ゲーム機器メーカーの京都本社に勤める一ツ橋紀夫(ひとつばし・のりお)は正真正銘の庶民。

“普通”で平凡な日々を送る紀夫が出会った美女・萬田樹里(まんだ・じゅり)は、なんと全国に名を轟かせる老舗和菓子屋のひとり娘。

距離を縮めていくふたりは紀夫の部屋で一夜を過ごすが、偶然にも紀夫が3年前に別れた元カノ・一二三薫と再会。

すると薫は紀夫に「樹里はやめた方がいい」と忠告し、「私とやり直そう」などと言いだす。

紀夫は薫と淡路島へ一泊旅行に出かけるが、京都に戻った翌日に樹里から「しばらく会えなくなった」と連絡が。なんと、樹里の許嫁・貴志にすべて知られてしまっていたのだ。




元どおりの生活


うだるような暑さの中で、目が覚めた。

枕元のスマホに手を伸ばすと、時刻は早くも11時過ぎ。

堪えかねる暑さに、切れてしまったエアコンのスイッチを入れ直すと、紀夫は再びベッドに寝転がる。起き上がる気力が湧いてこないのだ。

予定のない週末は、久しぶりだった。

-しばらく会えなくなってしまったの-

樹里から届いた突然のLINEは、紀夫の毎日を再び“普通”へと引き戻した。

初夏の鴨川で彼女に出会ってからまだ3ヶ月も経っていない。

しかしその間ほぼ毎日連絡を取り合い、週末のたびに密な時間を過ごしていたものだから、心にぽっかりと空いた空洞を無視できなかった。

突然、甘く華やいだ夢から醒めてしまったような脱力感。

-別に、元に戻っただけだ。一ツ橋紀夫らしい、平凡な人生に。

力なく、自分に言い聞かせるよう心の中で呟いていたら、ふいにスマホが鳴り出した。

「あ、紀夫?暇ならちょっと出てきてよ。報告があるの」

「はい」と応答する隙もなく、弾んだ声で紀夫を誘う女の声。…そんなことをする相手は、一人しかいない。

「薫か。お前、滋賀にいるんと違ったん」

そう問いかけるも、薫は案の定紀夫の質問に答えることはなく、一方的に「じゃ、四条に着いたら教えてや」と言い残し電話を切ってしまうのだった。


予定のない紀夫は、言われるがまま出かけることに。薫の「報告」とは?


「ここ、か?」

薫に指定された『ROCCA & FRIENDS PAPIER KYOTO』に、紀夫はおずおずと足を踏み入れた。




真新しい店内は女性客で溢れており、おそらくインスタグラムに載せるのだろう、皆がこぞって看板メニューであるペーパーサンドや見た目にも愛らしいスイーツを写真に収めている。

明らかな場違い感に戸惑っていると、店の奥から「紀夫〜」と薫が呑気に手招きしているのが見えた。

「ここ、6月にオープンしたばかりで話題やねん。旬のお店はちゃんと調査しとかないとね」

楽しそうに説明する薫の笑顔に、曇りはない。そのことに紀夫はホッと胸をなでおろした。

-私とやり直さへん?-

…お互いのために、あの時の言葉は聞かなかったことにしておこう。


薫「だから、彼女はやめたほうがいいって言ったのよ」


「それで、報告っていうのは?」

空腹のままやってきた紀夫は一気にサンドイッチを食べ終え、そこでようやく薫の言葉を思い出す。

彼女は何やら鼻歌を口ずさみながら今しがた撮ったらしい写真を加工していたが、紀夫の問いかけに「そうそう」と興奮気味に顔をあげた。

「私、京都に戻ってきます!つい今さっき、烏丸御池の賃貸マンション契約してきてん」

「ええ!?…ってことは、例の仕事も正式に決まったん?」

目を丸くする紀夫の反応を満足げに眺めながら、薫は満面の笑みで首を縦にふった。

「例の仕事」というのは、オファーがあったと彼女が前に話していた、京都ローカル番組のアシスタント。

全国放送されるキー局でキャスターをしていたことを思えば小さな仕事かもしれないが、それでもこんなにもすぐ次の仕事を掴んでくる薫のバイタリティには感心するほかない。

しかも、もう住む家まで手配済みとは。

「なんかやっぱりこうして京都におると、ここが私の居場所やなーって思うんよね。東京での自分は、どう考えても無理してたし。

遅かれ早かれ、私はここに戻ってきてた気がする…ちょっと、思ったより早まってはしまったけど」

薫はそんなことをしみじみと言い、そして「あっ」と小さく声をあげた。

「そういえば…今日は樹里さん、平気やった?」

有無を言わさず呼び出しておきながら殊勝なことを言い出す薫に「え、今さら?」と大げさに呆れて見せてから、紀夫は半ば投げやりに言葉を続けた。

「それが、しばらく会えなくなってしまってんなぁ。どうやら彼女の…許婚っていう男に、全部バレてしまったみたいで」

「許婚」という単語を発するとき、予想外に胸が抉られた。気まずさを隠すように俯くと、薫の低く、かすかに震えた声が聞こえてきた。

「許婚って…それ、紀夫は知ってたん?最初から?」

目を合わさぬまま「ああ」と答える紀夫に、薫は怒りを必死でこらえるかのような声を出した。

「信じられない。…だから私、言ったのよ。彼女はやめたほうがいいって」

「いや、まあでも、そのことは俺も承知の上だったわけだから…」

しまった。気安く話すんじゃなかった。相変わらず配慮の足りない自分を後悔しながら、紀夫は薫を宥めるように弁解する。

しかしその樹里を庇う発言が、ますます薫をヒートアップさせてしまうのだった。

「あのね紀夫。彼女がその許婚を捨てて紀夫を選ぶなんてこと、ありえへんよ?彼女が何て言ったか知らないけど、私にはわかる。

…だって、私も同じやったから」


「私も同じやった」薫の言葉の真意は…?そして紀夫の元に、招かれざる客がやってくる。


「...どういう意味?」

静かに尋ねた紀夫に薫はしばし逡巡したのち、まるで噛みしめるような口調で過去を語り始めた。

人気アイドルとのスキャンダル発覚前、薫は大物政治家の息子である柏原秀一と真剣交際をしていた。

薫と柏原はデート現場を何度も撮られており、結婚も視野に入れた関係として世間にも知られていた。そして薫自身も、そう信じていたそうなのだ。

しかし薫はある日、柏原から通告されたのだという。

現段階では父親の事務所で勉強中の身である自分がいよいよ政治家として立候補するとき。その際には代々の地盤がある栃木県の有力者…つまり地元で大きな力を持つ中小企業の社長令嬢と結婚することが決まっている、と。

柏原はその時「例えそうなっても、愛しているのは薫だけだ」と言ったらしい。

しかしスキャンダル発覚後、結局、彼の方から別れを切り出されたというのだ。つまりは薫の醜聞を、好都合だと言わんばかりに言い訳に使ったのだろう。

「柏原は、知った顔で愛を語っても結局、最後は“家”から逃れられない人やった。そしてそれは…樹里さんも同じやよ」

端正な顔を歪め、薫は吐き捨てるように言った。そしてそんな彼女に結局、紀夫は何一つ反論できないのだった。


招かれざる客


滋賀の実家に戻るという薫を見送ったあと、紀夫は真っ直ぐ帰路についた。

龍之介でも誘って鬱々とした気分を晴らそうかとも考えたが、飲んではしゃぐためにはもう少しだけ、心を落ち着かせる必要があると思い至ったのだ。

もうこれ以上、心を乱されたくない。家で心おだやかに過ごしたい。

しかし家路を急ぐ紀夫の切なる願いは、聞き入れられることはないのだった。




「一ツ橋紀夫さん、ですよね?」

自宅マンションの前に、景観から妙に浮いている、見るからに育ちの良さそうな男が立っていることに、紀夫も気づいてはいた。

しかし知り合いでも、見覚えもない。よって自分には無関係だと判断し、素通りしようとした、その時。思いがけず背後から名を呼ばれたのだ。

「そう、ですが…?」

男は、訝しむ紀夫を真っ直ぐに見据える。

「申し遅れました、百瀬貴志です。萬田樹里の許婚…と言ったらわかってもらえるかな」

ハッと息を飲む紀夫を前に、男は一つ咳払いをする。そしてよく通る品の良い声で、しかしながらとんでもなく非常識な言葉を口にしたのである。

「一ツ橋さん。ここに500万円用意させてもらいました。その代わりに…樹里とはもう金輪際、会わないでもらいたい」

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彼女の許婚から、まさかの手切れ金。紀夫は樹里を諦めてしまうのか?