永井秀樹「ヴェルディ再建」への道(1)


ヴェルディ再建のために、日々奔走している永井秀樹

「監督」という仕事の大変さを痛感

 5月6日、東京ヴェルディのグラウンドを半年ぶりに訪ねた。目的は、高円宮杯U-18サッカーリーグ・プリンスリーグ関東の取材だ。その時点で3位のヴェルディユース(勝ち点7/2勝1敗1分)はこの日、無敗で首位の川崎フロンターレU-18(勝ち点10/3勝1分)と対戦することになっていた。

 若き”緑の戦士”を率いる指揮官は、永井秀樹(46歳)。半年前までは、カズ(三浦知良/横浜FC)に次ぐ年長プレーヤーとしてJの舞台でプレーしていた。

 永井は、引退セレモニーでサポーターに誓った「ヴェルディ再建」という目標に向かい具体的に動き始めた。クラブ内ではGM補佐の要職を務める一方で、3年ぶりにプレミアリーグ(※高円宮杯U-18サッカーリーグのトップリーグ)復帰を目指すヴェルディユースの監督として采配をふるっている。

 現役時代の実績を考えれば、初めからトップチームを任されてもおかしくない。育成年代の監督としては極めて異色の存在とも言えた。

「(試合に向けての)メンバー選考、作戦を決めるのに、朝5時過ぎまでかかった。全選手の顔が浮かび、もちろん全員にプレーさせてあげたいと思うし、現有戦力で最高のサッカーを実践できるよう考え出すと終わりがなくなる。以前、オシムさんやベンゲルさんの記事を読んだとき、『毎日、寝不足だ』みたいな話が書かれていたけど、今はそのことがよくわかるよ」

 試合開始1時間前――。ミーティングを終えた永井は、クラブハウス1階フロアのソファーに座ると、目をこすりながら軽く笑みをこぼした。

 現役時代と変わらず、朝は7時起床。午前中は、新規のスポンサー探しや、クラブ再建に向けての情報収集に奔走している。ちなみに、いかなる場面にもすぐに対応できるように、愛車にはスーツとネクタイを1セット常備。クラブの会議にも出席し、幹部たちと方針等についての意見をかわしている。

 ユースの監督としての仕事は、午後3時頃から準備を始めて夕方5時にスタートする。夜9時過ぎに終了して、なんだかんだすべての用事を終えてクラブハウスを出るのは、夜10時過ぎになる。

 自宅に戻って遅めの夕食をとり、常に進化し続けるサッカーの研究のために「海外サッカーは、1日2試合は必ず観る」という。

 そんな日々のルーティンを終えると、今度はユース指導のその日の練習メニューを振り返り、全選手のパフォーマンスを思い出しながら、各々の課題と改善点を見つけ、翌日の練習メニューを考える。

 就寝時間は午前3時前後になる。試合が近づけば、相手の分析、メンバーや作戦を考える時間も加わって、明け方にはなるのは珍しくないそうだ。

「昨シーズンまでは現役選手だったので、睡眠時間や体のケアに気を配って、翌日には少しでもいい状態にしたいと考え続けていた。でも、監督という立場になれば、自分がプレーするわけではないので、自分の体調はどうでもいい。極端なことを言えば、睡眠なんて、なくてもいいと思っている。どうすれば一人ひとりの選手をうまくしてあげられるか、どうすればチームがいいサッカーをできるかをずっと考え続けている。さすがにこの間、あまりにも睡眠不足で、入浴中に寝落ちしそうになったときは自分でも驚いたけど(笑)」

 将来、指導者になる自分をイメージし始めたのは、30代後半から40代前半を過ごした沖縄時代、JFLのFC琉球に所属していた頃だという。

 当時も、すでにチームメイトはひと回り以上も年齢の若い選手ばかり。「皆がどうすればピッチ上でいいサッカーができるのか。もっとこういう戦術で戦えばいいのに……」といったことを考えて、指導者目線で若手にアドバイスしていた。しかし実際に”監督”という立場になってみると、その負担たるや、想像以上だったようだ。

「『現役選手のときから指導者目線でした』なんて思ったりもしていたけど、やってみると”監督”という仕事は、(これまでとは)比べものにならないくらい大変。チームや選手に対する責任の重さが全然違う」

 冗談めかして笑いながらではあるが、「とにかく大変」という言葉を何度も繰り返した。永井と初めて出会ったのが、1995年なので、もう20年以上の付き合いになるが、現役時代、サッカーに関して永井から「大変」という言葉を聞いたことは一度もなかった。戦力外通告、選手生命にかかわるケガなど、苦境に立たされた場面も何度か見てきたが、人前で愚痴はもちろん、弱音を吐いたことはなかった。

完敗続きの中で漂い始めた不穏な空気

 永井は引退会見の場で、羽生英之社長から、現場、フロントを問わず、将来ヴェルディの中心的な役割を担う存在になることを望まれた。

 サポーターもまた、「ヴェルディを愛するみなさま、もう一度、ヴェルディがチャンピオンチームに返り咲き、日本サッカーを引っ張るリーディングクラブに返り咲くその日まで、いや、その先も永久にずっと、ヴェルディをお願いします」と、引退セレモニーで語った永井の言葉に希望の光を見た。

 2008年シーズンを最後に遠ざかっているJ1復帰。さらに、もはや多くの人たちの記憶からは消えてしまったヴェルディ黄金時代の復活……。いや、新たな”緑の伝説”の始まりを、サポーターをはじめ、多くの人々が永井に期待した。21歳で初めて緑のユニフォームに袖を通し、さまざまなクラブに籍を置きつつも、節目節目には再び緑のユニフォームを着て大役を果たし、最後、45歳でやはり緑のユニフォームをまとって現役生活を全うした男に「改革」の匂いを感じたのだ。

 去就はそれだけに注目された。

 最初にヴェルディユースの監督就任を打診されたのは、昨シーズンの終盤だったという。しかし永井は、すぐには決断できなかった。信頼する恩師、友人にも相談した。

「正直なところを言うと、自分が監督としての能力がどのくらいあるのか、どういう道が向いているのか、わからない。でも、自分の中の本質にはブレがない。それは、『日本独自のスタイルを築いて、世界で勝てるクラブを作り上げたい。それがヴェルディだったら、最高』ということ。そのアプローチとして、現場の監督がいいのか、マネジメント側がいいのか、それはもう少し時間が経ってみないとわからない。

 結局、人生はどこでどうなるかわからない。ならば、いきなりネクタイを締めて貢献することもできなくはないのだろうけど、『現場から始めるのもいいのかな』と。現役を離れたばかりだから、ボールも蹴れるし、その気になれば選手の中に交じってプレーを見せて、そうやって伝えることもできる。まずは現場。『ピッチ上で若い選手たちと一緒に汗をかきながら』というほうが、なんとなく自分らしいかな、と」

 監督初采配となった1月のドイツ遠征、ケラミックカップは屋内5人制の壁ありという変則ルールだった。それでも、日本勢初の決勝進出を果たし、準優勝という幸先のいい結果を残した。

 しかし帰国後、本格的な采配をふるうようになると黒星を重ねた。

 練習試合とはいえ、法政二高に3対8、横浜FCユースには0対7で完封負けと、大量失点による完敗が続いた。

「プリンスリーグの開幕前でチーム作りをしている段階だから、自分の中では想定内だった。セレクションの段階から自分でピックアップした選手たちではないので、練習試合では、1年生だろうと3年生だろうと関係なく、選手は全員起用することを決めていたし、開幕から逆算して、自分なりのプランでいろいろと深く考えたうえでのことだった。

 でも、だんだん周りは『おいおい、大丈夫か!?』とか、終(しま)いには『永井にユースの監督なんかやらせていいのか』『失敗だったんじゃないか』という声も人づてに聞こえてきた。自分の失敗を望む”反対派”の声っていうのかな……」

 指導者として、あるいはGM補佐として、J2が定位置になったヴェルディ再建に向けて動き出したばかり。そんな永井の存在を、必ずしも全員が前向きに捉えてくれているわけでもなかった。

「自分は25年のプロサッカー生活、もっと言うと頂点を目指し続けた40年のサッカー人生において、批判と称賛の繰り返しの中で生きてきた。いろんな人間と出会い、向き合い、騙され、裏切られの繰り返し。そして、必ず新しいことをやるときは批判されることが世の常だから」と、本人は笑い飛ばす。

「でも、有難いことに節目節目で必ず素晴らしい出会いに恵まれ、支え、応援していただける方に出会うことができる。そんな方々への恩返しが、自分の励みにもなり、高いモチベーションを保つことができる秘訣なのかもしれない」

 批判と称賛の繰り返し。常に何かのプレッシャーの中で日々を過ごしてきた25 年間のプロサッカー人生。

「現役引退したらプレッシャーから解放されて、ノーストレスな人生を楽しみたいと考えていたんだけどね」と永井。

「でも結局、今までどおり、いや、今まで以上の(プレッシャーの)日々が続いているかな(笑)」

 そんな永井に、さらに追い討ちをかけるような出来事が起きた。

 プリンスリーグ開幕が目前に迫った3月29日、早稲田大学との練習試合。ヴェルディユースは0対15(45分×3本)という大敗を喫したのだ。

「監督に就任以来、(選手たちには)守備の『守』の字も言ったことはなかった。言い続けてきたことはただひとつ、90分のボール保持とゲーム支配。そして『全部、前から行け!』だけだった」

 何があっても下がらず、狙うのは前からのプレッシャーとインターセプトのみ。永井は選手に、ピッチに立っているすべての時間、ボールを保持しゲームを支配すること、攻撃することのみを求めた。結果、チームは毎試合のように大量失点を重ねた。

 永井は、クラブ関係者はもちろん、「戦っている選手の中にも、不安を感じている者はいたはず」と十分理解していた。それでも戦い方を変えることはなかった。

 そこには「ヴェルディ再建」にかけるメッセージが秘められていたことを、若い選手たちは後に知ることになる――。

(つづく)

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