どこか懐かしい食べ物を愛情込めて紹介する無料メルマガ『郷愁の食物誌』。今回は、お茶うけにぴったりな「甘納豆」の意外な歴史についてご紹介しています。甘納豆を発明した人物とは誰? さらに、幕末から明治にかけて創始した身近な食べ物も併せてご紹介。江戸時代より前からあると思っていた、あの食べ物が幕末あたりに作られたなんて……驚きの連続です。

甘納豆のはなし

甘納豆、郷愁の食べものとも言えようが、お菓子としての人気は今後も衰えることはないだろう。思えば菓子としては、”豆”という素材を使った独特な雰囲気と味を持った伝統の菓子である。と言って、かなり昔、江戸時代の初期、中期からある菓子でもなさそうだ。

たいがいの本には、安政5年(1858年)日本橋の菓子店「榮太樓」が金時ささげを用いて納豆をつくり、浜納豆に似たところから甘納豆となづけて売りだしたとあり、これが甘納豆の創始ということになっているようだ。甘納豆の正史の部分だろう。

ところで檜山良昭という作家の小説・幕末架空戦史『黒船襲来』を読んでいて驚いた。なんと甘納豆の歴史、なりたちが出てきたのである。

その小説『黒船襲来』によれば、甘納豆の発明者は下曽根金三郎という武士だったというのである。下曽根金三郎は御家人の生まれで、江戸末期黒船来航のころ、幕府の東京湾沿岸警備隊ともいうべき部隊の鉄砲組先手組頭であった。発明工夫の才能があり、小銃の改良や射撃術の工夫に取り組むかたわら、甘党であったため菓子の製造にも凝り、甘納豆も発明したというのである。

静岡県浜松の名産に浜名納豆があり、これは、煮た大豆に小麦粉をまぶし、発酵させ、半年塩汁につけた後、天日で乾燥させ、しょうが・山椒・しそ・けしなどの香料を加えた納豆の一種。これにヒントを得て、大豆に砂糖をまぶした菓子を作り、浜名納豆をもじって甘納豆と命名した。

これが江戸で評判を取り、大いに売れた。貧乏御家人だった下曽根は、知り合いの菓子屋に甘納豆を作らせ、利益の一部をもらっていたから、甘納豆のおかげで暮らしが楽になったというのである。

知り合いの菓子屋というのが「榮太樓」で、素材の豆が大豆からささげ金時になったのはいろいろ試行試作の成果か。甘納豆のことを書いた本をあれこれ調べたが、下曽根金三郎のことに言及してあったのは檜山良昭の幕末架空戦史『黒船襲来』だけだった。この作家はいったいどこでこの情報を手に入れたのだろうか。前から作者に質問しようと思っていたがまだ果たしていない。

私のよく参考にする本、『たべもの日本史総覧』(新人物往来社刊)によれば、幕末から明治にかけ創始されたたべものもけっこう多い。

例えば...、1850年頃くるみ餅、1851年寒天、1854年頃栗ぜんざい、1857年海苔の養殖、1858年佃煮売り出し、1860年日本最初のパン店開業。1866年南京豆初輸入。1868年すき焼き、ラムネ、1870年ぶどう酒試作販売。佃煮など、ええっと思うかしれないが、思ったより歴史が浅いものだとわかったのである。

甘納豆には材料としていろいろな豆が使われるが、やはりより甘納豆に適した豆というのがあるだろう。私が食べたものの中で、甘納豆にはフィットしないのではないかと思ったのは、まあ好き好きはあるだろうが、黒豆、黒豆独特の味が残って私はどうも好きになれなかった。黒豆製の納豆というのも食べたがこれも同様の後味が残る。やはり黒豆が大豆の一種ということもあるのだろう。

ピーナツ・南京豆の甘納豆も、もうひとつ、どうだろう?という味だった。買ってまで食べる気はしない。小豆は、昔は甘納豆にしずらい豆だったらしいが、今ではりっぱに甘納豆化されている。ただ豆がボロボロ細かすぎて、食べづらい。ささげもちょっと細かいか。

後はみな甘納豆優等生。どの豆のものが好きかはそれぞれの好み。大正金時豆、とら豆、うずら豆、白いんげん豆、えんどう豆、白花豆、赤花豆。私は、軽井沢高原の赤花豆のものが最高に気に入っている。おいしさは格別だ。

ところで、大豆の甘納豆というのは見たことがないが、果たしてどんな味がするものだろうか。作れないことはないが、菓子の甘納豆としてはとうてい売れないというところではないだろうか。

甘納豆は、否、甘納豆的製法で作ったものはいくつかあるようだ。ポテトの甘納豆風なものを食べたことがあるし、ある高原のみやげもの店にはハスの実の甘納豆を売っていたので、買ってきて食べたことがある。けっこう自然でおいしかった。

甘納豆は、純粋に豆と砂糖だけで作る菓子である。それだけに職人の技が製品に如実にあらわれる菓子であるという。

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