先送りを続けてきましたが限界も見えてきています(写真:erhui1979/iStock)

今の日本は戦後かつてないほどの大きな課題を数多く抱えています。

内政的には1000兆円を超えるほど政府部門の財政赤字が膨らんでしまい、年金・介護・医療といった社会保障制度が超少子高齢化で持続可能性が危ぶまれ、人口減少で労働力不足や経済縮小が懸念されています。福島第一原発を皮切りに原子力発電の廃炉という長期国家プロジェクトが始まっています。

言うまでもなく長期的な国家的課題に一人ひとりが直接対峙して解決することは到底不可能ですから、国民としては一義的には政治家や官僚が危機を未然に防ぐことに期待せざるをえない立場にあります。

では「現在こうした長期的な課題について政治家や官僚は責任をもって戦略的に対処しているのか?」というと、結論から言えばその答えは「NO」ということになります。

十分予測されていた問題

こう言うと「日本政府はそんなに無責任だったのか、けしからん」とお怒りになる人も多いかもしれませんが、拙著『逃げられない世代――日本型「先送り」システムの限界』でも指摘しているように、冷静に考えると、これまで政府として長期的な課題に対する備えが十分にできてこなかったからこそ今、問題が噴出しているわけで、ある意味で当たり前の話ではあります。

たとえば、社会保障財政が将来的に悪化することなどは低出生率が定着した1990年代にはすでに十分予測されていました。2000〜2003年に大蔵・財務省の事務次官を務めた武藤敏郎氏は退職後のインタビューで次のように述べています。

「実を言うと、1990年代の後半、財務省で社会保障制度などを担当していたころから、『中福祉・中負担』はウソっぽいな、と感じ始めていました。日本の高齢化率は1980年代から急速に高まりました。65歳以上の高齢者の比率が7%以上を『高齢化社会』といい、14%を超えると『高齢社会』、さらに21%を超えると『超高齢社会』と呼びます。

日本が高齢化社会になったのは1970年、高齢社会になったのは1994年、超高齢社会になったのは2007年です。政治家が『中福祉・中負担』の国家、と言いたい気持ちはよくわかりますが、高齢化がこれだけ急速に進むもとでは日本の国の姿として『中福祉・中負担は組み合わせとしてはあり得ない』『中福祉・中負担は幻想ではないか』と思い始めました」(『逆説の日本経済論』斎藤史郎編著、PHP研究所刊)

現在の社会保障財政の悪化を財務省のトップがかなり前から予測していたことは本人も認めています。それにもかかわらず、その対策のために増税したり給付を減らしたりすることは国民の受けが悪いため問題が長らく放置され、2000年代に入って遅まきながら対策を講じたところで間に合わず、現在のような年間数十兆円規模の赤字を垂れ流すような状況になってしまいました。

問題はわかっていたのに対策は取られなかったのです。

このような長期展望がない状態は今でも続いており、日本政府には累積で800兆円を超える長期国債がありますが、これだけ政府の借金が積み上がっていても、将来的な財政政策のあり方については長期方針が示されていません。これでは状況が悪化するばかりです。

先送り自体は必ずしも問題とはいえず、しばしば最良の政策とすらなりえます。経営学の世界的な大家であるP・F・ドラッカーも著書『ネクスト・ソサエティ』(ダイヤモンド社)で指摘し、高く評価しています。ところが、問題は経済成長が停滞し人口が減ろうとしている転換期においても、日本政府が「先送り」を基本戦略とし続けていることです。

このような社会の活力が弱まっている状態で先送りを続けると、問題は解決されるどころかどんどん大きくなってしまいます。たとえば社会保障制度の問題などは、人口が増え続けるかぎり制度の担い手となる若年労働者が増えていくので自然と解決されていくものがほとんどですが、今の日本では逆に人口が減っていく局面ですから、先送りすればするほど制度の担い手が減っていき、受け手である高齢者が増えることで問題が大きくなってしまいます。そのような状況でも「先送り」という政策を取らざるをえないのが今の日本の政治構造で、これこそが日本政治の宿痾(しゅくあ)といえるでしょう。

読者の皆さんには勘違いしてほしくないのですが、個々の与党政治家や官僚の多くは日々迫り来る問題に対処することに精いっぱいで、ある意味責任感を持って社会を維持するために懸命に「先送り」を続けており、そうした彼らの仕事自体には敬意を払うべきだと思っています。

彼らが四苦八苦して問題を先送りしてくれなければ、日本社会は今すぐにでも崩壊してしまいかねない状況ですし、私自身も少し前までその一員でした。その意味では「きちんと先送りすること」こそ官僚なり政治家なりの「個人の責任」といえます。ただ問題の解決が望めない分野で長期的な視点を持たず先送りを続けることは、「組織として無責任」ともいえ、今の日本の政治はそのような意味で「個人として責任感がある政治家や官僚が、政府の組織としての無責任を助長する」という状況に陥っています。

人口ピラミッドの逆転

日本の政治は2〜3年スパンで政治を考える与党議員、与党議員の意向を踏まえて対症療法的な政策を立案し問題を先送りする官僚、そして政権・与党を刹那的な視点で批判し足を引っ張る野党、という構図の「先送りシステム」で回っています。その結果、わが国は「問題はわかっているけど対策が講じられない」という状況が続き、当座社会は安定しているものの問題の先送りが続き将来的なリスクが拡大し、それが財政赤字などの形で顕在化しつつあります。

この政治構造は属人的なものではなく、システム的なものなので、容易には変えることはできず今後とも続いていくものと思われます。

ここで私たちが考えなければならないのは、「それではわれわれはいつまで問題を先送りできるのか」ということです。もちろん個別の制度ごとに先送りの限界がくる時期は異なるので、一概に答えは言えません。ただ大きくくくると私たちの生活は、国内で福祉サービスへのアクセスや最低限の生活水準を私たちに保障してくれる社会保障制度と、対外的な脅威から国民を守る安全保障制度によって守られており、治安や社会のルールとなる基本的な法制度の執行を除いて、国自らが多額の予算を使って取り組む政府のサービスは広い意味では、このいずれかに位置づけられると言えるでしょう。

このうち社会保障制度は国民が相互に支え合うシステムであるため人口構成の変化はその制度変革に、安全保障制度は国と国との関係に依存するため国際社会における日本のポジションの変化はその制度変革に直結する、と言ってもいいでしょう。そのため私たちは将来を考えるうえで、国内の人口構成の変化と、国際社会における日本のポジションの変化を把握していく必要があります。

わが国の人口ピラミッドから見えること

まず人口構成の問題についてわが国の人口ピラミッドの変遷を見ながら考えてみましょう。ここから3つのことが見て取れます。


(出所)『逃げられない世代――日本型「先送り」システムの限界』(新潮新書)

1つ目は日本の人口構造の特異性です。日本の人口構造は「団塊の世代(1947〜49年生まれ)」と「団塊ジュニア世代(1971〜74年生まれ)」の2つの世代をピークとする「ふたこぶラクダ」の構造になっています。

2つ目は平均寿命が伸びていることです。1990年に75.92歳であった男性の平均寿命は2013年には80.21歳にまで伸び、2060年には、84.19歳にまで伸びることが予測されています。

3つ目は日本全体の人口が減少に転じ、将来的に人口ピラミッドが徐々に逆転していき65歳以上の高齢者がピークになっていくことです。日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに減少を始めており、2028年ごろまでは緩やかに減少し1億2000万人台を維持し、その後急速に減少していくことが予測されていますが、その過程で団塊ジュニアを唯一の頂点とする逆ピラミッド型の人口構造になると見込まれています。

基本的には社会保障制度というのは20歳から65歳の現役労働者層が納めた税金・社会保険料で、児童や高齢者の福祉を賄う制度です。したがって1990年時点の高齢者は仮に選挙での投票行動を通して年金や医療といった社会保障制度に関する問題を政治的に「先送り」させても、圧倒的に層が厚い「団塊の世代」を中心とする次世代労働力が問題を吸収して解決してくれることを期待できる世代でした。

これは社会保障分野に限らず高度成長期に日本の先送り型の政治組織が有効に機能した大きな理由の1つでしょう。

こうして戦前世代の社会保障を支えてきた「団塊の世代」が65歳を超えて高齢者になったのは2013年のことです。今度は立場が変わって、彼らの世代が作ってきた問題が、彼らの子どもである「団塊ジュニア」を中心とする世代に「先送り」されることになったわけです。

2036〜40年にくる限界点

ここで一度データを確認してみましょう。2016年における「団塊の世代+αの5年間の人口」(1947〜1951年生まれ)はそれぞれ生まれた年ごとに次のようになります。

1947年:204万1000人
1948年:216万2000人
1949年:219万1000人
1950年:200万7000人
1951年:187万5000人

総数は1027万6000人です。なお団塊の世代の人数が非常に多いのは当時中絶が法律で認められていなかったことが原因で、1949年に優生保護法(当時)が改正されて中絶が認められるようになると急速にベビーブームは収束していきます。「団塊ジュニア世代+αの5年間の人口」もそれぞれ年ごとに見てみましょう。

1971年:193万8000人
1972年:199万1000人
1973年:202万8000人
1974年:199万4000人
1975年:188万9000人

総数は984万人と、団塊の世代とほぼ均衡が取れています。つまり団塊の世代は問題を先送りしても、かろうじて1:1でその問題を受け止めて吸収してくれる対象がいる世代ということができると思います。広い意味で「親が死ぬまでの面倒は子が見る」という理屈が社会レベルでも通じる世代です。

他方で団塊ジュニア世代以下には、それに匹敵する人口の塊がまったくありません。つまり団塊ジュニア世代が問題を先送りしても、その問題を1:1で受け止めきれる世代が存在しません。


したがって、団塊ジュニアが先送りした課題は全世代が均等に負担を上げて、つまり増税を受け入れて、吸収するしかありません。ただこのような担い手と受け手のバランスが取れない社会保障制度は、絶え間ない増税を招き必ず破綻をすることになるので、このような強引な先送り手法が通じるのはせいぜい一世代で、団塊ジュニア以降の世代はそもそも問題を先送りすることができない世代になっていくことが予測されます。年齢で言えば現在の20〜30代の世代です。

あまり単純に考えすぎて精緻な議論ではありませんが、こう考えると、1つの目安として遅くとも団塊ジュニア世代が高齢者になる2036〜40年には内政面で日本の先送り型政治システムの限界がくるものと思われます。

ここから団塊ジュニア世代が寿命を迎えるまでの20年間はついに日本社会が先送りしてきた課題から「逃げられなく」なり、社会保障制度に関して覆い隠してきたあらゆる問題が噴出し、社会変革が迫られる日本社会にとって本当の正念場になると思われます。このことは、近い将来日本の社会保障制度の変革は避けられないことを意味しています。