「人生に必要なことは建設現場で学んだ」影山ヒロノブが40年間歌い続けてきた理由 - 土屋礼央のじっくり聞くと
土屋礼央の「じっくり聞くと」。今回はアニソン界の大御所、影山ヒロノブさん。
16歳の時にロックバンド『LAZY』のボーカル“ミッシェル”としてデビューして、アイドル的な人気を博したものの、わずか4年で解散。ソロになってからはうまくいかない日々が続き、年収7万円というどん底も経験した影山さんがアニメソングに転向して大逆転!
去年めでたくデビュー40周年を迎え、記念本『ゴールをぶっ壊せ 夢の向こう側までたどり着く技術』を出されたばかりです。
紆余曲折を経て、アニソン界のプリンス、いまや長老として歌い続けてきた理由とは? 土屋礼央が今回も「じっくり」聞いています。
土屋:この本を読むまで影山さんがロックバンド『LAZY』で活動されていたとは知りませんでした。
影山:大阪時代、LAZYはハードロックを目指していたんです。でも東京に出てみるとアイドルで売れてしまいました。そんな葛藤を経て解散したあと、ドラムの樋口(宗孝)とギターの高崎(晃)はデビュー前からやりたかったことに立ち戻って「LOUDNESS」として世界的に成功を収めました。
解散して、ひとりになって、さぁここから自分のスタイルを作るぞ!思っていた時に、前の事務所、バースデーソングの山岸社長から『お前の歌って、女に媚びてるわ。特にお前のバラードは媚びまくり!』って指摘されたんです。
与えられたラブソングをファンの女の子たちにウケるように歌っていたことに気づかされました。だからアニソンを歌うようにはなってからは男ウケのする、ズドンとくる歌い方ができるシンガーになりたいと願うようになったんです。20代の半ばくらいのことでした。
土屋:僕たちRAG FAIRも最初はアイドルのようなスタートでした。そこから次にどうすれば息の長い活動ができるか考えました。事務所が売り出した時の最初の印象と自分たちのやりたいこととのギャップに、みんな悩みますよね。
影山:俺たちの時代も事務所が強かったんです。事務所が考えた「うまくいく方法」はこっちなんだから、成功してから好きなことをやればいいと言われました。でも今では最初からやりたいことをやった方が良かったと思っています。それで生き残れるかどうかは自己責任。
土屋:本の帯にもありますけど「年収7万円」なんて時代があったんですか!?
影山:歌だけで食べられるようになったのはだいぶ後のことで、37歳まで工事現場でアルバイトをしていました。あの頃の友達と会うと、歌っても全く金が入ってこないのに、よく歌手をやめなかったねと言われます。
年収7万円には自分でも驚きましたよ。そんな年収でも歌い続けるって、俺って本当に歌が好きだったんだと気付かされましたね。
土屋:ソロになられてからは年間100本ものライブをこなす、そこにもびっくりしました。
影山:とにかく歌う場所が欲しくてノーギャラでライブハウスを回っていた時期があったんです。それが年収7万円のころ。一番大変だったのは、30日間ずーっと毎日ライブがあった時。
どんどん声が出なくなっていき、10日目には喋ることもできなくなるんだけど、それでも毎日歌い続けていると、20本目くらいのライブでまたモリモリモリ〜っと盛り返して、最後の2〜3本では今までよりも太い声がでるようになる(笑)。
土屋:今、太い声が出せているのは、30日連続ライブのおかげ?
影山:過酷でしたが、やってよかったと思っています。歌い方や声の質、ロックの感覚といった、人から教わるものではないことが、ライブの本数を重ねていくうちに身についていったんです。昨日までできなかったことが、今日一生懸命歌えば、明日にはできるかもしれない。そう信じてやってきました。
16歳の時にロックバンド『LAZY』のボーカル“ミッシェル”としてデビューして、アイドル的な人気を博したものの、わずか4年で解散。ソロになってからはうまくいかない日々が続き、年収7万円というどん底も経験した影山さんがアニメソングに転向して大逆転!
去年めでたくデビュー40周年を迎え、記念本『ゴールをぶっ壊せ 夢の向こう側までたどり着く技術』を出されたばかりです。
紆余曲折を経て、アニソン界のプリンス、いまや長老として歌い続けてきた理由とは? 土屋礼央が今回も「じっくり」聞いています。
大人気アイドルだった10代の頃
土屋:この本を読むまで影山さんがロックバンド『LAZY』で活動されていたとは知りませんでした。
影山:大阪時代、LAZYはハードロックを目指していたんです。でも東京に出てみるとアイドルで売れてしまいました。そんな葛藤を経て解散したあと、ドラムの樋口(宗孝)とギターの高崎(晃)はデビュー前からやりたかったことに立ち戻って「LOUDNESS」として世界的に成功を収めました。
解散して、ひとりになって、さぁここから自分のスタイルを作るぞ!思っていた時に、前の事務所、バースデーソングの山岸社長から『お前の歌って、女に媚びてるわ。特にお前のバラードは媚びまくり!』って指摘されたんです。
与えられたラブソングをファンの女の子たちにウケるように歌っていたことに気づかされました。だからアニソンを歌うようにはなってからは男ウケのする、ズドンとくる歌い方ができるシンガーになりたいと願うようになったんです。20代の半ばくらいのことでした。
土屋:僕たちRAG FAIRも最初はアイドルのようなスタートでした。そこから次にどうすれば息の長い活動ができるか考えました。事務所が売り出した時の最初の印象と自分たちのやりたいこととのギャップに、みんな悩みますよね。
影山:俺たちの時代も事務所が強かったんです。事務所が考えた「うまくいく方法」はこっちなんだから、成功してから好きなことをやればいいと言われました。でも今では最初からやりたいことをやった方が良かったと思っています。それで生き残れるかどうかは自己責任。
年収7万円でも歌うことは止めなかった
土屋:本の帯にもありますけど「年収7万円」なんて時代があったんですか!?
影山:歌だけで食べられるようになったのはだいぶ後のことで、37歳まで工事現場でアルバイトをしていました。あの頃の友達と会うと、歌っても全く金が入ってこないのに、よく歌手をやめなかったねと言われます。
年収7万円には自分でも驚きましたよ。そんな年収でも歌い続けるって、俺って本当に歌が好きだったんだと気付かされましたね。
土屋:ソロになられてからは年間100本ものライブをこなす、そこにもびっくりしました。
影山:とにかく歌う場所が欲しくてノーギャラでライブハウスを回っていた時期があったんです。それが年収7万円のころ。一番大変だったのは、30日間ずーっと毎日ライブがあった時。
どんどん声が出なくなっていき、10日目には喋ることもできなくなるんだけど、それでも毎日歌い続けていると、20本目くらいのライブでまたモリモリモリ〜っと盛り返して、最後の2〜3本では今までよりも太い声がでるようになる(笑)。
土屋:今、太い声が出せているのは、30日連続ライブのおかげ?
影山:過酷でしたが、やってよかったと思っています。歌い方や声の質、ロックの感覚といった、人から教わるものではないことが、ライブの本数を重ねていくうちに身についていったんです。昨日までできなかったことが、今日一生懸命歌えば、明日にはできるかもしれない。そう信じてやってきました。