大谷翔平が今も大切にする、父の「3つの教え」
大谷は全米に二刀流を認めさせた(写真:ロイター/Kelley L Cox-USA TODAY Sports)
大谷翔平のメジャー3回目となる登板が、日本時間4月16日午前3時15分から予定されている。快進撃を続ける大谷のピッチングに世界中から注目が集まっている。
2回目の登板後の会見では、現地記者から「今日のピッチングは人生で1番だったか」という質問が出た。それに対し大谷は「1番は小学校くらいの時」とあっさり答えている。大谷が自己最高のピッチングをしたという小学生時代とは、どのようなものだったのか。
本稿ではスポーツライターの佐々木亨氏が上梓した『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』から抜粋し、父と二人三脚で歩んだ大谷の小学生時代をお伝えする。
2年生の終わり、野球を始める
翔平が野球チームのユニフォームに袖を通し、白球を追いかけ始めたのは小学3年生に上がる直前の雪解け間近な頃だった。その前年、2年生の秋頃に地元にある硬式リトルリーグのチームへ見学に行ったのがきっかけだった。厚みのある父の手を小さな手でギュッと握りしめて向かったであろう野球の体験会だ。
母・加代子さんの友人の息子がすでにそのチームに入部していたこともあり、本格的に野球を始めることを決めた。入部前から父とはよくキャッチボールをしていた。野球にのめり込むまで、さほど時間は必要ではなかった。
チームの監督も務めた父・徹さんは当時をこう振り返る。
「翔平と7つ違いの(長男の)龍太は、小さい頃は地元のスポーツ少年団で野球をやっていました。中学校でも軟式です。当時の私は、仕事が忙しくて龍太に対して手取り足取り野球を教えてあげられなかった。キャッチボールもなかなか付き合ってあげることができなかったんです。そのことが心のどこかに引っかかっていまして……。今でも龍太には申し訳なかったと思っているんです。そのこともあって、翔平には一生懸命に野球を教えてあげようかな、と。ゆくゆくは高校に上がれば硬球を使った野球になりますし、末っ子にははじめから硬式チームに入れて野球をやらせてみたいという思いがありました」
大谷の実家がある岩手県奥州市水沢区。のどかな田園風景が広がっている(写真:nouvelle / PIXTA)
当時、自動車のボディメーカーに勤めていた徹さんは、昼夜二交代という勤務体制で日々の仕事に追われていた。夜から朝方まで続く夜勤の日も多かった。
それでも、週末ともなれば息子と一緒にグラウンドへ出掛けた。平日でも夜に仕事が入っていないときは、その時間を息子との野球の時間に費やした。
「たとえば夜勤の週になると土曜日の朝に自宅へ帰るわけですが、そのまま寝ずに野球の練習へ行っていました。それが生活スタイルになっていたので、当時はその状況を何とも思いませんでした。自分の睡眠を削ってでも、できるかぎりのことはしてあげたかった。翔平には悔いの残らないように野球をやらせたかったですし、私自身もそうしたかった」
若かりし頃の徹さんが神奈川県から地元の岩手に移り住んだのは、将来設計を見つめ直したためである。25歳で野球の現役を退き、20代後半を迎えたときだ。
《家族を養っていかなければいけない。子どもを育てなければいけない》
そのためにも、「わが家」という明確な自分たちの持ち家を築きたい。リビングにキッチン、寝室も必要だし、子どもたちが成長すればそれぞれが部屋を欲しくなる。そんな広さの一戸建てを購入しようと思えば、都会ではかなりの大金が動く。正直なところ、神奈川県のような大都市に住み続ければ、それ相応の一戸建てを手に入れるのは容易なことではない。でも、田舎へ引っ越せば……。その思いが先に立ち、徹さんは自身の人生というよりも、大谷家の将来を考えて岩手に引っ越す覚悟を決めた。そして、岩手に戻ったのにはこんな理由もあった。
「子どもに野球をやらせるんだったら、田舎の環境のほうがいいと思っていました」
田舎で生まれ育った徹さんは、自身の経験も踏まえてそう思った。
「野球ノート」に記された3つの教え
小学校時代は監督を、水沢南中時代に所属した一関市にあるシニアリーグのチームではコーチを務めた徹さんは、翔平にとって指導者でもあった。
「父親は中学まではずっとコーチや監督だったので、グラウンドで接していることのほうが多かったですね。ただ、監督やコーチはチーム全体を見ないといけないですし、息子だからといって特別扱いするわけにもいかない。だから僕も父親という観点ではあまり見ていなかったですね」
3戦連続ホームランで全米を驚かせた大谷(写真:ロイター/Kelley L Cox-USA TODAY Sports)
親子の間柄でありながら指導者と選手の立場だった当時のことを、翔平はさらにこう語るのだ。
「僕が監督だったとしてもそうだと思いますが、同じぐらいの子が自分の息子と同じ実力だったら、息子ではない違う子を試合で使わないといけないと思うんです。それは当たり前のことというか。だから、息子である自分が試合に出るためには圧倒的な実力がなければいけない。チームのみんなに納得してもらえる実力がなければいけない。まだ小さかったですけど、それは僕にもわかりました。だから、ちゃんとやらなきゃいけないという思いはずっと持ち続けていました」
仲間の選手よりも何倍も、何十倍も練習した。
岩手県奥州市と胆沢郡金ケ崎町の境界を流れる一級河川の胆沢川。その河川敷にあるグラウンドでは、小学生だった翔平の打球が川によく飛び込んだという。さらには、リトルリーグ最後の年、6イニング制で行われた東北大会決勝では17奪三振の圧巻のピッチングを見せた。それらは紛れもなく彼の実力を証明するエピソードである。
ただ、試合における結果だけに目を奪われがちだが、その裏には子どもながらの日々の努力があり、父親に認められたい、あるいは周囲の期待に応えたいという内なる思いがあった。「父親に怒られるのも嫌でしたしね」。翔平はそう茶化してみせながらも「やるべきことはちゃんとやっていました」と言葉を加えるのだ。
ホームランを打ってホームへ帰ってきた大谷をシモンズが歓迎している(写真:ロイター/Kelvin Kuo-USA TODAY Sports)
そして、彼は少年時代の野球をこう語る。
「部員は少なかったですし、ウチのチームはアットホームな感じで、野球を楽しくできました」
父と息子の野球における交換日記
父と息子。
その関係は、ミニサイズのキャンパスノートでもつながっていた。表紙に「野球ノート」と書き込まれたノートは、父と息子の野球における交換日記のようなものだった。徹さんがその日の評価やアドバイスを書き、翔平は試合での反省や今後の課題を記した。「たぶん小学校5年生ぐらいまで続けましたので、2〜3冊にはなったと思います」。そう話す徹さんは、今でも実家に残る1冊を見つめながら当時のやり取りを語り始めた。
「試合から帰ったら、今日はこういうプレイができた、3回まではいいピッチングができた。あるいは、高めのボール球に手を出したとか、ボール球を打ってフライを上げたとか。そういった試合での良かったことや悪かったことなどをノートに書かせていました。そこで大切なのは、悪かったときに次に何をすれば課題を克服できるのかを考えて行動に移すことだと思っていました。エラーや三振はある。その反省から自分がどういう取り組みをしていくのか。それらを字で書き残すことによって、しっかりとやるべきことを頭に入れてほしかった。つまりは、練習における意識付けですね。野球ノートを始めたいちばんのきっかけは、そこにありました」
ノートには、ほとんどのページに書き込まれている徹さんのこんな言葉がある。
1つ目は、「大きな声を出して、元気よくプレイする」。
やみくもに声を出すのではなく、連係プレイを含めた中での確認作業をするために、アウトカウントやストライクカウントなどを大きな声で確認し合う。選手間で各打者の打球傾向を確認し合ったり、たとえば「セーフティバントをされそうだぞ」と言い合ったり、元気よく声を出してプレイし、コミュニケーションを大事にしてほしいという思いが込められていた。
2つ目は、「キャッチボールを一生懸命に練習する」。
肩を温めるだけのキャッチボールではなく、自分が意図するところ、狙ったところに投げること。指にかかった縦回転のスピンが効いたボールを投げられるためにキャッチボールの段階から意識を高く持って投げることを求めた。
3つ目は、「一生懸命に走る」。
野球は走るスポーツでもあるために、力を抜かずに最後まで全力で走ることを指導した。
思いを込めて書き続けた
徹さんはそれら3つのポイントを事あるごとにノートを通して息子に伝えようとした。1年を通して戦い続けるプロの世界まで行った選手が、それらすべてをやり続けられるかどうかはわからない。多くの場合、それらは上のレベルに行けば行くほどに忘れてしまうものかもしれない。でも、やはり……そう言って徹さんはこう言うのだ。
「野球をやっている以上は、この3つのことを大事にしながら進んでほしい。そういう思いを込めて書き続けていました」
父の思いは、23歳になった翔平の心の奥に、まだ生き続けている。
「3つの教えは基本的なものですが、今でも覚えています。それは、いつどのステージに行っても言われ続けることだと思います。特に全力疾走は、そのこと自体に意味がありますけど、その取り組む姿勢にも大きな意味合いがあると思っています」
野球に取り組む意識付けや姿勢のあり方を投げかけながら、徹さんは技術面の指導にも熱を入れた。投げることに関しては、縦回転のスピンの効いたボールを投げることに加えて、プロ野球選手の連続写真を参考にしながらきれいな投球フォームで投げることを教えた。とりわけ、自身と同じ左打席に立つバッティングでは細かなアドバイスをした。徹さんは言う。
「私自身が左打ちだったので、はじめから翔平の打ち方は指導しやすい左打ちにしました。その中で、インコースならライト方向へ、アウトコースならレフト方向へ、変化球にもしっかりと対応できるようになってもらいたかったので、コースによって打ち分けられるようにしなさいと言い続けました。
あとは、とにかく打率を残すことを求めながら、スコアリングポジションに一気にいき、得点に絡むことができる二塁打をたくさん打つことを言ってきました。ホームランを打つことはない。左打者にとっては逆方向になる左中間方向へ打ち返して、二塁打をたくさん打つこと。そこはこだわって翔平に言い続けましたね」
グラウンド上では、社会人野球まで経験した自身の実体験をフルに活用しながら、できるかぎりのバッティング理論を伝えた。ただ、その教えは強制的で逃げ場のない堅苦しい、型にハメようとするたぐいのものではなかった。教えのスタンスとしては、バッティングのヒントを与えるもの。あくまでも自らの意思で、自身のバッティングを確立するためのきっかけ作りだったのだ。
自宅へ野球を持ち込まなかった
また、基本的には自宅へ野球を持ち込まなかった。翔平が小学生の頃は、練習が終わってから一緒に風呂に入ったものだったが、そこではその日の練習を少しだけ振り返る程度。風呂上がりはいつもの父と息子に戻り、他愛もない話をするだけだった。徹さんはその意図をこう話す。
「家に帰ってからはガリガリと1対1で練習したことはなかったですね。グラウンドでの練習を色濃くして、ウチに帰ったら自主練習。そういうスタイルで翔平を見守り続けました。まだ体が成長段階にある子どもですからね。家でも熱血指導をしてしまうとケガにつながる場合がある。だから意識的に家では指導をしませんでした。
実際に翔平も中学1年か2年のときに成長痛で足首が痛いと言った時期がありました。成長段階で急激に骨が伸びたりすることもあり、その最中で練習をやりすぎると体に異常が出たりケガをしてしまうことがある。そのリスクというか、怖さがありました。だから極力、家では熱血指導をしないと決めていました」