芸能人のInstagramやSNSなどで時おり流れてくる“豪華すぎる女子会“。本人たちは気の合う仲間と集まっているだけかもしれませんが、それを外から眺める私たちは「えっ!? あの人とあの人が繋がっているの?」とゴシップを見るように眺めてしまうことも。

たとえば、ハリセンボンの近藤春菜さんが、女優の吉高由里子さんや人気アーティストPerfumeのあ〜ちゃんなどと仲が良いことは周知の事実。春菜さんが愛されていることは十分わかる。でも、美女に囲まれるって劣等感を刺激されたりしないの? 

「もしあの女性がオフィスにいたら…?」今回は、近藤春菜さんについて考察します。

美人は得、って本当だろうか

美人とは、実は生き方が不器用な生き物だと思う。「人は見た目が9割」とはうまいこと言ったもので、世の中「そりゃあ美人/イケメンな方が人生有利に決まってるじゃない?」と思う人は多いだろうけど、本当にそうだろうか。美人は美人で、結構気苦労も多いんじゃないだろうかというのは、「じゃないほう」の立場から観察した私なりの感想である。

チヤホヤされていいじゃない、そのおかげでチャンスがたくさんもらえて羨ましい、なんてのはその代償の怖さがわかっていない。

一見してすぐにわかってしまう「美人」という才能は、それだけで遠慮なくじろじろ眺め回す他人の視線や、余計な期待と失望や、好感情と背中合わせの悪感情や、要らぬ人間関係を引き寄せてしまう。

人間の心理というのは振り子と同じで、プラスに動いたのと同じ振り幅でマイナスにも振れるのだ。

「チヤホヤ」は、それと同じ熱量の嫉妬や「大したことないじゃん」との失望を呼んでくる。誰かに絶賛されるのと同じぶん、他の誰かに腐される。誰かに愛されるぶん、誰かに憎まれる。美人を理由にチャンスをもらうぶん、他の何かのチャンスを逃している。美人はそれを毎日経験しているのだ(たぶん)。

「お姉さん美人だからおまけしとくよ!」と総菜店でコロッケを一つおまけにもらう美人の10メートル後ろでは、ガチでヤバいストーカーが柱の影からその背中をじっと見つめているかもしれない。ホントしょーもないセクハラにだってガンガン遭う裏で、「あの子美人だからって調子乗ってるよね」と陰口も叩かれるのだろう(たぶん)。

そんなのに追い詰められ、すり減ることを考えれば、コロッケ一つを毎日オマケにもらったところで、全然釣り合わない。美人薄命とも言われるけれど、薄命の根本理由は気苦労じゃないのか? そうだきっとそうに違いない。

「美人は得」とは、当事者じゃないからそう羨ましく見えるだけで、美人本人よりも「不美人キャラとして美人にくっついているのが得」だと思う。なぜって? 美人のすぐそばでメリットのおこぼれにあずかりつつ、自分自身は嫉妬されるどころか「あの美人に選ばれる子なんだから、きっとすごく性格が良くてセンスもいいに違いない」と株は上がるばかりだから。

そんな「美人に友達として選ばれる子」の芸能界の代表格としてあげるなら、お笑いコンビ・ハリセンボンの近藤春菜さんだろう。

「美人」と競合しないブルーオーシャンで自己確立

……独身アラサー編集のY子が言いました。「河崎さん、近藤春菜さんって実は吉高由里子さんやPerfumeさんたちとも仲が良くて、交友関係がキラキラですよね。美人にモテる秘訣って何なんでしょう?」

私:女芸人さんの中には、女優やモデル、アイドルなど、キラキラした美人とすごく仲のいい人がいますよね。ルックスも「芸風」も、本人は決して同じジャンルではないのに、何かと一緒に遊びに行くという。

Y子:イモトアヤコさんも竹内結子さんと仲良しです。そういう人って、「あの美女に好かれる彼女はきっといい人なんだろう」と思わせてしまう力がありますよね。しかも近藤春菜さんは数々のバラエティやCMに出演され、最近はお昼の情報帯番組のレギュラーとしても大活躍。誰にも嫌われないバランス感覚がすごいと思います。

私:近藤さんといえば、「角野卓造じゃねぇよ!」のフレーズが有名ですけれど、誰も傷つけないし、しかも本人は至って明るくて自己肯定感が低くないから、決して自虐的に響かない。明るくてコロコロしている子って、男性も女性も誰に対しても分け隔てなく楽しい性格で、人が安心して話しかけられる良い意味での「隙」があるから好かれるんですよね。

Y子:それってすごい才能ですよね。現代に生きる女子って、何かと武装しがちじゃないですか。自分を守るために壁も作ったり。

私:まさに。特に女子界における「美人」というジャンルは、なんだかんだ競争が激しいので、お互いの牽制や足の引っ張り合いも多い。そんな中で、近藤春菜さんってそういうたぐいの競争とは無関係そうな、なんかホッとできるイメージがありますよね。美人たちとは異なる価値観軸で自己の存在価値を確立している人は少ないだけに、「春奈ちゃんと一緒にいるとホッとする」とのオンリーワンに近い需要が生まれる、と……。

Y子:女子の主流とは違う存在価値、ということですね。

私:そうです。いまの世の中、「美人」や「才色兼備」ジャンルはレッドオーシャンですから、「面白い」とか「いい人」ジャンルのブルーオーシャンで自己確立するのは自分を潰さない、賢い生き方です。むしろ頭の良さが必要で、しかも器用な生き方とも言えるかも。

Y子:なるほど、女子の中で戦わなくていい生き方、というのもありかもしれません。マウンティングなんかどこ吹く風、ですよね。

異ジャンルだからこその対等な補完関係

美人は生きづらいだろう。なぜって、(賛否はあるだろうが)主流だから。でも残念ながら、その競争資源である容姿の良さはやがて枯渇していくのが人間の理(ことわり)であり、美人で売るというのは「やがて必ず負け戦になる勝負」。要するに美人って、真正面から勝負しすぎて「ズラす」ということができず、ある意味不器用なのだと思う。

だから、近藤春菜さんのように美人の隣にいる「安らげる親友」という器用な立ち位置は貴重なのだ。近藤春菜さんの仕事の仕方を見ても、彼女ならではの立ち位置が自然とできていて、どの番組でもどのタレントさんとの絡みでも、妙なこだわりや無理がなさそうに見える。特に女性同士の時に「美人」と張り合わない、異能だからこその絶妙な補完関係が生まれるのは、近藤春菜さんのキャラならでは。

職場でも同じこと。主流であることにこだわって真正面からの勝負を続ける人は、消耗して弱っている。そういう人たちには、ともに行動してくれて、様子を見ながらいいタイミングで声をかけたり癒してくれたりする、競合しない友人が必要だ。その競合しない優しい友人を見つけた時、「主流」の人は大きな信頼を寄せて、とても大切にするものだ。

もしあなたが職場の競争に違和感や疲れを感じているのなら、そろそろレッドオーシャンからブルーオーシャンへと移動すべき、ズラし時(どき)かもしれない。職場の主役と競合せずに、対等に補完できる関係になったら最高。それは、あなたが希少な自分ジャンルを見つけたということでもある。

ちなみに、ハリセンボンは東京NSC(吉本興業の養成所)時代、男性ばかりの同期生の中で希少な女性として特異な立ち位置にいたという。はじめは不美人として周囲にイジられていたけれど、1年間が終わる頃には同期の男性たちが「(近藤)春菜派」と「(箕輪)はるか派」に二分し、「どっちがいいか」と対立するほどだったとか。「それくらい女子がいなかったんですよ」と、その男性同期芸人は笑いにしていたけれど、それだけじゃない。

やはりあの、毒もユーモアもあるのに他人も自分も傷つけない類い稀な芸風には、本人たちの品の良さがにじむのだ。彼女たちの「ゴリゴリ競合しない」という品格から、私たちも学ぶところがあるだろう。

(河崎 環)