自分にとって当たり前だったものが突如として失われてしまう、そのことの途方もない心細さを、Pが痛いほど知っているからなのではないだろうか。

10年後も、20年後も。Pはきっと今と何一つ変わらず、何気ない日常の中で、ふとしたことで傷ついてしまう私たちを、その都度じんわりとあたたかく癒やしてくれているのだろう。家族や友人、たくさんの人の思いを、決して見て見ぬふりしないP。彼の作ったトックとチキンスープの包み込むように柔らかな味わいは、さながらPという人、そのもののように感じられた。