田中英寿・日大理事長。日本大学のウェブサイト「日本大学の歴史」より。

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■超ワンマン体制を堅持したまま異例の4期目

田中英寿・日大理事長の背後には常に暴力団の影がある。『週刊文春』(6/7号、以下『文春』)によると、司忍・六代目山口組組長や福田晴瞭・住吉会前会長と親密で、「山口組の若頭の高山清司親分とは兄弟の盃を交わしている」と堂々と自慢していたといわれる。

司組長とのツーショット写真が海外メディアで大きく報じられた時にも、「あれは合成写真だ」といい募り、超ワンマン体制を堅持したまま異例の4期目の再選をはたしている。

学生数7万5000人、卒業生は100万人になるという超マンモス大学のトップに君臨する田中だが、酒が入る時の口癖は「勉強なんて東大に任せておけばいいんだよ。こっちはな、数と喧嘩だったら誰にも負けねえんだ」。ハナから自分のところの学生を用心棒要員としか見ていないようである。

■日大の相撲部に所属し、34個のタイトルを獲得

田中は、青森県北津軽郡金木町の出身。太宰治と同じ町だが、田中の尊敬する人物は、太宰ではなく吉幾三だそうだ。

日大の相撲部に所属し、現役時代は34個のタイトルを獲得。1学年後輩に初の大卒横綱になる輪島がいた。指導者として日大に残った田中は、多くの力士を角界に送り込んだ。

『文春』によると転機は96年に誕生した第10代総長の総長選挙参謀を務めてからだという。以来、順調に出世の階をのぼり、2008年、ついに理事長の椅子を勝ち取る。

アメフト部を牛耳っていた内田正人前監督は田中に気に入られ、ナンバー2の常務理事にまで駆け上がってきた。

『週刊新潮』(6/7号、以下『新潮』)によると、田中理事長の懐刀は内田ではなく井ノ口忠男という日大アメフト部のOBだという。井ノ口は内田のことなど歯牙にもかけていないそうだ。

■「日大特製バウムクーヘン」のビジネス

彼は、危険タックルをした宮川泰介選手が会見を開くことを知ると、宮川を呼びつけ、「監督の指示ではなかった、自分の判断だったと言え」と詰め寄り、宮川はかなり悩んでいたという。

この人物、大阪でビジネスをする一方、2010年に作られた「株式会社日大事業部」の運営を一手に担ってきたそうである。ここは別名「日大相撲部」といわれていて、田中理事長率いる相撲部の関係者が複数採用されている。利益の大半は日大への寄付として処理されていて、「現体制の集金マシン」(『文春』)になっているそうである。

日大に関する物品の調達、業務委託など多岐にわたる業務を管轄しているが、その功績が認められ、昨年秋に日大本部の理事に抜擢された。

『新潮』によれば、ここが扱うものに「日大特製バウムクーヘン」というのがある。式典などがあると配られる日大印の菓子である。これを納めているのは、あの井上奨(つとむ)前コーチの実家だそうだ。

しかも、そこが作っているわけではなく、製造業者から買い取り、それを別の販売業者へ卸して日大に収めているというのである。これでは井上が内田のいいなりになるのも無理はない。

■少数の権力者たちが学校を私物化するという「歴史」

少数の権力者たちが学校を私物化し、その周りに甘い汁を吸おうという輩が群がり、学生たちが払っている学費をぶんどるという図式である。

危険タックル問題以降、次々に明るみに出る日大の暗部だが、1960年代後半に学生生活を送ったわれわれの世代には、こうした構図に“既視感”をもつ人が多いはずだ。

『文春』で、日大芸術学部出身の作家・林真理子がこう書いている。

「今度のことでわかったと思うが、日大というところは、とことん根が腐っている。こうなったら学生諸君、ぜひ起ち上がってほしい。私は経験していないのであるが、七〇年前後に学生運動という大きなムーブメントがあった。その中でも注目を集めたのは『日大闘争』。学生側が大衆団交して、トップに退陣を迫ったのだ。警察も介入して、あの頃は凄い騒ぎだったと記憶している」

正確には1968年から69年にかけてのことである。

20億円の使途不明金、定員の3倍もの水増し合格、検閲制度、右翼暴力学生の跋扈を許し、時の政治権力と一体となって、わが物顔に日大を牛耳っていた古田重二良会頭をはじめとする理事たちに、敢然と反旗を翻して学生たちが立ち上がったのが、学生運動史に燦然と輝く50年前の日大闘争であった。

私の友人で、『週刊現代』記者時代に『線路工手の唄』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した橋本克彦は、当時日大芸術学部にいて闘争の内部をつぶさに見ていた。

橋本の『バリケードを吹き抜けた風――日大闘争』(朝日新聞社)から、当時の様子を書き写してみよう。

■体育会系の猛者たちは、スト潰しに殴り込んだ

発端は、工学部教授の5000万円脱税だった。その後、東京国税局が日大の使途不明金が20億円あると発表した。

進歩的文化人だった日高六郎の講演会を学校側が中止させた。芸術学部の定員が1800名なのに、5514人も水増し合格させていた。教授たちにヤミ給与が配られていた。こうしたことが次々に判明した。

「古田会頭以下全理事は退陣せよ」。小さな火の手は経済学部から上がった。やがて路上で日大全共闘会議が結成される。

しかし、大学側は、暴力で学生たちを潰し、解決しようとしてきた。当時、日大にいて運動部所属だった私の友人は、その当時を振り返ってこう語った。

「日大闘争の記録では、全共闘の連中しか出てこないが、われわれ体育会系の猛者たちは、スト潰しに殴り込んでブチのめしてやったんだ」

そうした暴力学生たちには、古田側から日当が出ていたそうだ。

■警察や機動隊が逮捕したのは、ケガを負った学生だった

学生側にはゲバ棒もヘルメットも圧倒的に不足していたと、橋本はいう。右翼暴力学生に襲撃され、殴られ、瓶で頭を割られた学生もいた。だが、暴力学生を排除するために来た警察や機動隊が逮捕したのはケガを負った学生のほうだった。

学長は襲撃した暴力学生たちに、「諸君は真の日大の建学の精神を体得した」と褒めたたえたという。

しかし、全共闘を支持する学生の数は膨れ上がり、ついには、権力者の私利私欲を満たすためだけの学園を取り戻すために「ストライキ」を決行するのである。

世論もこれを支持した。朝日新聞(68年6月25日付)も、「日本大学の異常な発展の中で、学校の近代化が妨げられ、この事態が自然発生的に起こったことは否定できない。一挙に古い体制から新しい体制へと変化しなければならない段階に来ている」と書いた。

燎原の火のごとく広がった闘争に、あわてた古田側は改革案を提示したが、どのような責任を取るのかを示さず、先送りにした。

全共闘会議はこう宣言した。

「われわれの敵は、教育者という上品な仮面をつけた下品な連中なのだ。上品な仮面をつけ合い、仮装舞踏会で彼らとワルツを踊るつもりなどない」

■日大講堂には3万5000人の学生が集結

古田は多くの右翼団体を動かす力があった。時の首相・佐藤栄作を総裁にして古田が率いる「日本会」という組織は、政権中枢と密に結びついていた。

橋本は、当時の日大は「学生に徹底した思想統制を行い、産学共同路線に身をすり寄せ、中堅労働者養成所としての役割を担ってきた」という。さらに「戦後日本の国家意思の実現を担う役割を自ら任じる」大学だったとしている。

9月4日、学校側はバリケードなどの撤去を含めた仮処分執行をもとめ、機動隊が投入された。2万人近い学生たちは白山通り、靖国通り、神保町を解放区にし、市民や労働者たちと共に闘った。逮捕者は154人に及んだが、機動隊を完全に打ち破ったのである。

暴力装置を使って恥じない古田も、ついに負けを認めたかのような声明を出す。9月30日、両国講堂(1983年に解体)において大衆団交に応じるといったのである。当日、日大講堂には3万5000人の学生が集結した。

学生側には正義のカードが山ほどあった。古田以下理事たちに自己批判の文書にサインをさせた。紙吹雪が舞い、日大校歌が高らかに歌われた。

「本当の意味で全共闘を作ったのは日大です。これは文句なしに本当に。単に日大全共闘というのは武装した右翼とのゲバルトに強かっただけじゃないです。

本当に、あのね、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した、最大限組織した、ボク、あれは戦後最大の学生運動だと思います。今でも、あれ、考えるとナミダが出てきます」

2015年1月30日に開かれた「日大930の会公開座談会」で、東大紛争のリーダーだった山本義隆・元東大闘争全学共闘会議代表は「日大闘争」をこう評価した。

■日大闘争も東大闘争も学生たちの敗北で終わったが……

だが直後に、政治が動いた。佐藤栄作は閣僚たちを集め、日大の大衆団交は常軌を逸脱している。法秩序の破壊すら進んでいると批判したのである。それを受けて古田は理事会を開き、大衆団交で交わされた約束を無効だといい出したのだ。

秋田議長以下8名に逮捕状が出され、古田は退陣を拒否する。

橋本は「沖縄返還をしゃにむに推し進めようとしていた佐藤に、全国の8割方の大学で闘争状態に入っていることは脅威であった」に違いなかったという。

バリケードに残った数十名の日芸の学生を1000人の機動隊と私服警官が包囲した。ガス弾が撃ち込まれ、全員が逮捕される。

翌年の1月18日、東大に8500人の機動隊が導入され、闘争のシンボルであった安田講堂は陥落する。日大は授業を再開し、全員を卒業させたが、それを嫌い、退学した者は1万人にもなるといわれる。橋本もその一人だった。その年の秋、古田は日大の会長に就任するが、それから約1年後に死亡する。

結果だけを見れば、日大闘争も東大闘争も学生たちの敗北で終わった。しかし、彼らが権力側に身体を張って訴えた、大学の自治を学生側に取り戻す大学改革の志は、細々ながらも受け継がれ、今日につながっている、そう思いたい。

バリケードの中に青春があった。自分たちは正しいことをしているという満足感があった。たとえ、それがはかない一炊の夢だったとしても、彼らは自らの全人生をかけて挑み、闘い、悔いのない大学生活(本当はいっぱいあるだろうが)を送って去っていったのである。

■日大の根本的な体質は50年前と何ら変わっていない

闘争に参加した者のほとんどが高齢者になった。今でも酒を呑むと、当時のことを熱く語りだす日大出身者が多くいる。

たかが日大闘争、されど日大闘争なのである。

古田は柔道部出身で、現在の田中理事長は相撲部出身。ともにカネと強面を表に出して学内を牛耳ってきた。日大生やOBたちには失礼ないい方になるが、今回の問題でわかるように、日大の根本的な体質は50年前と何ら変わっていないように、私には思える。

ワンマン理事長の周りにイエスマンばかりを侍らせ、甘い汁をすすり合う。運動部の学生たちには絶対服従を強いて、何か事が起きると自分たちはしらを切り、逃げ隠れしてしまう。

田中理事長のカミさんが都内で小料理屋をやっているそうである。そこに何回も顔を出せば、理事長の覚えがめでたくなるため、理事たちが足繁く通っているという。これもヤクザの世界と同じであろう。

重要な事案があると理事たちをそこに呼び寄せ、密談して決めるというのだ。まさに側近たちによる“談合”で、学校が恣意的に運営されているといわれても仕方あるまい。

■内田監督の辞任翌日、パチンコに興じた田中理事長

田中理事長は、日大関係者にいわせると、「余計なことはせず、ダンマリを決め込んでいれば、いずれ問題は風化していく」という処世術を権力闘争の中で身に着けたというが、まるで安倍晋三首相のようではないか。

『文春』(5月31日号)は、内田が監督辞任を発表した翌日、パチンコに興じている田中理事長の姿を撮り、グラビアページに掲載している。国から100億円もの補助金を受けている私学が、この惨状である。

日大の学生諸君! いまこそ第二の日大闘争を起こそうではないか。当時のように、否、それ以上に世論の支持はある。

メディアだけではなくSNSが発達した現在では、機動隊を突入させて催涙弾を撃ち込んだり、棍棒で学生の頭をかち割ったりするような暴挙は、簡単にはできないはずである。

日大教職員組合は田中理事長と大塚学長の辞任を求める要求書を出した。

ゲバ棒もヘルメットもいらない。学生たちが一斉に声をあげるだけでいい。理事長以下、日大を今のようにした者たちには退陣してもらおうではないか。

あの時の佐藤栄作のように、安倍首相がしゃしゃり出て来てこういうかもしれない。

「日大の理事長や理事の皆さんは間違ったことはしておられないと、私は思いますよ。私がやっていることを真似しただけですから」

ついでに、安倍首相の退陣要求もしてもらいたいものだ。(文中敬称略)

(ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト)