「モバイルPASMO」実現が難しい本当の理由:モバイル決済最前線
「モバイルPASMO」の商標出願が話題となっている。「商標出願2107-122035」として公開されている情報によれば、「腕時計型携帯情報端末、スマートフォン」などを対象としたもので、いわゆる「モバイルSuica」のようなものとして「おサイフケータイ」や「Apple Pay」として利用可能なものが想定される。

「交通系ICカードは相互乗り入れしているんだし、同じ機能だったらモバイルSuicaだけでいいんじゃないの?」と言われる方もいるかもしれないが、「Suicaで定期券を発行するには通勤区間にJR東日本の路線を挟む必要がある」という制限があり、主に首都圏の私鉄沿線の通勤・通学客にとっては「モバイルSuicaを定期で利用できない」という問題が出てくる。そのため、おサイフケータイやiPhoneを持っていても、通勤用には別途定期用のICカードを持っていたり、あるいはモバイルSuicaを必要としないようオートチャージを組み合わせて利用するのが一般的だ。

まだ「商標出願」というニュースが駆け巡っただけにもかかわらず、「モバイルPASMO」にこれだけ注目が集まったのは、それだけモバイルSuicaだけでは満足できないユーザーの数がそれなりにいることの証左だろう。

ただ残念ながら、PASMO側では少なくとも現状で「モバイルPASMO」提供に向けて何も進展していないことを公表している。PASMOは鉄道やバスなど主要各社らが参加するPASMO協議会によって運営されているが、同協議会で2018年7月までの年間広報事務局を担当する西武鉄道に質問を投げてみたところ、下記のような返事が返ってきた。


念のため、PASMOを実際に運用する株式会社パスモの方にも質問してみたが、やはり「現状で何も決まっていない状態」との回答で、商標出願のみが何らかの理由で先行したのが実情のようだ。筆者が情報源から把握している範囲では、「モバイルPASMO」が提供に二の足を踏んでいる理由がいくつか存在している。本稿では、これらを順番に整理していこう。

技術的ハードル、「モバイルSuica」とのバッティング

まず最初にハードルとなるのが、PASMOSuicaを含む交通系ICカードの仕様に起因する部分だ。一般に、日本国内で流通している交通系ICカードの多くは「日本鉄道サイバネティクス協議会(通称:サイバネ協会)」の仕様に準拠しており、ICOCAやTOICAなど違う種類のカードであっても、基本的に同じ仕様でカード内の情報が記述されている。

Suicaの例でいえば、ICカード内のFeliCaチップには「FeliCaポケット」に利用される共通領域のほか、実際にSuicaの処理を行うセキュア領域(専用領域)の2つの領域が存在している。このSuicaのセキュア領域へのアクセスには「0003」のシステムコードが割り当てられているが、他のサイバネ方式のICカードにおいても同じ「0003」のシステムコードが用いられる。つまり、SuicaPASMOを単一のICカードとして利用する場合には問題ないが、同じFeliCaチップ内に両規格のアプリケーション(つまりSuicaPASMO)を共存させるのは難しい。

次にモバイル対応へ話を移す。おサイフケータイの例でいえば、最初にモバイルSuicaを端末に登録する際に、内蔵のFeliCaセキュアエレメント内に大量のサイバネ領域(環境によるが容量の半分程度といわれる)を確保し、モバイルSuicaを動作させている。前述のように、サイバネ領域として確保されたモバイルSuicaは他の交通系ICカードと同じシステムコードを共有しており、モバイルSuicaが導入された時点で、例えば「モバイルPASMO」が共存する余地がなくなる。

つまり、仮に「モバイルPASMO」が存在する場合、それはモバイルSuicaとの排他であり、他の交通系ICカードとの関係も同様だ。もともとSuicaの仕様をベースに全国展開を行い、モバイル対応など今日の複数サービス混在環境を想定していなかった結果ともいえるが、これがモバイルPASMO導入の最初のハードルとなっている。

この問題の解決方法は現状1つで、「携帯端末への交通系ICカードサービスを登録時にどのサービスを利用するかを最初に選ばせる」しかない。少しわかりにくいかもしれないが、オンラインチャージや切符購入に使う「モバイルSuica」や「モバイルPASMO」のアプリは共存可能だ。こちらを仮に「フロントエンド」と呼ぶ。

一方で、電子マネーの根幹を司るFeliCa SE内部のセキュア領域のデータ(アプリケーション)は異なる交通系ICカードサービスで共有領域に存在しており、互いに共存できない。そのため、モバイルSuicaまたはモバイルPASMO導入時にこのFeliCa SE内のサイバネ領域の利用状況をチェックし、すでに他のサービスに利用されている場合には警告を出したのちに削除するか、操作をキャンセルするしかないというわけだ。


「予算」と「PASMO協議会」の壁


次のハードルが予算の問題だ。以前に「なぜ券売機や精算機でのモバイル端末でのチャージや精算が行えないのか」という質問をPASMOにしたことがあるが、その回答は「モバイル対応のための専用のシステムを導入する必要がある」というものだった。つまり、投資に見合っただけのリターンが期待できるかわからないという理由だが、これがモバイルPASMO導入における課題を端的に示している。

2017年3月時点でのJR東日本のSuica発行枚数が6398万枚で、モバイルSuica会員数が444万だ。現在ではApple Payの国内参入で若干モバイル比率が高まっていると思われるが、この時点でのモバイル比率はわずか7%で、お世辞にも高いとは言いがたい。

少し前のデータだが、2014年時点でのPASMO発行枚数が2000万枚で、本稿執筆時点においても2500万枚程度ではないかと推察する。仮にSuicaほどのモバイル利用率を想定すれば、175万ユーザーということになる。このユーザー数を対象に「モバイルアプリやバックエンドシステムの開発と運用」を行うわけで、仮にユーザーからの要望があったとして、これが損益分岐点から考えてどうなのかという話になる。アプリもAndroid向けのおサイフケータイだけでなく、現在ではiPhone対応も考慮しなければいけない。

「1から開発するとペイしない」ということになれば、次に考えられるのは「JR東日本への委託」だ。実質的に同じ仕組みを利用するため、PASMO協議会参加各社の要望の一部を反映させた形でアプリやサービスを開発し、これを「モバイルPASMO」として提供する。加盟全社の要望を組み込むのはほぼ不可能なため、折衷案で最大公約数的なものとなるが、少なくとも最低要件である「定期券」の発行などは可能だろう。ここで問題となるのがやはり「予算」で、委託費がどの程度になるのかという点だ。

ある情報筋の話によれば、PASMO側がJR東日本に同様の提案を行ったところ、PASMO全体ではなく加盟各社ごとに億単位の予算を提示され、導入に二の足を踏んでいるという。もともとPASMO協議会は加盟各社の合議制であり、体力に余裕がある会社がある一方で、そうでない会社もあるなど、意見を一元的にまとめるのが難しい背景がある。

とはいえ、PASMO側も何らかの検討を進めているのは確かなようだ。詳細については改めて解説するが、やはり2020年の東京五輪のタイミングを1つのめどに水面下でおサイフケータイを巡る何らかの動きが進んでおり、PASMOもこれに乗る算段をつけているという話も聞く。いずれにせよ、今年2017年ないし来年2018年のタイミングで「モバイルPASMO」のようなサービスがスタートするのはまだ難しいとみられるが、沿線の方々は落胆せず、もう少しだけ成り行きを見守ってほしい。

[Image : YouTube(PASMO)]