「何も言わなければ、何も始まらない」ドーピング問題言及の真意



ーーさて、今回ぜひ聞いてみたかったもうひとつの話を。先日、ドーピング問題に言及した記事がとても話題になりました。なぜ言いにくいこの問題について言及しようと思ったのでしょうか。

きっかけは8月の世界陸上でした。あるスプリントの選手がフィニッシュ後にブーイングを受けたことが話題になりましたよね。僕自身はブーイングをする必要まではなかったと思うんですけど、なぜその選手がブーイングを受けているのか、そもそもブーイングを受けた選手はどういう経歴を持って競技を続けているのかを知ったうえで観戦して、そしてブーイングについて話をしている、という人が少ないな、という印象を受けたんです。

それで、ドーピングというものに対しての意識というか、関心の低さを感じたんです。日本ではあまりドーピングがニュースになることがありませんので、自然と関心は低くなると思います。でも、いよいよ東京五輪が3年後に迫ってきて、残念ですが、東京五輪でもドーピングの話題は出てくると思うんです。けれどもそのときにドーピングに対する正しい知識とか考え方がもっと世間に広まっていれば、今よりももっとスポーツを楽しめるんじゃないかと思っているんです。

だから、東京五輪までに、日本でもドーピングに対する関心が高まってくれたらいいな、という思いもあって言及させてもらいました。

ーーご自身がドーピングについて考えるようになったのは、いつごろから?

高校生くらいからです。そういう時期からジュニアのトップクラスの合宿に参加すると、ドーピングに対する講習があって、ドーピング問題に触れる機会が多くなっていきました。僕が専門にしている短距離種目では、結構ドーピング違反で処罰を受けた選手もいて、そういうニュースを目にするたびに自分で調べることもありました。そういうことの繰り返しがあって、自分もちゃんとドーピングについて知っておかないといけないな、という意識が芽生えたんだと思います。

ーー今回、選手としては言いにくい話題についてずばっと言及したことは素晴らしいことだったと思います。世の中には、そうやって自分の考えを塩浦選手みたいにずばっと言いたい、という人も多いと思います。塩浦選手は、なぜ積極的に自分の意見をはっきりと言えるようになったんでしょうか。

うーん、僕がそもそもドーピングについて発言したのは、もっとドーピングに対する関心が高まったらいいな、とか、日本のスポーツがもっと良い方向に行けばいいな、とか、僕よりも年下の選手たちがもっと活動しやすい環境を作れたらいいな、という気持ちからです。幸い、僕は今、日本代表選手という立場にあって、発言をしやすい場所にいるので、それも利用してもっと水泳界をよりよくしていけたらいいな、という思いからです。

何も言わなければ、何も起きません。だから批判とか叩かれることもありません。それでも良いと思いますけど、でもやっぱり誰かが何か行動を起こさない限りは、きっと良い方向に物事が動いていかないと思うんです。

僕が現役選手としていられる時間は、東京五輪までのあと3年くらい。その間に、自分ができる範囲で何か変えることができるのであれば、何かあとの世代のためにやれることがあるのであれば、という気持ちで発言しています。

ーー自分の意見を言えるようになったきっかけはあったのでしょうか?

大学の水泳部が、意見の言い合える環境だったということが大きいと思います。ミーティングでも必ず誰かが自分の意見を言う機会があり、自分から何かを発信することもすごく多かったので、今でもあまり抵抗がないんです。

ーーそれでも、批判を受けることもあると思います。社会人の多くはそれを恐れてなかなか意見を言えないんですけど、もし塩浦選手が批判を受けてしまったときは、どうやって受け止めるのですか。

僕が思うのは、何か自分の意見を発信したとしても、それに対して全員の理解を得ることって絶対にありません。だから、たとえば賛同と批判が五分五分だったとしても、それがきっかけで新しい議論ができればいいな、くらいに思っています。

それに批判があったらもちろんへこみますけど、最初から賛同は少ないだろうなって思っておけば、あまり気にすることもないというか、いろんな考え方をする人がいるんだな、くらいに思えるので、そうやってうまく批判ともつきあっていますよ(笑)。



ーーちなみに、その髪形も主張の一環でしょうか?モヒカンにしたきっかけは?

髪型については、よく聞かれますよ(笑)。僕がこの髪型にしたのは、はじめて日本代表になったときですね。

水泳で印象に残るような結果を残すことができれば最高ですけど、初代表でそれは無理だな、と思って。そこで、とにかく名前を覚えてもらいたい、名前を覚えてもらえれば応援してくれる人もふえるかもれないと思ったんです。このことは、もちろん賛否あると思います(笑)。でもまずは、日本代表選手である自分を覚えてもらうことがいちばんだと思ったので、目立つ髪型にしてみたんですよ。

これが思った以上に効果的で(笑)。結構いろんな人に、あのモヒカンの人ね、って言われるようになってしまって……。逆に言えば、実はやめるタイミングを失ってしまったんです、はい(笑)。

ーーモヒカンをやめることを考えてた、と。

本当は、リオデジャネイロ五輪が終わったタイミングで普通の髪型に戻そうと考えていたんですよ。でも、現役を続けるのに何でその髪型を辞めるの?といろんな人たちから言われてしまった。

だったら東京五輪まで、現役でいる以上はこの髪型でいこう、ということで、今もモヒカンのままです(笑)。僕もちょっと悩みどころなんですよ(笑)。でもしょうがないですよね。こんなにモヒカンを続けることになるとは、僕自身も思っていなかったですよ。

東京五輪後は……「北島康介さんに勝つ」!?



ーーあらためて、3年後にせまった東京五輪に向けた抱負を教えてください。

なぜリオデジャネイロ五輪から東京五輪まで選手を続けるかというと、五輪を経験してみて、あらためて出場するだけだと物足りないと感じた、ということがあります。それに、五輪が自国で開催されるチャンスというのは、人生のなかでも1回あるかないかだと思うんです。しかもそれが現役のタイミングで、しかも狙える位置にいるときに来るというのは、もう運命としか言いようがない。幸せなことですし、現役を続けない理由がないですよね。五輪が自国で開催される、というのは、まだ僕は想像もつかないんですけど……。

今年、ハンガリーで行われた世界水泳選手権で、地元の選手が出場するときはすごく会場が盛り上がったんですよね。それを見ていると、東京五輪でもそうなったらいいな、と思いますし、それ以上の盛り上がりを見せられるような大会になったらうれしいな、と。そのなかで、何とかメダルを獲得することが目標です。

五輪には、もうすでに1回出場しているので、2回目は何か歴史に名を残すというか、やっぱりメダルを獲得して、自分の競技人生の締めくくりができたらいいなと思っています。



ーー東京五輪後には、いつの日か現役キャリアを終える日がやってきます。引退後のプランはどんなものを?

今の所属であるイトマン東進で仕事をさせていただけるなら、僕が選手として経験したことはすべて次の世代に伝えていきたい。日本の水泳がもっと強くなってほしいですし、僕自身がイトマンというスイミングクラブのグループで育ったので、イトマンが日本で圧倒的に強いスイミングクラブになったらいいなと思います。それに関われたらうれしいですね。

あとは……水泳界では北島康介さんっていう、圧倒的な実績を持つ方がいらっしゃいます。僕が北島さんみたいに、五輪の金メダルを4個も獲る、ということは現実的ではないですし、もう水泳の世界では北島さんに勝つことができないのかもしれません。でも、ほかの人生で北島さんと勝負できたらいいな、って思うんです。

引退したら、何か水泳とは別の方法で北島さんと勝負して、勝つ方法を見つけてみたいと思っています(笑)。



強い発言をする男。塩浦の一面を切り取ると、確かにそう言える。モヒカンのルックスがそのイメージを助長する。いっぽうで観点を変えれば、こうも言える。「自分自身のことを考えながらも、全体を考えられる20代」。アスリートとして、飛び込み時の足の位置を微調整するなど、成長する姿勢を続ける。いっぽうで全体を見る視野があるから、違った角度からの発言もできる。

ドーピング問題言及は「スポーツ界全体の発展のため」、あるいは「東京五輪でもっと競技を楽しんでもらうため」という。見えるから、言える、というか。長い人生で北島康介さんに「勝つ」ための「別の方法」を本人は口にしなかった。意外とプランは描けているんじゃないか。そんなことも感じた。




<プロフィール>
塩浦慎理(しおうら・しんり)

1991年11月26日生まれ。神奈川県出身。湘南工科大附属高ー中央大法学部卒。イトマン東進所属。2歳から水泳を始める。中学生時代から自由形短距離の選手として頭角を現し、湘南工科大附属高3年生のインターハイで、50m、100m自由形の2冠を達成。さらに1週間後のJOCジュニアオリンピックカップ夏季大会の100m自由形で、高校生としては日本人初となる50秒を切る49秒85(当時の日本高校新記録)を叩き出す。2010年に中央大学に進学後、2年生時にユニバーシアード競技大会で初代表入り。2012年にはロンドン五輪の代表入りが期待されていたが、選考会直前の3月の練習中に左人差し指を骨折。1カ月では感覚が戻ることはなく、残念ながら代表落ち。一時は引退も考えたが、再起を決意。翌年、2013年の第15回世界水泳選手権では、4×100mメドレーリレーのアンカーとして役目を果たし、銅メダルを獲得した。