ヒデに続け!W杯を機に海外へはばたいた日本代表選手

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ロシアW杯で日本代表はベルギー代表相手に2-3と惜敗した。だが、多くの選手たちが予想以上の活躍を見せたことは言うまでもないだろう。

一方、W杯はビジネスの場でもある。

今大会を通して活躍した選手には欧州の名だたるクラブから熱視線が送られている。

では、これまでのW杯を通じて、海外へ羽ばたいていった日本人はどのぐらいいるのだろうか。代表的な例をおさらいしてみた。

長友 佑都(FC東京→チェゼーナ)

まさかのベスト16入りを果たした南アフリカ大会のチーム。現在まで続く代表の屋台骨となった選手が多いことでも知られるが、その1人が左サイドバックを務めていた長友佑都であった。

サミュエル・エトーら世界の選手を相手に決して当たり負けせずに粘り強い守備を繰り返し行い、攻撃とあらば無尽蔵のスタミナで前線へ駆け上がっていく。

全4試合に出場すると、その身体能力の高さから、長友の体幹を鍛える、インナーマッスルといったトレーニング方法にも注目が集まった。

2010年の夏チェゼーナへ買い取りオプション付きのレンタル移籍が発表され、同チームではエマヌエレ・ジャッケリーニ、エセキエル・スケロット(共にイタリア代表)らと共に戦った。ジャッケリーニは「(長友とは)よく一緒の部屋で過ごした」と友達であることを後に話している。

それから半年後の2011年1月31日、チェゼーナはFC東京から約2億円で長友を完全移籍した上でインテルへ売却。その後スナイデルやサネッティらと共に一時代を築き上げ、イタリアで長く活躍したことは言うまでもない。

阿部 勇樹(浦和レッズ→レスター)

2010年の南アフリカ大会の日本代表は、2009年度頃の不振により前評判は非常に低く、グループリーグ敗退が濃厚とされていた中でのベスト16進出であった。

イビチャ・オシム監督が倒れたことで監督を岡田武史に後任を託したもののチームは結果を残せず、2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中3位、その後のセルビア戦では0-3と敗戦し解任の署名がなされた一件を覚えている方も多いのではないだろう。

だが、本大会を前に直前のキャンプにて4-1-4-1(4-3-3)のシステムに変更したチームは粘り強く守りカウンターで両サイドから攻めるというコンセプトで生まれ変わった。

そして、その中で地味ながら屋台骨としてアンカーの位置を務めたのが阿部勇樹であった。

直前のイングランド代表戦からそのポジションを任された阿部は、その前の試合では代表へ招集されたものの出場機会はなく、その後もセンターバックや2ボランチの一角という中で起用されていた。つまり、土壇場になって岡田監督が編み出した秘策であったというわけだ。

大会後には「オランダのフェイエノールトなどから興味を持たれている」という報道もあったが、阿部が選んだのは当時イングランド・チャンピオンシップに在籍していたレスターであった。8月31日に完全移籍し、約1年半プレーした。

ちなみに当時の監督はかつてのポルトガル代表名ボランチであるパウロ・ソウザで、10月に監督が交代になりスヴェン・ゴラン・エリクソン(2011年11月まで)が就任し、その後もナイジェル・ピアソンが指揮。2部であったが、名将の指導を受けてプレーしたことについて、本人も素直に「驚いた」と明かしている。

なお、当時のレスターにはヤクブ・アイェグベニ(ナイジェリア代表)、ジェルソン・フェルナンデス(スイス代表)、ディオマンシ・カマラ(セネガル代表)らが在籍。後にプレミアリーグ優勝メンバーとなるダニー・ドリンクウォーター(イングランド代表)、カスパー・シュマイケル(デンマーク代表)、アンディ・キング(ウェールズ代表)らとも短い間だが共にプレーした。

柿谷 曜一朗(セレッソ大阪→FCバーゼル)

2014年のW杯において直前まで日本代表のセンターフォワードを任されていたのが柿谷曜一郎であった。本大会では途中出場に終わり悔しい思いをしたが、7月にスイスのFCバーゼルへ移籍し約1年半プレーした。

若い頃から“ジーニアス(天才)”と呼ばれ将来を嘱望されてきた柿谷だが、素行面で問題視されており、伸びきれないでいた。

転機となったのは徳島ヴォルティスへのレンタル移籍。2シーズン半に渡りプレーし、副キャプテンとして責任感のある立場を経験したことで一皮向け、セレッソ大阪へ復帰後のブレイクにつながった。

元々、トラップ技術などに定評があったが、2013シーズンにトップ下からフォワードへコンバートされると21得点をマーク。DFラインの駆け引きをし得点を狙うことで得点が増え、技術に加えて得点が取れる選手となり、上述のように日本代表でも最前線で起用された。

ちなみに、スイスのバーゼルでは、マルコ・シュトレラー、ファビアン・フライ(共にスイス代表)らとプレー。

中でもルカ・ズッフィやブリール・エンボロらと仲が良かったようだが、一方で出場機会に恵まれたとはいいがたく、パウロ・ソウザ監督との関係性は「難しかった」と語る。

また後任のウルス・フィッシャー監督はサイドで柿谷を起用したが、こちらはより出場機会を狭めることとなり、「セレッソ大阪復帰」に拍車をかけた。

内田 篤人(鹿島アントラーズ→シャルケ04)

清水東高から2006年に鹿島アントラーズへ加入すると、高卒ルーキーながら開幕戦でスタメンに抜擢され、第4節のヴァンフォーレ甲府戦では17歳11か月22日で当時の「高卒ルーキー史上最年少ゴール」をあげた。

日本代表では、2008年に19歳305日の年齢でデビュー。これは当時4番目の若さでの初キャップとなり、以降は長きに渡って日本代表の右サイドバックレギュラーを務めた。

2010年W杯では、コンディション不良や戦術的な理由で今野泰幸(今野の負傷後は駒野友一)にレギュラーを取られたが、その高い評価は変わらず、2010年7月1日にドイツの強豪シャルケ入りを果たした。

シャルケではウッチーをドイツ語読みした“ウッシー(ウシ、ウシー)”の愛称でも知られ、特に女性ファンからの人気は高く容姿面でも注目を集める存在に。

シャルケでは若き日のマヌエル・ノイアー(ドイツ代表)らと親交を深め、クリストフ・メッツェルダー(ドイツ代表) 、ラウール・ゴンサレス(スペイン代表)らともプレー。特に右サイドのジェフェルソン・ファルファン(ペルー代表)とは抜群のコンビネーションを見せ、対戦相手を苦しめた。

小笠原 満男(鹿島アントラーズ→メッシーナ)

1998年に岩手県立大船渡高校から鹿島アントラーズ入り。同期の本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準らと鹿島の黄金時代を共に彩った。

2006年のW杯ではジーコ監督の下に黄金世代が揃うこととなり、“歴代最強”とも称される日本代表に参加。2002年に続いて2度目のW杯を戦い、クロアチア、ブラジル代表戦で先発出場を果たした。

結果はその期待に応えられず、2敗1分に終わり、大会終了後には中田英寿が現役引退を発表するなど節目となった大会だが、小笠原は海外挑戦を決意しイタリアのメッシーナへ。2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍という形でありながら、カルチョの世界で研鑽を積んだ。

メッシーナのチームメイトはイブラヒマ・バカヨコ(コートジボワール代表)、ローマで中田と共にプレーしたヴァンサン・カンデラ(フランス代表)、イヴィツァ・イリエフ(セルビア・モンテネグロ代表)らがいた。とはいえ、そこはセリエA。多くの時間は守備に割かれ、小笠原もパスやシュートといった攻撃面ではなく球際の強さが求められた。

一説には差別的な扱いを受けたなどとも言われるが、そうしたチーム事情からほとんどがベンチ外という苦しい状況を経験し、チームもセリエBに降格。その後、ローン期間を延長することなく鹿島アントラーズへ復帰することとなった。

現在は39歳になるが、所属の鹿島アントラーズではいまだ健在。Jリーグ通算500試合以上の出場を残している。

中田 英寿(ベルマーレ平塚→ペルージャ)

最後に紹介するのはヒデのニックネームでも知られる中田英寿である。

当時、日本代表の選手がヨーロッパでプレーすることは非常に珍しいことであった。特にその最高峰と言われていたのがイタリアのセリエAで、三浦知良がジェノアでプレーして以来、日本人はプレーするチャンスを与えられなかった。

1998年のフランスW杯で中田は髪型を金髪に染め、プレーしている時に目立つような状況で大会に臨んだ。フランスW杯ではチームは0勝3敗と勝つことはできなかったが評価を高めてイタリア移籍へとつながった。

当時のペルージャはルチアーノ・ガウッチ以下ガウッチ一家で仕切るワンマンクラブで、監督や選手の入れ替わりが多いクラブであったが、中田はその中にあって1年目の開幕戦ユヴェントス戦で2ゴール、以降中心選手として1シーズン半プレーした。

ペルージャでは4-2-3-1システムのトップ下を主戦場とし、1年目は右のジャンルカ・ペトラッキ、左のミラン・ラパイッチ(クロアチア代表)らと共にカウンターサッカーを敢行。「中田がボールを持てば全員が全速力でオーバーラップをする」というチーム戦術の柱となった。

当時、中田のスルーパスは非常に速く、スピードのある選手でないと追いつけないほどのもので「キラーパス」と呼ばれるなど流行語にもなった。

また、当時のペルージャは長髪をなびかせ強引にドリブルを繰り返すラパイッチ、ぴちぴちパンツのGKアンドレア・マッツァンティーニら個性的なメンバーが多かった。

中田はそれ以外にも若き日のマルコ・マテラッツィ(イタリア代表)、ジョヴァンニ・テデスコ、イブラヒム・バ(フランス代表)、クリスティアン・ブッキといったメンバーらとプレーした。

2000年1月にローマへ移籍してからはフランチェスコ・トッティ(イタリア代表)とライバル関係になりながらも短い出場機会で結果を残した。カフー(ブラジル代表)、ヴィンチェンツォ・モンテッラ(イタリア代表)、ガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)らと共にローマにスクデットをもたらしたことは言うまでもないだろう。

今では当時のチームメイトが多く監督業を行っており、モンテッラ、ディ・フランチェスコ、ブッキらの評価は特に高いものとなっている。

まさかの“ヒデ”登場。★5中田英寿を獲得せよ

現役から離れサッカー以外の分野で活躍の目立つヒデがサッカー界へ帰ってきた?能力はあのキラーパスあり。ゲーム内ならイニエスタにもメッシにもパス出せちゃいますよ!!

公式サイト:http://sakatsuku-rtw.sega.com/