仕事仲間とのコミュニケーションではできるだけ衝突は避けたいもの。

でも、時には自分の意思を面と向かって相手に伝えなければいけない場面にも遭遇します。

精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、自分の意見を伝える場合は「2割の余地を残しておく」と人間関係がうまくいくのだそう。

その理由とは?

自分の意見には「2割の余地」を残して

「人間は遅疑しながら何かするときは、その行為の動機を有り合わせの物に帰するものと見える」森鴎外

ご存じ近代文学を代表する文豪の名作のひとつ、明治43(1910)年に発表された青春小説『青年』の一節です。難渋な言葉使いで一瞬「むむっ」となりますけど、実は込み入った内容ではないと思うんですよね。僕たちがなにか釈然としないことをやる時、あるいはそれを了解しなければならない時というのは、自分の中の「有り合わせの物」、つまり自分がすでに知っている手持ちの知識や情報、経験則の範囲内だけで理解してしまう。ほとんど自動的に、自分の理解のサイズに落とし込んで、なんとなく安易に納得しちゃう、ということかなって。

当たり前といえば当たり前。だけどこれをあえて深掘りすると、なかなか深い教訓を含んでいると思うんですよね。

例えばどんな問題でもいいんですけど、話が非常に込み入ってきた時に、僕たちは自分のサイズを超えて「思考」することが面倒臭いから、つい理解のレベルを「有り合わせの物」に落とし込んじゃうわけです。

政治家の不祥事なんかはフェイクも含めてしょっちゅうニュースになっていますけど、わかりやすい例として、自分がわりと信頼していた政治家に汚職スキャンダルが起こったとしましょうか。

そうすると、だいだい3つくらいの意見が自分の心の中で立ち上がってくると思うんです。僕やったら「名越A」「名越B」「名越C」といった具合に。

「名越A」は、その政治家に対するストレートな失望や疑念といったところでしょうか。そうか、所詮は権力という麻薬におぼれた人物だったのか、といったような。

「名越B」は、もっと同情的な見方。その人はできるだけ公明正大に曇りなくやっているけれども、足を引っ張ろうとする者に針小棒大な情報を流されたか陥れられたのかもしれない、みたいなね。

「名越C」は、その中間。「きっと、どちらでもあるんでしょう」なんていう、ある種諦観的な意見。「人間とはそういうもんだよ。虚々実々だよ」って、言っている自分もいるわけですね。

そこで「あなたの意見はいかがですか?」と聞かれたら、今までの自分の経験則や情報の出処にのっとって、3つの中から「これでいこう」と判断する。

でも僕の場合は、「これでいこう」と決めても、それを100%自分の意見として確定させることはしない。だいたい8割くらいの確定度にしておくんです。

例えばほとんど確信してAを「これだ!」と思っても、やっぱりあとの2割はBとCに足場を残しておく。あるいはAとBとC以外、自分がまったく感知していない領域に答えがあるのかもしれない、という余地を残しておくんですね。

なぜ、そうするのか? といえば、理由は簡単。世の中の仕組みは、ひとりの個人が持っている「有り合わせの物」で正解を出せるほど単純ではないからです。

ものごとの結果は「縁」の重なり

例えば科学では、原因と結果を直結して考えるでしょう。

第14回で三段論法と五段論法の話をしましたけど、合理主義の世の中だと、原因と結果を最短距離で結ぶような思考の傾向が強まっていく。だけど現実の人間社会の中では、それってほとんどアテにならない。「原因・結果論」の正当性は、科学の実験のように、ある限定された理想状態の中でのみ言えることなんですね。

例えば今日、僕は朝早くから腹ペコのまま馴染みの喫茶店に飛び込んで、カレーライスを食べてきました。「腹ペコだから」(原因)→「カレーライスを食べた」(結果)。ただ、ひと口にそうは言っても、その間にはいろんな要素が入り込んでくるやないですか。

ひとつにはその喫茶店に、早朝にもかかわらずカレーが残っていた。ご飯も炊けていた。ということがないと、僕はカレーライスを食べられない。あるいは店長さんが「朝からカレーの用意をすると、店内に匂いがこもりそうだなあ。ありませんって言っとこうかな」なんてイジワルをせずに、明るい気持ちでいてくれたとか(笑)。

そういう、いろんな「縁」が介在してくるんです。原因と結果のあいだに。

これは仏教でいう縁起論ですね。この「縁」って、実は無限に重なって連鎖しているんです。

だからいまの例の話も、どんどん範囲を広げて考えられるんですよ。今日は朝から雨。でも店長が出勤できるくらいの小雨やったから、いつも通り店が開いている、とか。恐ろしい落雷もなく、ちゃんと電気が届いている「縁」とかね。あるいは僕が道を歩いている時に、道行く車の運転手さんたちが安全走行してくれたから、事故を起こさずに店まで来ることができた、とか。

そういうものが全部絡まって、いまここで僕はカレーライスを食べている。

こう考えると、実はこれって奇跡のような運命の賜物なんです。原因と結果という、たった二点をつなぐ因果関係しか僕たちは考えなくなったけど、実はその間に無数の「縁」がある。

つまり歴史っていうものは、「これがあるからこうなる」という前に、たくさんの「縁」というもの、関係性が無数に絡まっている。その「縁」というのは、僕たち個人があずかり知らないところで、言わば宇宙的な広がりや大きさの中で起きているわけですね。

だからビジネスシーン、身近な仕事の現場でも、「原因・結果論」では解せない局面がいっぱい出てくるでしょう。同じ戦略を立てて、同じノウハウを共有して、同じ商品を売っていても、ある営業チームは一日で7個売る。でも別のチームは一週間で1個しか売れないってことが起こってくる。それを単にチームや個人の能力差に還元していいのかはわからない。状況を細かく刻んで見ていけば、必然も偶然も含めて、本当に多種多様な要素が複雑に絡んでいるはずなんです。

「2割の余地」は生き残るための知恵

つまり「2割残しておく」というのは、「有り合わせの物」ではとても対応できない現実の複雑さに対する謙虚さ、戒めの態度でもあります。

そこに、僕には僕のひとつの考え方、大げさにいうと「思想」がある、と思っているんです。

一方ね、清廉潔白に「これだ!」って思うほうに潔く突入していけ、っていう考え方があるじゃないですか。それが「真(まこと)」であり、正義であり、善である。そういう考え方に出会うと、僕は慄く(おののく)ところがあります。怖れを持ちます。

そういう人に対して一定の敬意は抱くけど、正直、心からの愛情や尊敬を抱くのは難しい。それはやっぱり、「縁」というものの本質をご存じないんじゃないかな、とも思ってしまうからなんですよね。

確かに「2割残しておく」っていう態度は、ちょっと「ずるい」匂いがするとは思うんです。僕自身、これをある種言い訳にしているとか、現実のグレーゾーンの中でちょっと汚れちゃっている自分がいるのかな、とも思わなくもないんですね。

清廉潔白な人が、真っ白な木綿のハンカチーフだとしたら、僕の場合はスポット(斑点)ができちゃってるわけ。そこに引け目を感じる部分はある。

だけど、ひとつの結論に向けて怒涛のように突き進む人に対して、ある種のリスペクトはあっても、やっぱりそれに同意することはどうしても良しとしない自分がいるんです。

「ひとつの結論」って、現実のメカニズムからすると、あまりにも単純すぎるんですよ。一見、美しい信念に見えるかもしれないけど、それこそ当人の中の「有り合わせの物」で判断しているのに過ぎないわけで、延長すれば排他性の原因にもなる。他人を味方と敵で分けたり、とかね。

例えば会社の上司で、あんまり自分の意見とか、結論とか、正義とかを信じすぎている人がいたら、それはパワハラの原因にもなりかねない。向こうは「良かれと思って」やっていても、部下にしたら結構な抑圧になる場合があると思うんですね。

もし自分が恩義を感じている人が何でも白黒つけたがるタイプで、こちらの態度を「はっきりしないもの」と責められたとしたら、相手への敬意はちゃんと伝えつつも、それでも自分自身は「保留」の感覚――2割の疑いは捨てずに、柔軟にコミュニケーションしていく。難しいかもしれませんが、そういう態度の自己調整を僕個人としてはオススメします。

それは、権力というものに対してどのように距離を取るか、という問題とつながってきます。例えば会社の中でも「長いものに巻かれろ」っていう同調圧力が起こった時に、表面的にはひとつの態度を選択したとしても、心の中に余地を「2割残しておく」っていうのが、とても大切じゃないかなって。

下賤(げせん)な言い方でいうと、それは長い目で見た時、「生き残っていく」っていうことのかなり重要な知恵になるだろうなって思いますね。