歴代首相夫人の中で最も猛妻中の猛妻、「最強の猛妻」と政界関係者の誰もが異論なしが、この三木武夫の妻・睦子である。政治も読める一方、賢夫人としてその度胸、豪放磊落ぶりも群を抜いている。
 「もし、睦子夫人がオチンチンをつけて生まれていたら、間違いなく三木より早く総理のイスに就いていた」と、これは三木夫妻をよく知る人たちの圧倒的な見方でもあったのだ。

 対して、一方の三木は、一貫して「政治改革」「党近代化」などの旗を掲げ続けてきた「議会の子」である。昭和62年(1987年)4月、じつに代議士生活50年を迎え、衆議院での表彰を受けている。これは明治、大正、昭和を通じ、政党政治家として名を残す「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂)の63年の代議士歴に続く記録である。権勢をほしいままにした田中角栄元首相に「全権批判」の声を上げ続け、その田中が金脈・女性問題を引き金に退陣したあと、自民党内の混乱収拾のため、当時、副総裁だった椎名悦三郎による「裁定」で首相の座を手にしている。
 しかし、明治大学を卒業したあとは生家が肥料商で裕福、一人息子ときたから就職せずで欧米遊学と“お坊っちゃま”生活ざんまいだった。実社会で汗を流すことなく、30歳になったとき、無所属、無名、地盤すら固まっていなかったが衆議院議員出馬、初当選を飾っている。無謀な挑戦だったが、時に朝日新聞社が純国産の社機として「神風」号をロンドンに飛ばして大きな話題となり、三木は「神風候補」とのキャッチフレーズを獲得、これが幸いしての徳島全県区3位で初当選だったのである。

 一方、甘やかされて育ち、実社会でもまれた経験なしのこの政治一筋「議会の子」は、なるほど日常生活はまるで“ダメ男”だった。要するに、なんとも“手のかかる男”だったのである。
 筆者が睦子夫人から、直接、聞いた話、あるいは三木の側近議員、政治部記者などの証言から、次のようなエピソードがゴロゴロ出てきたものである。
 「三木の好物は殻付きの落花生とミカンだったが、落花生は殻といわず皮といわず落としまくる。ために、ズボンの膝あたりはいつもゴミだらけにしていた。ミカンは放っておけば、一度に10個、20個とたいらげてしまうのだが、皮は放ったらかし、加えて、口に残った袋を片っ端からペッ、ペッとやるから、テーブルの上はいつも戦場のごとし」
 「チョッキのボタンは、段違いにかけることも少なくなかった。一人娘の紀世子が『パパが一番上のを間違えたからよ』と指摘すると、『一つしか間違わなかったのに、なぜ全部違ってしまったのか』と嘆いた」
 「朝、睦子夫人が靴下を差し出す。すると三木は『なんだ。この靴下はおかしいんじゃないか』とクビをかしげた。カカトのほうを、上にはいてしまったのだった」
 「三木の“電話魔”ぶりは有名だったが、番号を覚えていたのは自分の家くらいのものだった。ために、三木が電話をかけるときは必ず睦子夫人が大型ノートの電話番号控えを持って来、夫人自らダイヤルを回すのが“役目”だった。その間、三木は腕組みをしながら、当然といった顔をしている。色紙などの揮毫も同様で、墨は決して自分でするものではないと思い込んでいた」
 ついには、どう接したら子供が喜ぶかが分からず、娘の紀世子が20歳になったとき、「相撲を取ろうか」とやって逃げられたこともあったのである。

 かく、日常生活は不器用そのもの、“ダメ男”丸出しだっただけに、睦子がタイヘンだったことは言うまでもなかった。どんな女性だったのか。三木の私設秘書を長く務め、夫人の姿を知る元産経新聞政治部記者だった荻野明己が、実像をこう語ってくれたことがある。