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著名人の不倫が報じられると、ヤフーニュースのコメント欄(ヤフコメ)には、激怒する書き込みが相次ぐ。なぜそこまで“上から目線”で怒るのか。情報社会学者の塚越健司氏は「ネットの普及によって、目の前の自分に向き合うことより、何かの立場から社会を論じているほうが、心理的満足感が得られるようになったからだ」と指摘する――。

■なぜ人々は「芸能人の不倫」に怒るのか

2017年も芸能人の不倫や大相撲の問題などがワイドショーなどで特集された。多くの人にとって芸能人の問題も大相撲の問題も他人事であるにもかかわらず、なぜ人々は怒りを込め、問題を論じようとするのだろう。それだけ人々はニュースを「自分のこととして」共感したからかと言われれば、そうではないようにも思う。ではなぜ我々は自分と関係ない事件にあれほどまで怒るのだろう。この問題について考えたい。

英犯罪学者のジョック・ヤング(1942-2013)は2007年に著書『後期近代の眩暈』を出版している(翻訳は2008年出版)。SNSが本格的に普及する前に書かれた本だが、その後の社会を見通す上で示唆に富んでいる。

我々は社会問題を論じる際、排除されている人と富裕層などの包摂されている人々の二項対立で考えることが多い。しかしヤングによれば、問題はむしろ多くの人々が社会に包摂された多数派と思ってしまう点にあるという。以下ヤングの議論を概観しよう。

■「私も一発逆転できるかも」という思考回路

言うまでもなく日本社会に生きる多くの人々が不安に苛まれている。不況やグローバル化などによる年功序列制度の実質的な崩壊や、非正規雇用が増大化し、未来に向けた見通しが立てづらい世の中だ。金銭による労働者のインセンティブ=動機づけが困難な社会において、職場環境の向上など、新たなインセンティブ獲得のための試行錯誤が求められている。

他方、職業選択の自由や様々な価値の多様化によって、労働の自由も拡大している。職業においては「ユーチューバー」などが典型だが、芸能界とも異なる新しい労働形態が出現している。まだ人数は少ないが、社会的な成功を収めた人もいる。

こうした新たな成功パターンは、努力よりも発想が重視される。従来であれば成功は、専門技術を獲得する努力の対価だった。だが近年は「一見すると」自分でもできそうなことで成功しているように受け止められる。「発想があればユーチューバーで稼げる」と考える人は、一昔前に比べて増えているはずだ。

無論成功には発想だけでなく努力が不可欠だ(当然ユーチューバー等の人々が努力していないなどと考えているわけではない)。しかし「報酬の恣意性」とヤングが呼ぶように、どうすれば儲かるか、成功するかという道筋は複雑化し、そのため「私も一発逆転できるかも」という思考回路も増える。創造性はその性質故に、創造的であるための道筋を教えてはくれない。したがって現代社会は不安定化する一方、「夢(だけ)は無限に増殖する」中で一発逆転を夢みるという、期待と不安が同居した状況を呈している。

■自分も「セレブ」になれるかもしれない

セレブという言葉は欧米と日本で用いられ方が異なる概念だが、日本では単純化すれば概ね「成功した裕福な有名人」といった意味で語られる。付け加えるならば、セレブは有名であるだけでなく、エリートのように難しい言葉を使うこともない、常に私たちの身近な存在である。

上述の通り不安が常態化する一方、それを拭うかのように人々は突如セレブの仲間入りをするような「一発逆転」を夢みており、実際にそのような成功者を生み出すチャンスが存在する。さらに現代社会はSNSによって、セレブにでも直接意見を送り、時には本人から返答が返ってくることもある。

加えてテレビではセレブの生活が余すところなく放映されている。100年前の階級社会と異なり、セレブも一般人と同じような生活をしている姿が映し出され、セレブを身近に感じる一方、豪邸など成功者としての一面をのぞかせることから、人々は成功者に憧れと親近感を覚える。なぜなら、セレブは生まれながらのセレブだけでなく、自分ももしかしたらセレブ=celeblrity(名声)、つまり賞賛に値する有名人になれるかもしれない、と思わせてくれるからだ。

このことは、自分が現在生きている厳しい暮らしを忘れさせてくれるものであるが、それ故に一発逆転幻想を強化する側面もある。ヤングは米法学者ローレンス・フリードマン(1930-)の「金持ちや有名人のライフスタイルは大衆のアヘンである」という一節を引用する。インスタ映えするセレブの姿に憧れを抱く社会に、重くのしかかる一言だ。

■「視点の自由化」と「自分のモノ化」

不安と期待が入り乱れる日々の中でセレブと同じ目線を可能にする社会では、自らが社会に排除されていると思うより、むしろ社会の多数派でいると感じるほうが心理的な満足を得られる。つまり、心理的な防衛反応として、自らをセレブの目線に位置づけて論じようとすることが多くなるというわけだ。

これはセレブへの同化だけを意味しない。SNSやテレビをみれば、日々あらゆる意見があらゆる立場から発信されている。そこで、こうした意見の中から現在の自分が心理的に満足できる視点を自分の意見と重ね合わせれば、個人の心理的な視点に立てば「コスパがいい」。したがって、我々は常に自分にとって都合のいい立場から発信する「視点の自由化」を心理的に内包していると言えるだろう。

簡単にいえば、自分の立ち位置は一貫しないまま、ポジションによって意見が変わるユーザーが多いということだ。昨今はツイッターやヤフーニュースのコメント欄でこうした事例が散見される。不倫は悪いと激昂したかと思えば、同じユーザーがセクハラ発言を平気で投稿する。例えばあるアイドルファンは、運営の立場からファンを否定したかと思えば、アイドルの立場から運営を否定し、しかしアイドルがスキャンダルを起こせばファンの立場からアイドルを否定する。どの立場から発言するかによって、投稿内容が変化する好例であろう(SNSは発言の履歴が残るので、投稿内容を参照しやすい)。

■何かの立場から社会を論じることで心理的満足を得る

自分が社会的に強者でも弱者でも、都合のいいときに都合のいい立場から社会問題を論じることが可能な社会では、主に社会的強者の目線から問題を論じることが安心につながる。ヤングは、それ故に人々は本当に苦しんでいる弱者が発見されず、むしろ弱者が弱者をたたくことで、社会的連帯が困難になっているとも指摘している。日本で数多く生じている問題にも通底しているのではないか。

SNSが悪いというわけではないが、日本で発信される様々な怒りの背景には、上述の問題があるように思われる。怒っているというよりも、何かの立場から社会を論じることで心理的満足を得ようとする人が多くなっている、と捉えられる。

しかし「視点の自由化」は、都合の悪い他者を排除するというより、「自分が自分を排除する」、そうした心理的傾向の表れでもあるだろう。視点の自由化は、もともと自分が何をどう捉えているか、といった問いを発する前に他者の意見を採り入れてしまう。故に問題は、目の前の自分に向き合うことを放棄すること、あるいはそうでもしなければ生きていくことが困難な状況にあるのではないか。

他人をモノのように扱う人がよく批判される。だがより問題なのは「自分のモノ化」だ。怒りを表明しているようで、実は問題に関心があるのではなく、何かの立場に立つことで自らの不安を打ち消そうとする傾向が、あるのではないか。

自分のモノ化は根深い問題だ。他人の立場に立って考えることは重要だが、どういう意図で他人の立場に立つか、なぜそのような立場に立つのか。そうした自分自身の心理的問題と向き合うことなく他者の意見を内在化しているからだ。しかし、自分自身の心理に向き合うのは難しい。

■SNSでの「祭り」が企業の儲けになる時代

自分のモノ化の背景について付け加えておきたい。スマートフォンやSNSの普及に並行して「アテンション・エコノミー」という言葉が注目されている。SNSを通じて常に目の前でアテンション(注目)を集めるお祭りが行われることで、人々はスマホから離れられず脊髄反射的な反応を行うが、それも含めて企業の儲けになる、というものだ。

自分の考えを練ろうとしても、スマホの先が常に「お祭り状態」であれば、そこから身を引き離すのは難しい。目の前の他者の声に、自分の言葉がかき消されてしまう。逆に自分をモノ(対象)として扱い、どうすれば社会で成功できるかを考えれば、必然的に(悪しき)自己啓発などにたどり着き、自己そのものが操作の対象となってしまう。自己実現という旗印のもの、仕事や美容、健康など、さまざまな意味で自分を輝かせることが求められる社会の中で、我々は逆説的にも自分自身に関わることが最も困難な時代を生きている。

とはいえ、自分自身に関わるという問い自体も曖昧だ。人は自分自身について適切に理解できるほど賢くもなければ、意志が強い存在でもない。しかし少なくとも、スマホを含めた情報技術から距離を取るなど、意志の力ではなく、環境を整えることで心に余裕を持つことはできるだろう。そしてまた、情報技術を避けるだけでなく、技術を利用することで自己との関わりを刷新するような、そのような技術が求められている。

問われた問題は重く、また簡単な解決策があるわけでもないが、こうした問題設定を理解して2018年を生きていくべきではないだろうか。

(情報社会学者 塚越 健司 写真=iStock.com)