新たな「吉田松陰」像とは?(写真 : ys_611 / PIXTA)

吉田松陰といえば、長州の志士たちを育てた優れた教育者というイメージが強いであろう。彼の教え子たちは明治維新の立役者となり、吉田松陰は早世の天才的指導者として称揚されてきた。
しかし、それは、あくまで「薩長史観」(前回「なぜいま、反『薩長史観』本がブームなのか」参照)がつくりあげたイメージであり、客観的に見れば「教育者」とはいいがたい実像が浮かび上がってくるという。こうした新たな「吉田松陰」像について、このたび『薩長史観の正体』を上梓した武田鏡村氏に解説してもらった。

吉田松陰はなぜ顕彰されてきたのか


吉田松陰は「明治維新を成しとげた長州の志士たちを育てた最高の教育者である」というのが、明治になってからつくられた評価である。

松陰が主宰する松下村塾から久坂玄瑞(げんずい)、高杉晋作(しんさく)、桂小五郎(木戸孝允:たかよし)、伊藤俊輔(博文:ひろぶみ)、山県狂助(有朋:ありとも)、品川弥二郎ら明治維新で活躍する人物を輩出しているからである。

そもそも松陰という人物は、誠(まこと)の心をもってすれば達成できないことはないという「至誠(しせい)にして通じざるはなし」という言行から、純粋で真っすぐな人格者であると見られている。東京には松陰神社が建立され、その「至誠」が讃えられている。

だが、見方を変えれば、明治の元勲となる木戸や伊藤、山県は、師匠となる松陰を顕彰することで、自分たちの業績を誇り、血にまみれた不名誉な行実を隠蔽したとも言えるのである。

『薩長史観の正体』でも触れているが、松陰自身は「至誠」と言いながら、その思想と行動は変節と激情に満ちていた。

松陰の攘夷論と尊皇論は水戸学からの借り物であるが、攘夷と言いながらロシア船やアメリカ船での密航を企てていたり、開国を決めた幕府の老中の暗殺を計画したりして、その言動には一貫性が見られない。

しかも門弟から血盟書をとって武装蜂起を企てたばかりか、具体的に武器弾薬の調達も図っている。

この武装蜂起の発想が、後に、松陰が門弟第一と評価する久坂玄瑞が長州藩を使嗾(しそう)して、京都の御所を襲撃し天皇に銃砲を向ける「禁門(きんもん)の変」につながる。松陰の尊皇主義は、建て前のものでしかなかったと言われても仕方ないであろう。

歴史的事実を見ていけば、松陰は教育者と言うよりは、テロリスト集団を育成した扇動者であったと言えるのではないだろうか。

テロリストを育てた扇動者としての一面

松陰は、武装蜂起を躊躇(ちゅうちょ)する高杉晋作ら門弟に対して、憤りの手紙を書いている。

「吾(わ)が輩(はい)なければ、この逆焔(ぎゃくえん・幕府への弾劾)千年立ってもなし。吾が輩あれば、この逆焔はいつもある。忠義というものは、鬼の留守の間に茶にして呑むようなものでなし。……江戸居(い)の諸友、久坂・中谷・高杉なども皆、僕と所見違うなり。その分かれる所は、僕は忠義をする積(つも)り、諸友は功業をなす積り」(「高杉晋作ら宛の書簡」)

幕府への痛烈な批判を起こしたのは、この松陰だ。松陰がいなければ、幕府への弾劾は1000年経ってもなかった――。自分が幕府指弾の先駆者であることを誇り、それは忠義があるからだ、と傲慢とも思われる自己評価をしている。

つまり、門弟を教育するというよりは、自らの考えを絶対視して強引に主張を押そうとする独善者という側面を垣間見せているのだ。

それは、ある意味では狂気の叫びにも似ている。この叫びは、やがて松下村塾の門下生をなり振り構わない暗殺と殺戮の狂気に駆り立てていく。

松陰は「高潔な尊敬すべき教育者」というよりは、「暴挙をそそのかす扇動者」と言えるのではないか。

事実、初代の内閣総理大臣となる伊藤博文は、国学者の塙(はなわ)次郎ほか1人を殺害している暗殺者であった。

さらに高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らはイギリス公使館を焼き討ちにして気炎を上げている。今でいえば、無謀な外国人テロリストのようなものであろう。

「薩長史観」では、こうした暗殺や襲撃については口をつぐんでいるが、彼らは明らかに犯罪者であり、テロリストだったのである。

もはや吉田松陰は、教育者というよりは、激情を門弟たちに燃え移らせる暴力の扇動家であったと言えるのではないか。

今日風にいえば、イスラム過激主義者のテロをあおるアジテーターのようなものであったと言うことができようか。

アジア侵略を唱えた侵略主義者

しかも松陰は、アジア侵略を正当化させるような提言まで行っている。

「琉球に諭し……朝鮮を責めて質を納れ貢(みつぎ)を奉る……。北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、慚(ざん)に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉(へんぎょ・辺境)を守らば、則(すなわ)ち善く国を保つと謂(い)うべし」(『幽囚録』)

これは、後の日本が行ったアジア侵略そのものである。松陰は日本を侵略行為に駆り立てたアジテーターでもあったのだ。そして、その理念は、薩長政府に引き継がれたと言える。

こうした吉田松陰の実像は、「薩長史観」によって見事なまでに隠蔽されて、ただ明治維新を成し遂げる草莽(そうもう)の志士たちの精神を涵養した教育者であるとされている。

だが真相は、数々の暗殺や武力的な襲撃をそそのかしてテロ行為を正当化し、のちの日本を侵略戦争に駆り立てた扇動家であったのである。

前回述べように、最近の反「薩長史観」本ブームは、「薩長史観」によって隠蔽され続けてきた真相に迫ることで、明治から現在に至るまでの欺瞞に満ちた歴史的な呪縛を解き放つものでもある。

なかでも「大教育者・吉田松陰」は、薩長史観により偽装された数々の人物像の象徴と言えると思う。