シリーズ「もう一度投げたかった」──荒木大輔(前編)

 2016年7月に1786日ぶりの勝利を挙げた由規(東京ヤクルトスワローズ)が、今シーズンは3勝をマーク、150キロを超える快速球も取り戻した。そのヤクルトスワローズには、いまから約25年前にも、手術→長期間のリハビリを経て復活を果たした投手──甲子園のスターからドラフト1位指名で入団した荒木大輔がいた。  

 プロ5年目の1987年に10勝を挙げ、スワローズの若きエースとして飛躍が期待された矢先の1988年シーズン半ば、右ひじの痛みに襲われる。その後、トミー・ジョン手術を受け、マウンドに上がるまで実に4年、1541日の月日を費やした。1992年9月に感動的な復活を果たし、のちにチームのリーグ優勝、翌年の日本一に貢献した荒木大輔が「手術とリハビリの日々」を語る。


1982年、ヤクルトに入団した当時の荒木大輔

──早稲田実業のエースとして5季連続甲子園出場を果たした荒木大輔さんですが、プロ入りに際しては、自信がなかったそうですね。

「はい。1982年夏の準々決勝で『やまびこ打線』と恐れられた池田高校(徳島)に2対14で敗れました。高校最後の試合ですべてを粉砕されたこともあって、自分がプロで通用するという自信は持てませんでした」

──しかし、スワローズから1982年にドラフト1位指名を受け入団。プロ1年目の1983年に初勝利を挙げ、3年目の1985年はシーズン後半から先発ローテーションに入り、6勝をマークしました。

「最初の1、2年目は、『どうなるかな?』と自分でも不安でした。1985年は、当時の土橋正幸監督に『二軍で鍛え直してこい。死に物狂いで練習して、夏場以降に上がってこい』と言われたんです。それまでも練習はしっかりやっていたのですが、このときに生まれ変わったつもりで鍛えたことが、その後の自信になりましたね」

──1986年には22試合に先発して8勝13敗。1987年は前年に続いて開幕投手を務め、25試合に先発して10勝9敗という成績を残しました。ところが、1988年のシーズン中盤に、右ひじを痛めて戦列からの離脱を余儀なくされてしまいます。

「ひじが痛かったのは高校時代からです。1年生の夏の大会が終わってから秋にかけて、すでに疲労性の痛みがありました。でも、投げられる状態だったので、間隔を空けて投げるようにしていました。おそらく、あの程度の痛みは、ほとんどのピッチャーが感じていたと思います。間隔さえ空ければ、まったく問題はありません。

 プロに入ってからも同じような状態が続きました。いまと違って、投手の球数制限などなく、二軍の試合でも100球以上投げることは当たり前。中3日での登板も珍しくなかった。当初は私のひじも、そういうことに耐えられる状態でした。たまに、早い回にKOされたら『明日も投げろ』と言われることもありましたが……」

──それが、1988年シーズン途中、8月にアメリカでトミー・ジョン手術(ひじの側副靭帯再建手術)を受けることになったのはなぜですか。

「先発投手は登板した翌日に肩やひじを休め、その次の日にキャッチボールをするのですが、1988年にひじを痛めたあとは、それができませんでした。ローテーションを1回飛ばしてもらっても、まだ投げられない。自分では、腱が切れたとか痛めたという感覚はありません。

 それでも、なかなか張りがとれないため国内で診察を受けましたが、『これは疲労性だから』と言われてしまう。1カ月たっても、2カ月たっても元に戻らないので、アメリカのフランク・ジョーブ博士のところに行ったのです。すると、『もう腱がないよ。でも、手術すれば治るから』と言われて、すぐに手術することに決めました」

──その頃、日本のプロ野球でその再建手術に成功した選手は2人しかいませんでした(いずれもロッテオリオンズの投手だった三井雅晴と村田兆治)。手術への不安や迷いはありませんでしたか。

「私は『手術します』と即答しました。同行したトレーナーには『じっくり考えろ』と言われましたが、『いくら考えても同じです。投げられないなら野球をやめるしかありません。やめるか手術するかのどちらかなら、手術を選びます』と。村田兆治さんの成功例もあったので、きっと復帰できると思いました」

──とはいえ、当時はまだ「ピッチャーが体にメスを入れるなんて、とんでもない」と言われた時代ですよね。

「そうですね。でも、私には迷う意味がわからなかった。治すためにはその方法しかないなら、手術するしかありません。違うドクターに診てもらって別の選択肢が出てくるのなら、じっくり考えたでしょうけど。日本のスポーツ医療はまだまだでしたから、世界一の名医と言われたジョーブ博士にお願いしようと思いました。手術をすること自体に不安もありませんでしたし、ナーバスになることもなかったです」

──手術やリハビリの費用は相当かかったでしょうね。

「アメリカでは保険が適用されませんからね。ヤクルト球団には本当に感謝しています。合計3度も手術を受け、そのたびにリハビリのために1カ月くらいアメリカに滞在しました」

──当時は、まだリハビリの方法も確立されていなかったのでは。

「いまのように、故障者にコンディショニングコーチがつくことはなかったので、全部自分でやりました。1キロの重さのダンベルを使って10回、それを3セットとか。でも、重さも回数も物足りなくて、不安のあまり、どうしても回数を増やしてしまいました。ジョーブさんには『痛かったらやめなさい』とは言われていたのですが……」

──誰か制止する人がいないとダメですね。

「そうなんです。『痛くなったら、そこでやめろ』と注意されていましたが、痛みが出ないので回数を増やして続けていると、腫れが出てきてしまって……そのときにはもう手遅れです。ジョーブさんは顔を真っ赤にして怒りましたね。それで、『とんでもないことをしてしまったんだ』と気づきました。3回目の手術をしたあとは、専属のトレーナーをつけてもらいました」

──荒木さんの手術とリハビリを一緒に体験したことで、球団もいろいろと学んだわけですね。

「最初はみんな手探りでしたが、いまでは多くの投手が復帰を果たしていますよね」

──3回の手術を受けた荒木さんは、一軍で投げられるようになるまで4年もかかりました。

「途中で椎間板ヘルニアの手術をしたこともあって、思った以上に時間がかかりました。リハビリをしているとき、『荒木、引退か』という記事が出たこともありました。でも、二軍で元気にプレーしている選手より、どう見ても私のほうが野球はうまい。それなのに、そんなふうに書かれて『なんでオレがやめなきゃいけないんだ』と思いましたよ。  

 リハビリを続けるうちに、そんな気持ちの強さが出てきましたね。高校時代になかったものが芽生えてきました。単調なリハビリが続くことへのストレスもあったでしょう。マスコミへの反発心もありました」

──よく「トミー・ジョン手術をすれば球速が伸びる」と言われますが、荒木さんの場合はいかがでしたか?

「ケガをするまでは試合試合の毎日だったので、鍛え方が不足していた部分がありました。でも、リハビリ中には登板がないので、いくらでも鍛えることができます。ランニングとウェイトトレーニングの量が増えたことで、いままでにない体ができあがりました」

 1992年、いよいよ荒木大輔は実戦のマウンドへと戻ってきた──。

(つづく)

■荒木大輔(あらき だいすけ)

1964年、東京都生まれ。1980年、早稲田実業1年の夏に甲子園出場。以降、出場できるすべての大会で甲子園のマウンドに上がり、12勝5敗という成績を残した。1982年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団。プロ通算成績は、39 勝49敗 2セーブ。横浜ベイスターズに移籍して現役引退後、西武ライオンズ、スワローズで投手コーチをつとめた。現在は野球解説者として活躍中。

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