“プロレスの神様”カール・ゴッチ。総合格闘技が隆盛となって以降は、その技術の有効性を疑う声もあるが、しかし、その一方で今なお多くのレスラーから崇拝されている。
 ゴッチとアントニオ猪木の出会いによる化学反応は、日本のプロレス界にストロングスタイルという文化をもたらした。

 JR南千住駅から程近い東京都荒川区の回向院(別院)。松下村塾を開いた吉田松陰や橋本左内らも弔われる由緒正しき寺院の中に、今年7月、〈カール・ゴッチ之墓〉と碑銘を刻まれた墓石が建てられた。
 2007年に82歳で亡くなると、ゴッチの遺骨のほとんどは「人間の祖先は海から来たのだから死後は海に帰らなければいけない」との遺志により、フロリダの海に散骨された。しかし、その一部が弟子のジョー・マレンコによって保管されており、没後10年たって日本に分骨されることになったという。
 「カール・ゴッチ墓石建立プロジェクト委員会」の代表発起人の1人に名を連ねたアントニオ猪木は、納骨式後の記者会見で実務を担った西村修に謝意を示しつつ、「遠い過去になった話が思い起こされた。これをきっかけに、またレスリングが本来あるべき強さ、時代によっていろいろなものは変わっていくけれど、原点を忘れないでおくというのはいいこと」と、いつもの調子よりもやや控えめに語った。

 猪木とゴッチの最初の出会いは、日本プロレス時代にさかのぼる。'61年に初来日したゴッチだが、当時の“悪役外国人を力道山が倒す”という定番スタイルにはふさわしくなかったようで、力道山の「強けりゃいいってもんじゃない」とのゴッチ評が残っている。
 そのため、日プロでは主にテクニシャンとして知られる吉村道明と対戦。力道山とのシングル戦は一度だけに終わった(結果は引き分け)。
 だが、その実力者ぶりを認められると、'68年からは若手のコーチ役として日本に長期滞在し、そこで猪木も稽古を積んで卍固めやジャーマン・スープレックス・ホールドの必殺技を伝授されている。

 そして'72年、日プロを追放された猪木が新日本プロレスを創設すると、ゴッチはレスラー兼ブッカーとして参加することになる。
 「すでにこのときゴッチは47歳。選手としての峠は越えていた。それでも猪木がゴッチを頼ったことについては、古巣の日プロやジャイアント馬場の全日本プロレスに外国人ルートを押さえられ、ゴッチしか頼れなかったというのが定説とされているが、果たして、それだけだったのか…」(プロレスライター)

 インターネットもなく外国からの情報が伝わりづらかった当時、猪木は無名の外国人レスラー、タイガー・ジェット・シンを希代の悪役として育て上げている。同じことは旗揚げ当初から企てていただろう。
 プロレスをショービジネスとして捉えるなら、アメリカでもパッとしなかったゴッチをわざわざ看板にすることは、新団体にとってマイナスにもなりかねない。それでもあえてゴッチを厚遇した裏には、猪木なりの考えがあったと見るべきではないか。
 「やはり、そこにはゴッチの“強さ”への敬意があったのでしょう。人気でかなわなかった馬場に実力勝負を申し込んだように、猪木が目指したのはあくまでもストロングスタイルであり、そのためのスキルを持つゴッチを必要としたのではないか」(同)

 3月6日、大田区体育館での旗揚げ戦にゴッチとの試合を持ってくることで、猪木と新日の進むべき方向性を明確に示したというわけだ。
 「それまで“無冠の帝王”と称されていたゴッチが、のちに“神様”にまで格上げされたのも、新日で猪木と闘ってからのこと。この試合で猪木は、ゴッチのリバース・スープレックスによりフォール負けを喫しますが、これも神様として祭り上げるために必要な儀式だったのでしょう」(同)