2014年10月31日、衆院本会議で質問する次世代の党(当時)の杉田水脈氏(写真=時事通信フォト)

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自民党の杉田水脈衆院議員が、月刊誌「新潮45」(8月号)に「LGBTのカップルは子供をつくらないので『生産性がない』」などとする記事を寄せ、批判を集めている。この問題の本質はどこにあるのか。政治学者の栗原康氏は「彼らは『自分は社会の役に立っている』という考えに縛られ、他者に対してイライラしている」と訴える。新著『何ものにも縛られないための政治学』(KADOKAWA)の内容を踏まえた特別寄稿をお届けしよう――。

■美しい日本のために「社会の障害物」は邪魔だった

ちょうど2年まえ、相模原で19人の障害者が殺害されるという事件があった。犯人の植松聖は、この世のなかになんの生産性もないやつらはいらない、世界が平和になりますように、ビューティフルジャパンといって、障害者施設にのりこみ、犯行におよんだんだ。

この植松という青年は、もともとこの施設の職員だったのだが、仕事がうまくいかず、やめて無職に。かれもこの社会ではなんの生産性もない、クズよばわりされるほうだったのだろう。だが、そんなふうにはいわれたくない。オレはつかえるやつなんだと証明するために、自分がこの社会の障害物だとみなしている人たちを殺戮していった。世界平和のために、美しい日本のために。

なぜ、こんなことをいったのかというと、あれから2年かとおもっていたら、また自民党の杉田水脈という政治家が、LGBTは子どもを産めないから生産性がない、税金なんてつかうな、この社会から切りすてろみたいなことをいっていたからだ。

子どもを産むのがあたりまえ? この社会の道徳に照らして、役にたたないとみなされた人たちを排除する。植松とおなじだ。てゆうか、こういうことをいう政治家がたくさんいるから、植松みたいのがでてくるのだとおもう。権力者がいっていることをうのみにして、自分がこの社会の役にたっていると誇示しなくてはいけないとおもうのだ。

■大事なことは世間の「価値観」にしばられないこと

これをひとごととおもうことなかれ。ひとはうかうかしていると、こういうのに足をすくわれる。だって、いい企業につとめていようがいまいが、いつリストラされてもおかしくない世のなかだ。でも、それでもいつだって自分をたかめろ、自分を磨けといわれている。それがおまえの生産性だ、役にたつことだっていわれて。そんなのがつづいていたら、いざ仕事だの人間関係だのがうまくいかなくて、やばいっておもったとき、ひとがどうなるかなんてわからない。そのひとの承認欲求がどう暴走するかなんてだれにもわからない。ビューティフルジャパン。

さて、そんなことを考える一助として、『何ものにも縛られないための政治学』(KADOKAWA)を書いた。社会に承認されなければいけない? 企業の役にたたなければいけない? 日本の役にたたなければいけない? だいじなのはこの世のなかの一切合切の価値観にしばられないことだ。だれにもなんにもしばられない。そういうところからものを考えるということはできるだろうか。そういうところからうごきはじめることはできるだろうか。著書では、そういった問いにこたえようと挑戦している。

■クルマにのって道路に出ると、路上のルールに組み込まれる

せっかくなので、すこしだけ内容をご紹介したい。わたしたちがなにかにしばられているといったとき、いちばん強力なのはインフラだ。たとえば、車にのって道路にでたとする。すると瞬時にして、自分の身体が路上のルールにくみこまれてしまう。もうなにも考えずに、体がかってにうごくのだ。

アクセルをふんではしらせて、赤、青、黄色と信号の色に反応する。法定速度よりもちょっととばして、ほどよく車間距離をたもってはしり、ビュンビュンはしっていると、なんだかとってもきもちいい。快適だ。で、たまにトロトロはしっている車にでくわすと、むやみやたらとムカついてしまう。クラクションをならして、てめえ、ちんたらはしってんじゃねえぞとさけんではしる。

ちなみに、事故で渋滞したりすると、さらにイライラがとまらなくなる。なに事故ってんだよとか、意味不明なことをがなりたてるのだ。これ、ほんとうはおかしいのってわかるだろうか。だって、ひとが死んでいるのだから。ふつうだったら悲しいだけだ。もちろん統計がとられて、事故がおおいところでは防止策として、ちかくに見通しのよい道路がつくられたりするのだが、これは死者を悼んでとか、そういうことじゃない。市民のイライラ解消のためである。

■「障害物は駆除してわすれろ」という感覚になる

げんきんなものであたらしい道路をはしりはじめると、みんなスムーズな交通に酔いしれる。ああ、なんて自由なんだ、なんて解放的なんだと。道路の目的というのは、物流でも通勤でも、目的地までのひとのながれを最速化することだとおもうのだが、それがすすめばすすむほど、ひとがひととしての感覚をうしなってしまう。よりよい交通を、よりよいインフラを。そのためだったら、障害物は駆除してわすれろ。たとえ、それが人間であったとしても。

フランスの思想家集団、不可視委員会は、それをこんなふうにいっている。

権力はいまやこの世界のインフラのうちに存在する。現代の権力は非人称的で建築的な性質のものであって、代理表象的でも人称的でもない。伝統的な権力は代理表象的な性質をそなえていた。法王は地上のキリストを、王は神を表象していたし、大統領は人民を、党書記長はプロレタリアを表象していた。かかる人称的な政治のすべてが終わったのである。(不可視委員会『われわれの友へ』<HAPAX訳、夜光社、2016年>83頁)

インフラの便利さに飼いならされてしまうと、気づけば、目的のためにスピーディーにことが運ぶことになれてしまう。逆にいうと、それをさまたげるものがいたら、たとえひとがなにかトラブルにまきこまれて困っているようなことであっても、ふざけんじゃねえ、はやくそんな障害は排除しろ、はやく、はやくとおもってしまうのだ。

■インフラなしでも生きていけるという実感をつかめ

しかもほんとうにこわいのは、この感覚が無意識のうちに、この身体にきざみこまれてしまうということである。そして、ちょっとしたことで、その感覚が暴発してしまう。みんながこの社会をよりよくしたいとおもっているのに、効率的に、スピーディにしたいとおもっているのに、そのためにいそいそとがんばっているのに、その障害になるやつらはなんなんだ、ほんとうにムカつく、ただちに排除しろと。ひとに有用であれ、つねに役にたつようであらねばならない、もっとよくなれ、もっとよくなれ、はやく、はやくと、そういった感覚がうえこまれるのには、こういった日常的なインフラ権力が、ボディーブロウのようにきいているんじゃないかとおもう。

では、このインフラ権力にしたがわないためには、どうしたらいいのか。かんたんだ。インフラなしでも生きていけるという実感をつかめばいい。

道路のはなしだったら、べつにいまの路上のルールに、なんでもかんでもしたがっていなくてもいいわけだ。車もとおっていないのに、信号をまつ必要があるのか? みんなの道のはずなのに、なんで車が優先されなくてはいけないのか? テーブルとイスでもだして、みんなでお茶をする場にしてはいけないのか? 囲碁でも将棋でもなんでもやっていたらいいのではないか?

たったいちどでもいい。そういうちょっとしたことをやってみたら、インフラなんかにはしばられない、はやいもおそいもない、いいもわるいもない、役にたつもたたないもない、そんな感覚を身体にもつことができるはずだ。

著書では、過去から現在にいたるまで、いくつかそんな例をあげてみた。どれかひとつでも、身近にかんじてもらえるものがあったらとおもう。えっ、なんの役にもたちやしない? 一見すると、そんな行為のなかから、ほんのすこしでもいまの社会の生きづらさを突破するヒントを発見することができるかどうか。それがこの本の賭け金だ。ぜひ、ご一読いただきたい。よろしく。

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栗原 康(くりはら・やすし)
政治学者
1979年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科・博士後期課程満期退学。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)で第5回「いける本大賞」受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2015第6位。2017年池田晶子記念「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。著書に『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)、『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店、紀伊國屋じんぶん大賞2017第4位)などがある。

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(政治学者 栗原 康 写真=時事通信フォト)