移送のため福岡空港署に到着した石橋和歩容疑者=10日午後4時15分(写真:共同)

今年6月、東名高速道路において、追い越し車線に停止した車にトラックなどが追突し、夫婦2人が死亡した事故について、警察は前方に割り込んで事故を誘発させたなどとして福岡県に住む石橋和歩容疑者(25)を逮捕しました。

亡くなったのは、静岡市の萩山嘉久さんと妻の友香さん。萩山さん夫婦と石橋容疑者は、直前に近くのパーキングエリアでトラブルになり、石橋容疑者が夫婦の車を追いかけて高速道路の追い越し車線に無理やり停止させていたようです。そこに大型トラックが追突。夫婦2人が死亡し、娘2人が軽傷を負いました。

法律上どんな罰や責任を負うのか

石橋容疑者は、法律上どんな罰や責任を負うことになるのでしょうか。刑事裁判では証拠に基づいて有罪を宣告されるまでは、被告人は無罪と推定されるべきだという「推定無罪」の原則があることを断りつつ、「仮にわざと追い越し車線に追い込んで停車させる行為をした場合、どのような罪責を負うか」という点を考えてみます。

被害者が亡くなっているため、事情について語れるのは事件の容疑者、あるいは被害者の車に同乗していた娘たちだけです。双方の言い分、トラブル発生時点の経緯に加え、自動車の動き、停車に至る経緯(停車するよりなかったのか。他の車線への変更は不可能だったのか)など、現時点ではいずれとも判断しがたいことが前提です。

今回の逮捕容疑は「過失運転致死傷罪」(7年以下の懲役または禁錮もしくは100万円以下の罰金)です。「高速道路の追い越し車線上で自動車を止めさせた行為」を「過失」として見たものといえるでしょう。

しかしながら、筆者の周囲も含めて「『高速道路の追い越し車線で止まる』という行為は端的に高確率で死傷事故につながる。あまりに軽いのではないか」という意見が散見されます。

過失とは「前方をよく見ていなかった」とか「スピードを出し過ぎた」というようなことが通常ではないかと考えると、「わざと路肩に止めさせた」行為がそこに含まれることにも疑問の余地があります。推定無罪の制度下でこうした有罪前提の議論をすること自体に問題はあるのですが、「なぜ『軽すぎる』という意見が出てくるのか」には興味深い点があります。ほかにどんな罪が考えられるのでしょうか。

妨害運転致死傷罪と「故意」「過失」

本件、厳しく罰するとしてまず思いつくのは「危険運転致死傷罪」(死亡事故で1年以上20年以下の懲役、負傷事故で15年以下の懲役)ないし「妨害運転致死傷罪」でしょう。

2013年の法改正で制定された「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」第2条の条文は下記のような行為を対象としています。

(1)アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させること

(2)その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで四輪以上の自動車を走行させ、よって人を死傷させること

(3)人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で四輪以上の自動車を運転し、よって人を死傷させること

(4)赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で四輪以上の自動車を運転し、よって人を死傷させること

(5)通行禁止道路を進行し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転すること

まったく局面の違う(1)(2)(4)(5)について本件での適用は難しいでしょう。しかしまさに「通行を邪魔した」ということであれば、(3)の検討の余地があるのではないでしょうか。しかし本条が定められたのは、衝突を避けるための回避行為などについては重大な事故が発生しやすいことからです。

本件は止まって、話をしているところにトラックが突っ込んだ事故であって、直接妨害行為から事故が発生しているわけではありません。急に前方で停止した男性の車を避けようとして事故に遭った場合はともかく、いったん停車して車から降りた事案については、本来本条が予定していた事案ではないといえそうです。やはり、「過失致死傷」のほうが条文の予定している事案に近いのでしょうか。何か釈然としない方がいるかもしれません。

実はここで多くの人が引っかかるのは「過失」なのか「故意」なのか、という刑事責任を問うかなり根本的な問題です。

故意とは「罪を犯す意思」(刑法38条)を指すのですが、乱暴に言えば「わざとやった」ということです。

対して過失とは「注意義務に違反する不注意な消極的反規範的人格態度」などとされますが、乱暴に言えば「うっかりやってしまった」というようにとらえられています。

実は故意の要素については分析していくと認容が必要なのか不要なのか、また過失の要素について「結果予見義務違反が本質か」「結果回避義務違反が本質か」といった学説の対立があります。ただ本記事は、法廷において彼がいかなる罪責を負うかではなく、「なぜ多くの人が割り切れない部分を感じるのか」の分析を主眼としているので詳細な説対立には踏み込みません。

端的に申し上げると、ほとんどの人の違和感は、「これって『うっかり』じゃなくて『わざと』なんじゃないの?」という点にあるのではないでしょうか。

見落としていたり、スピードを出し過ぎてしまったという無意識の場合と異なり、本件は「車を止めさせる」という明確な意思を持った行為なので、「過失」に見えづらいのです。過失と考える場合には、「そんな危険なところにうっかり人の車を停車させた」というようなところをとらえることになるのですが、それはちょっと立論がテクニカルに過ぎ、むしろ「危険な割り込みをした」ところ「そこから停車というワンクッションが入って大事故が起きた」という印象のほうが強いといえます。

「うっかり」と「わざと」は明確に分かれてない

こうしてみると、人間の「うっかり」と「わざと」の間は明確に分かれているわけではなく、どれが「1つの行為の流れ」で「どこで行為が途切れているのか」という点にもあいまいな線しかないということがわかってきます。

そもそも、この危険運転致死傷という条文が出来上がった経緯もそうした「すきま」の事件が原因でした。大きな引き金になったと言われる事件は、1999年に飲酒運転のトラックが乗用車に追突し、乗用車に乗っていた幼児2人が焼死した事件や、2000年に飲酒運転・無免許運転で検問から猛スピードで逃亡中の乗用車が歩道に乗り上げ、歩行中の大学生2人を死亡させた交通事故などです。

多量の飲酒をして自動車に乗るなど、事前に明らかに意図的な行為がある場合、これを「うっかり」でとらえ、軽い処罰をすることはあまりに不当と考えた結果、法改正が行われ、重い責任を問うものとしたわけです。ワンクッション前の意図的な行為をとらえるという趣旨では、今回の事件もその延長線上にあるような性質は感じます。

ただ、立法担当者たちが苦心してこの条文で広げた網も、本事案そのものにはわずかに届いていないように感じます。罪刑法定主義の観点から本来の条文の想定より適用を広げることはやはり認めるべきではありません。微妙なところですが妨害運転致死傷は認められないと考えるべきでしょう。むしろ刑法208条の2を改正して、こうした事案に対応できるようにする、ということが検討されるべきと思われます。

殺人罪(死刑ないし5年以上の懲役)の適用はありうるのでしょうか。殺人罪を問うためには人を殺したことが必要ですが、「人を殺した」と言えるのかが問題になります。

本件で言えば「自動車を高速道路の追い越し車線に停車させる行為」が殺人の実行行為に当たりましょうか。もちろん、因果の流れを見ると、その結果人が死んでいるわけですが、通常それをすると死ぬ因果関係があるような行為でなければ殺人とは認められません。

なんとなく車を停車させる行為から死につながる連想はできず、認められないようにも思います。しかしながら、少し事例を変えて「電車の踏切で前を塞いだまま後続車両を停車させ、降りてきた2人が電車に跳ねられて死亡した」という事案だったらどうでしょうか。踏切で前を塞がれてしまうことは、タイミング次第ではほぼ死を意味するようにも感じられ、「殺人」という単語がリアリティを持ってきます。

高速道路の追い越し車線の場合はどうなのでしょうか。私は停車位置、降りたときの立ち位置次第では踏切と比肩すべき相当な死の危険があると考えます。少なくとも、家族と一緒に高速道路の追い越し車線で停車して車から降りることと、自分の全財産を失うことのどちらかを選ばなければならなければ、後者を選ぶでしょう。前者は命そのものを失ってしまうリスクが限りなく高いからです。

加えて本件については、トラックの運転手の過失も当然問題にはなります。現場の見通しにもよりますが、東名下りの大井町付近であればそれほどカーブがあるわけでもなく、実をいうと「トラックが法定速度を超えており、ドライバーが法定速度を順守していればブレーキが間に合ったかもしれない」という可能性があるかもしれません。

一方で、高速道路の追い越し車線では20キロメートル以上の速度違反をしている車両も多いというのが現実にあります(私はそう思います)。それを織り込むとさらに「停車させる」行為と死の結果は近づきます。状況次第では、車を停車させる行為が殺人行為に当たるというケースはありうる気がします。

「死ぬかもしれない」と予見できていたか

このとき、容疑者が「死ぬかもしれない」という点まで具体的に予見できていたのか、という点がさらに問題があります。読者の皆さんは「死の危険があることは当たり前だろう」という感想を持たれるかもしれません。しかし、事件現場で感情的になっている当事者にとって、どこまで結果を予見して行動できていたか、どこまで合理的に判断ができていたかというのは容易に判断できる問題ではありません。仮に客観的な行為が認められるケースでも殺意がないという可能性も十分考えられます。

そうした容疑者側の主観についての危惧感もあってでしょうか、警察関係者からの情報として、「1カ月前にも3台に走行妨害をしている」といったニュースが伝えられています。こうした観測気球を上げることで、男性の過去の行為についての証拠があぶりだされる効果を狙っているのかもしれませんが、この過去の情報の正当性については担保がありません。

それが事案の重要な側面を伝える情報であったとしても、適正な手続きによらず「リーク」という形でマスコミに流され、世論が誘導されるあり方については疑問があります。

ただ、実際に検察官が妨害運転致死や殺人で本件を起訴する可能性はあまり高くないと考えます。「無罪」や「認定落ち」(犯罪の一部が認められず、起訴したものと別の罪について認められること)の判決が出ることは検察官にとって組織内で大きな仕事上の失敗と見なされます。よほど社会に警鐘を鳴らす必要がある場合を除けば、あえて適用が微妙な妨害運転致死傷や殺人で本件を起訴するのは相当難しいといえます。

法律は緻密にできているようで、やはり立法者の想定外の行為の部分については穴がつねにあります。また、社会は刻々と移り変わり、想定しなかったような事態も次々と発生してきます。そうした状況についてどのような責任が適切か、冷静に議論と検討を続け、法や判例をアップデートしていくことがフェアな世の中の基礎になると考えます。