2005年に全国学生相撲選手権の個人戦で優勝した下田(写真:共同通信社)

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 相撲ブームが沸騰している。「謎のスー女」こと相撲女子の尾崎しのぶ氏が、相撲コラムを週刊ポストで執筆中。今回は前回に引き続き、全国学生相撲選手権で優勝し、幕下十五枚目格付け出しでデビューして全勝優勝しながら、十両に上がれなかった悲運の力士・下田について尾崎氏が綴る。

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「全日本選手権大会ベスト十六、実業団選手権・学生選手権・国体(成人男子A)のいずれかに優勝、あるいは三位以上を二回」をもって有資格としていた幕下最下位格付け出し制度が、二〇〇〇年に廃止された。

 改めて、先に挙げた四大会のうち「いずれかで優勝すれば十五枚目格」、そして「全日本選手権大会で優勝し、さらにもう一つの大会で優勝すれば十枚目格」への付け出しとなる制度が作られた。

 優勝者のみに絞り込み、その代わりに幕下一場所通過にチャレンジする特権を与えるという意味合いの改定(大学に行ったとしてもトップに立った者以外は優遇されないとし、中卒・高卒での入門を促そうとしている、と私は認識していた)であったはずなので、全勝した下田の十両昇進見送りにアマチュア相撲関係者が嘆くのも当然であった。

 翌場所の番付は西筆頭。勝ち越せば十両昇進となるのに、先場所とはうってかわって二勝五敗。ひざを故障していた。幕下の中位では勝ち越すものの一桁では負け越し、それを繰り返し、宇映、若圭将、若圭翔と改名していく。若圭将と名乗ったのはわずか一場所。あまりの早さに「申請の時に書き間違えたとか?」とつっこんでしまったが、藁にもすがる思いだったのだろう。

 懐にもぐる取り口で首を痛め三段目に転落。その頃同じ追手風部屋に日大の七年後輩にあたる遠藤が入門。川端(大翔丸)・安彦(剣翔)・岩崎(翔猿)など日大の後輩、大栄翔や大翔鵬など平成生まれがグングン伸びていく追手風部屋。若者たちがまとう紋付きや大銀杏など関取の象徴は誰よりも早く下田が手にするはずだった。

 風呂で関取の背中を流していると読んで、追手風部屋の関取たちを見かけては「よくも下田先輩に」と、番付一枚違えば虫けら同然の世界だから当然なのにお門違いに思ったりもした。

 安彦が幕下五枚目以内で勝ち越しを続けるも十両昇進が決まらなかった二〇一五年、相撲雑誌は「番付運の無さに泣いた」と記事にした。私は複雑な気持ちになった。不運さでは負けない兄弟子がそこにいる。下田のくじけなさを見習い……いや、違う方向を見たほうがいい。

 だから首の故障で三場所連続全休し、初土俵から二場所目の自己最高位・幕下西筆頭から約二百二十枚落ち東序二段五七枚目となっていた二〇一六年三月場所限りで引退した時には、正直ホッとした。「若圭翔」の名が書いてあるだろう番付表の下の方を見ないように気を付けることも、下田への思いがねじれて遠藤らに腹を立てることももうない。

 幕下付け出し資格の有効期限は、大会で優勝した日から一年間。資格を得たものの大学卒業を優先したため失効し前相撲からスタートした嘉風(三年生時にアマチュア横綱)や常幸龍(二年生時に学生横綱)などは、しっかり実力を発揮し関取になった。

 それに照らし合わせると、必ずしも前年の優勝だけで計れるものでもないとも考えられ、下田の力の見せどころは幕下筆頭だった翌場所で全勝でなくていいからせめて四勝することだった。私は「結局弱かった」と吐き捨てることはできない。大相撲の奥深さ(訳のわからなさ、残酷さも含む)を教えてくれた大事な人だ、という思いが大きい。

 しばらくして、十一年前に自身が優勝した大会で審判を務めた、と毎日新聞に語っていた。ちゃんこ番で鍛えた腕で毎朝弁当を作って勤務先に持っていっている、とも。料理が身に付いたのは相撲界で過ごした十年のおかげ、と感謝している様子がうかがえる。苦しみを経験し大人になった前向きな下田の人生には、まだ使っていない幸運の貯金がたんまりある。

※週刊ポスト2017年11月24日号