「“結婚詐欺”にあったようなものでした。役人と結婚したら平穏な生活ができると思って嫁に来たのに、途中で何一つ相談なしで勝手に役人を辞めちゃって。結局、選挙ばかりやらされることになりました」
 中曽根の妻・蔦子は冗談めかし半分、本音半分で、その結婚生活を振り返ったことがある。

 中曽根は群馬県高崎市の「古久松」という屋号の、関東有数の材木屋の息子である。両親の限りない愛情、恵まれた環境のもとで、県下の名門・旧制高崎中学から静岡高校を経て東京帝国大学法学部に進み、太平洋戦争開戦9カ月前の昭和16年(1941年)3月の卒業と同時に内務省に入った。ここで海軍を志願、東京・築地にあった海軍経理学校を出て主計中尉、将校になった役人としてのエリートでもあった。
 「開戦直前に設営隊長を命ぜられ、3000人の部下を率いてフィリピンのダバオに上陸、飛行場の設営に従事していた。部隊はヤクザ上がりをはじめ、荒くれ揃いだった。そうした部下に対し、中曽根は『おまえらの命はオレにくれ』などとカッコよく丸め込み、若いに似合わず抜群の統率力を示したそうです。のちに政界に出たあとも、カッコよく人の耳目を引くことで定評のあった中曽根だったが、この頃にして度胸も満点、自信に溢れた男だったそうです」
 元中曽根派担当記者の証言である。

 一方の蔦子は、早稲田大学で地質学の教鞭をとる教授の娘で、日本女子大学を出た「理知的な娘」との評判があった。中曽根に言わせると、結婚の経緯は次のようなものだった。
 「彼女は、じつは戦友(注・教授の子息)の妹だった。私が東京へ行くということでその戦友から荷物と手紙を託され、彼の家へ行った。そこで、初めて彼女に会った。しっかりしているが、なかなか可憐でもあった。私は、まず彼女の母親に気に入られてね、『是非、婿になってくれ』と言われた。私の父親も、私が戦争でいつ命を落とすかも知れない息子だけに、早く孫の顔が見たいとの願いもあり、戦争のさなかだったが結婚することにした」
 挙式は終戦を迎える6カ月前の昭和20年2月11日の「紀元節」(現在の「建国記念日」)を選び、中曽根は海軍軍務局勤務の26歳、蔦子23歳であった。

 結婚当初の中曽根は、家庭にあっては時に「貴様ッ」などと海軍調で蔦子を一喝、しばし新妻をビックリさせたものだが、相当ホレていたのか、蔦子の次のような述懐がある。
 「私の写真を、いつも内ポケットに入れていたそうですよ。最初の妊娠をしたときも私が酸っぱいものを欲しがるので、あるときなど、主人は会議に出た夏ミカンを食べたふりをしてそっとポケットに入れ、持って来てくれたこともあったのです」

 ところが、新婚わずか1年半ほどで“事態”は急変する。当時、中曽根は警視庁監察官に就任したばかりだったが、突然、内務省に辞表を提出、さっさと一人で郷里の群馬へ帰ってしまったのだった。東京に置いていかれた蔦子のもとに“消息”が入ったのは、中曽根が高崎に帰ってから1週間も経った頃で、来たハガキにいわく「次の総選挙に出るから高崎に来い」であった。
 蔦子が乳飲み子(のちの長男・中曽根弘文参院議員)をかかえ高崎へ帰ると、どうだろう、すでに中曽根は内務省の退職金で買った自転車をペンキで白く塗り、「日本をアカの手から守ろう」などと訴えて回ったり、青年団に働きかけて『青雲塾』なる会を結成、「日本の再建を目指そう。青年よ立て!」などと、口角泡を飛ばしたりしていたのだった。当時から「反共」の一本ヤリ。“舌”の使い方は海軍時代からさらに磨きがかかっていた。まさに、まごうことなく蔦子いわくの「結婚詐欺」だったということである。