作詞作曲を初めたのはグループ解散後



土屋:本の中に『遠い夢のための今日の一歩』とあって、グッときました。LAZYが解散してから、作詞作曲を学び始めたそうですが、かなり勇気と覚悟が必要だったのでは。

影山:ソロになってダメになった時に、LOUDNESSで成功した元メンバーの高崎をよく思い浮かべていました。高崎は10代の頃から採用されなくても詞と曲を書いていたんです。そういう地道な努力を続けてきた高崎と、やらなかった俺。違いが解散してすぐに出てしまいました。俺もライブを続けていくうちに、自分の音楽性を周囲に示すのに、自分で曲を作らなければいけないと初めて気づいたんです。

土屋:自分発信の曲じゃないと、聞く人の心に思いが届かないという一文も、なるほどと思いました。

影山:アニソンって、俺たちが曲を作ることを誰も求めていません。それでも手作りした方が僕らの真心を一番添えられる形になると信じているんです。自分が有名になれた『ドラゴンボールZ』の主題歌『CHA-LA HEAD CHA-LA』は与えられた楽曲ですけど、俺が参加しているアニソンシンガーのユニットJAM Projectでは手作りのアニソンをみんなに、というのをモットーにやっています。

土屋:そういう心情はラジオに近いと思います。ひとの心の中に長く留まるのは、やはり言葉。思いがどれだけこもっているのかだと思います。僕は「ラジオは企画じゃなくて人(ニン)で行け」を座右の銘としています。

影山:今はたくさんの人にチャンスがあって、アニソン界も多様化しています。昔だったらスターだけに注目が集まりましたが、独特な才能も評価されるようになってきたんです。

例えばLinked Horizonはドイツ語で詞を書く、マニアックすぎるグループなんですが、NHKの紅白歌合戦に出場しました。あの人たちは売れる前からずっと同じ形。そこにお客さんがついて、東京国際フォーラムを何日もいっぱいにしたんです。


今や自分たちにしかできないことをやった者が勝つ時代です。だからJAM Projectでも自分たちにしかできないものは何かと、常に考えています。

時代とともに進化を続ける事が重要


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土屋:僕ら、RAG FAIRは2002年にデビューしたんですけど、音楽業界にとって00年代は不遇の10年と言われています。そういう時代でも影山さんたちはアニソンというコンテンツにあぐらをかかず、常に進化をし続けたからこそ今があるんだと思いました。

影山:アニメーションの進化はすごいんです。1970年代のゲッターロボやマジンガーZは今のアニメよりのん気で画もそんなにリアルじゃない。

俺がアニソンシンガーになった90年代のアニメや特撮ものは、70年代のものに比べて、よりパワフルで、よりリアルで、よりドライブ感の効いた映像に変わっていました。オープニングを飾るアニソンシンガーも、映像の進化に合わせてドライブ感を表現できるロックシンガーが求められるようになってきた時期でした。

だからJAM Projectのメンバーは全員ロックシンガーなんです。そんな時代の流れに乗って全速力で走ることができた自分たちは、幸せなミュージシャンだったと思います。

その昔、アニメは一部のマニアックなファンのものでしたが、2000年代以降は誰でも好きなアニメの1つや2つはあってもおかしくない時代になった。『ONE PIECE』が好きと言ってもだれも「キモいやつ」とは思わないでしょ?。カラオケだってアニソンで盛り上がるんです。

土屋:アニメが市民権を得るようになってきて、アニソンシンガーになりたい!という人も増えてきたんじゃないですか?

影山:昔の仲間がESP学園(音楽学校)の校長をやっていて、トークショーに呼んでもらうことがあるんですが、漠然とアニソンシンガーになりたいっていう生徒さんが最近多くなってきました。

そういう子には必ず言います、「アニソンっていうジャンルはないんだよ」って。まずは自分というものを持たなければ、アニソンシンガーにもプロのシンガーにもなれない。

『ドラゴンボール』で孫悟空の声をやっている野沢雅子さんは80代でもバリバリです。なぜ野沢さんがずっと現役でいられるのかというと、代わりがいない唯一無二の声優だから。すべての職業に言えることですが、自分しかできないことを探すのが、一生のテーマになるなのではないでしょうか。