第11回「 葛藤のなかからスタートした復興支援。」 文・山雄樹

熊本地震の直後、ロアッソの選手の誰もが抱いた思いは、「こんな時にサッカーをしていいのか」という葛藤だった。選手たちは2016年4月14日の「前震」発生から5日、より大きな被害をもたらした16日の「本震」発生から、わずか3日後の19日、阿蘇くまもと空港に程近い益城町のホテルの駐車場などに避難していた子どもたちと一緒にボールを蹴った。

その時、巻誠一郎は「サッカーやっていいのかなという思いもあったけど、でも、こうやって、サッカーやらせてもらって、子どもたちが、すごく笑顔でやってくれた。子どもたちも、もちろん楽しかったでしょうけど、僕ら選手も、ひさびさにサッカーやらせてもらって、本当に楽しかった。逆に、僕らも、すごくパワーをもらいました。子どもたちが笑顔になると、大人も自然と笑顔になって、気持ちもちょっとリラックスできたり、ポジティブな気持ちになれたりする」と語った。

「被災地となった熊本のために、自分たちサッカー選手に何ができるか、何をすべきなのか」を、手探りで探しながら、一歩一歩進んでいった。「スポーツの力」を信じて。

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「これは熊本の方に」。
タクシー運転手の男性が封筒を差し出した。封筒の中には紙幣が入っていた。12月25日(日)、京都市で行われた全国高校駅伝。私が勤務するRKK熊本放送でも毎年、熊本県代表校の密着取材を行っていて、14年連続で都大路を訪れている。レース中はスタート・フィニッシュだけでなく、京都市営地下鉄や阪急電車、そして、タクシーなどの交通手段を駆使して、綱渡りのスケジュールで、沿道や中継所などを回って、撮影する。毎年、利用しているタクシーがあり、その運転の熟練度は実に頼りになる。

今年、男子の熊本県代表校は13年連続36回目の九州学院。これまで準優勝が2回、悲願の優勝を目指して今年のレースに臨んだが、結果は3位。熊本地震の影響で、4月15日から休校、授業が再開されたのは、5月9日、25日ぶりのことだった。休校中、学校は、行き場を失った被災者を受け入れた。使用できなくなった校舎もある。選手たちは、満足に練習が積むことができなかった。それでも、選手たちは「熊本の人達に元気を届けたい」と、7区間42.195kmに懸命に襷をつないだ。優勝こそならなかったが、去年の準優勝に続くメダル獲得。2時間3分51秒というタイムは、熊本県勢歴代2位のタイムだった。

決して地震に負けない高校生たちのひたむきな姿に心を打たれたタクシー運転手の男性は、私に熊本への寄付金を託してくれた。熊本地震発生から8か月以上がたった今でも、こうした支援をいただくことを、ものすごくありがたく思う。

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12月21日、熊本県は、地震などの災害に対応する災害警戒本部を解散した。4月14日の「前震」発生から災害対策本部が設けられた。市町村レベルでも県内34の自治体が災害対策本部を設置した。その後の県の災害対策本部は、8月31日に災害警戒本部に移行していた。そして、11月14日、県内で計画されていた仮設住宅の建設がすべて終わったこと、10月8日に噴火した阿蘇中岳第1火口の活動も低下し、噴火警戒レベルも入山が規制される「レベル3」から、火口周辺への立ち入りが規制される「レベル2」に、12月20日、引き下げられたことなどから、災害対策本部の解散を決めた。一方で、被災者の生活再建などの支援は、6月20日に設置された復旧・復興本部が担っている。

12月31日午後9時3分に発生した地震(宇土市で震度1を観測)まで、震度1以上の地震は、4000回以上となった。今も、地震の恐怖とは常に隣り合わせだ。

そんななか、ロアッソの選手たちが「県民に元気を」「子ども達に夢を」「熊本に活力を」というクラブ理念の基、復興支援活動に、どう取り組んだのか記したいと思う。

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4月19日、「避難所で生活する子どもたちに元気になってもらおう」と、ボールを蹴った。場所は、震度7を2回観測した益城町の阿蘇くまもと空港からおよそ2kmのところにある、阿蘇熊本空港ホテルエミナース。民間のホテルで、自治体の指定避難所ではなかったが、館内におよそ500人、駐車場での車中泊も合わせると2000人以上が身を寄せていた。その後7月いっぱい、福祉避難所として、被災者を受け入れ続けた。福祉避難所は、高齢者や障害者、乳幼児を抱える家族などが利用の対象となる。5月5日には、日本代表を率いるハリルホジッチ監督が訪れ、少しでも楽に眠れるように、就寝用のマットを、贈っている。

地震の後、益城町に住むGK畑実、DF森川泰臣の2人は、この駐車場で車中泊を続け、2人の祖母も、福祉避難所としての利用を続けた。

天然温泉やスライダー付きのプールがあるホテルで、ホテルによると、「テニスコートからリニューアルしたばかり」のフットサルコートで、「サッカー教室」を開くことができた。

きっかけは、チームの副キャプテンでもある畑が、無料通信アプリ「LINE」のグループトークで呼びかけたことだった。
「『益城町のエミナースで、子どもたちとサッカーをやろうと思うので、来られる方がいたら連絡して下さい』と投稿したら、『何時からやるの?』とすぐ返ってきて、スムーズにすぐに話がまとまりました」と畑は話す。

チームメートに呼びかけた理由は、「同じ避難所で生活する益城町の住民の方に提案されたこと」もあったが、「僕も被災者でもありますけど、避難所にいると、ロアッソ(の選手)ということを知って下さって、『頑張ってね』とか『調子いいね』とか『こういうときだからこそ、試合をしてね』という声を逆に自分たちが貰います。応援して下さっているのに、自分たちが何もできないというもどかしさがあって、何かしたいという気持ちが出てきたんです」と語った。その一方で、「避難所のために何か手伝えることがあったら、手伝って、寝るときは車のなかで寝て、という生活を繰り返しています。今、足りないものと聞かれたら、何が足りないのかもわからない。情報もなく、難しい」と話した。193cmの体躯での車中泊やプロのアスリートにとっての避難所生活は、苦労を伴うものだった。

しかし、より深刻な表情を見せたのは森川の方だった。畑の自宅も、森川の自宅も全壊。ただ、森川の場合は、自宅を兼ね、両親が経営する焼肉店の店舗も全壊という被害を受けた。2013年の天皇杯全日本サッカー選手権2回戦(9月8日・うまかな・よかなスタジアム・対徳島ヴォルティス・1対1・PK4対3で勝利)で公式戦デビューを果たし、勝利に貢献した畑のお祝い会を開いたこともある自慢の店だ。ショックも大きかった。

森川は、1994年9月27日生まれの22歳。ロアッソのジュニアユース、ユース時代の2種登録を経て、2013年トップに昇格。2015年はJ3のガイナーレ鳥取に期限付き移籍したものの、今シーズン復帰、「生え抜き」の選手だ。(この後、7月19日にJ3藤枝MYFCへの期限付き移籍、11月28日にはロアッソとの契約満了が発表された。)

森川に申し訳ないと思いながら、避難所を案内してもらい、話をきいた。森川は、駐車場を歩きながら、まず4本の支柱が立った青いテントを指差し、「ここのテントが、(熊本県)サッカー協会の本部になっていて、全国から集まってきた物資を、ここから分けるという作業もしています」と教えてくれた。テントの中では、キャンプやアウトドアの場面で使用するような、折り畳み式の椅子に、森川の祖父がひとり腰掛けていた。

森川に、自身はどう過ごしているのかをたずねると、「(テント隣に停めた)車の中で寝るか、車が多いときは、駐車場を出て、近くの会社の駐車場に停めて、寝ています。とにかく、車の中で寝ています」。そして、続けた。「車の中でつらいというのはもちろんなんですけど、(避難者が)1500人ぐらいたぶんいて、その日、弁当などの食糧を、皆が貰えて、ちょっと安定してきたかなと思ったら、次の日の昼の分は、全然確保できないこともあります。安定して食事を確保するのが難しい環境です。お年寄りの方や子ども、赤ちゃんも多いですし、我慢できる人と、赤ちゃんみたいに我慢できない人がいます。赤ちゃんは、ご飯を食べられないと、泣いたりします、ああいう風に」。話している最中に、近くから赤ん坊が激しく泣く声が聞こえた。

「周りの人がいらいらしていて、そこで喧嘩になってしまうこともあります。僕も、この前、せっかくの食べ物を、『賞味期限が切れているから』と言って捨てた男性がいて、どうしても、それを許せなくて、キレちゃったんです」、そう語る森川の表情は疲れ切っていた。

「2回目(4月16日の「本震」は、めちゃくちゃ揺れて、『死んだ』と思っちゃったんです。本当に『死ぬ』と思いました」と振り返り、「サッカーやってる場合じゃないと、本当に思いましたし、今も、そう思うところはある」と、震度7を2回も経験した者でしか分からない強烈な地震の恐怖を語ったのだった。

この話をきいている間にも、すでにフットサルコートでは、畑と、その畑の呼びかけで集まった、黒木晃平・一誠・清武功暉・坂元大希・岡本賢明・金井大樹・藏川洋平・巻誠一郎という8人の選手に熊谷雅彦主務・磧上智志マネージャーが、およそ20人の子どもたちとボールを蹴っていた。

森川は「今も、ああやってサッカーやってますけど……子どもたちが元気になるためと思ってやるんですけど、自分も被災している部分もあるし、なかなか気持ちがついていかない部分もすごくあります。ひとりになると、悲しいと言うか、むなしいと言うか、孤独感……帰る場所もないですし……」とつらい胸の内を吐露した。しかし、「でも、そのなかで近所のおじいちゃんやおばあちゃん、地元の顔見知りが多いので、『サッカー頑張ってね』って言ってくれますし、自分は、他人以上に、何とか踏ん張って、皆に、少しでも元気を届けられるようにやるのが、サッカー選手としての使命だと思うし、自分が落ち込んでいても何も始まらないので、そこは何とか、プロとして自分を奮い立たせてやるしかないのかなと思っています」と何度も頷きながら、必死に前を向こうとしていた。

それでも、やはりショックは大きく、疲れも蓄積していた。
しばらくの沈黙の後、森川が「すみません、あくびしちゃって。すごく眠いです」と話した。「いやいや。そりゃ、あくびも出るよ」、私は、そう答えるのが精一杯で、何の慰めも、励ましも、言葉が見つからなかった。

取材に答えてくれた森川と、「サッカー教室」が行われているフットサルコートに向かった。フェンスのむこうから、森川の姿を見つけたキャプテンの岡本が、すぐに声をかけた。「(森川)泰臣、泰臣。はよ(早く)、サッカーせんか。きついんか?」。憔悴し切った森川を、何とか励まそうと、ことさら大きな声と強い表現を使った。エースストライカーの清武も「ヤス君(岡本賢明)は、率先してチームの空気を明るくしてくれる」と話す、岡本ならではの愛情だった。

岡本は「避難所で生活している人たちのストレスはすごいと思います。(森川)泰臣の顔を見たとき、だいぶ疲れているなということが分かりました。どんなに疲れていても、皆でボールを蹴って、子どもたちと一緒にサッカーやれば、多少なりとも、その時間は、ちょっとでも(ストレスを)忘れられるかなと思ったので、『一緒にやらんか』という声をかけたんですけど、それでもさすがに元気はなかったですね」と語った。

それでも、およそ2時間、ボールを蹴るうちに、森川にも笑顔が見られるようになった。そして、子どもたちからも、選手たちのプレーに「大人げない! 大人げない!」という大きな声が飛び、選手たちからも大きな歓声が上がるようになった。選手たちも、熊本地震が発生した後、初めてボールを蹴った。

参加した中学生は、「避難所生活で体がだるくなる。サッカーをして持ちよかったです」、小学生は「ひさしぶりに体を動かすことができた。選手たちに感謝したいです」と喜んだ。

巻は、「熱中症にならないように」とオリジナルの塩飴を配ったり、私たち取材クルーのマイクを自ら受け取って、子どもにインタビューしたり、明るく振る舞っていた。

巻(自分を指差しながら)「特に誰が上手でした? 特に? 特に?」
小学生(1人目)「全員」
巻(残念がって)「なんだー」

巻「楽しいですか?」
小学生(2人目)「はい」
巻「何が楽しかった?」
小学生「サッカー!」
巻(マイクのスポンジ部分を小学生の顔に軽く擦り)「いぇーい!」

といった具合である。巻が、小学生に「じゃあ、またサッカーしようか」と呼びかけると、その小学生は、まさに、飛び跳ねるようにして、コートへ走っていった。

およそ2時間の交流を終えた選手たちは、次のように話した。
畑は、「子どもたちが楽しそうにサッカーやってくれて、自分が元気を貰えた。避難所生活をしていると、子どもたちが思い切り体を動かせません。こうやって体を動かす機会ができて、本当によかったと思います」。
岡本は、「皆が今、大変だと思うんですけど、サッカーして、きょう、楽しかった。選手も、きょう、一番のリフレッシュになったと思います。少しでもこういう時間があれば、ちょっとは頑張れるかなと思います。僕たちも全員で力を合わせて何とか前を向いて頑張っていきたいです。普通が何か分からないですけど、ちょっとでも、今の生活より良い生活ができるように、本当に皆で力を合わせて、頑張っていきたいです」。
清武は、「畑君と(森川)泰臣が、ここの避難所でいろいろと手伝いをしていることを聞いていました。きょうも、畑君が呼びかけてくれたことがきっかけで、できたこと。2人は、疲れているなか、ここで暮らす人たちのために頑張っています」とチームメートの労を労ったうえで、「避難所では、子どもたちが、元気に遊べる場所が少ないので、こういう活動を通して、子どもたちからストレスがなくなればいいなと思います。こうやって、子どもたちが元気にサッカーやってくれていることが、僕らにできる仕事。これから、こういう活動を増やしていければと思います。子どもたちだけじゃなくて、エコノミー症候群も出ている。体を動かすことを手伝えればいいなと思う」と、話した。
汗をかいた、それぞれの表情からは充実感がうかがえた。

そして、巻は、「こうやって地震が起こって、子どもたちは避難所生活や自分の家がなくなったり、住めなくなったり、そういう人たちがたくさんいて、子どもたちも地震の警報(緊急地震速報)や余震にびくびくしながら、うちの子もそうですけど、笑顔がすごく少なくなって、あまり笑わなくなりました。被災地を回っても、そういう声がたくさんありました。そんななかで、サッカーやっていいのかなという思いもありましたけど、でも、こうやって、サッカーやらせてもらって、子どもたちが、すごく笑顔でやってくれました。子どもたちも、もちろん楽しかったでしょうけど、僕ら選手も、ひさびさにサッカーやらせてもらって、本当に楽しかったです。逆に、僕らも、すごくパワーをもらいました。子どもたちが笑顔になると、大人も自然と笑顔になって、気持ちもちょっとリラックスできたり、ポジティブな気持ちになれたりします。こういうことはすごく大事だなと、まだまだ前を向けない人や先に進めない人って、たくさんいると思うんですけど、一歩ずつでも、前に進んでいって、今まで、僕もずっと熊本で生まれ育って、今も、熊本で生活していますし、熊本の人間なんで、力強い今までよりも団結した熊本を、作れたらいいな、前に進めたらいいなと思います」
と自らに言い聞かせるように、静かに、それでも力強く語った。

こんな時に「サッカーをやっている場合じゃない」という現実に直面し、「サッカーをやっていいのか」という迷いが生じた。そんな葛藤のなかから、チームとして、復旧、復興にむけて、第一歩を踏み出した日だった。

◇著者プロフィール:
山雄樹(やまさき ゆうき)
熊本放送(JNN・JRN)アナウンサー。1975年(昭和50年)6月16日、三重県鈴鹿市生まれ。立命館大学産業社会学部を卒業後、1998年熊本放送入社。主にスポーツの中継アナウンスや取材、番組制作を担当。系列のアナウンサーの技量を競う「アノンシスト賞」では、「テレビスポーツ実況」部門で二度、「ラジオスポーツ実況」部門で一度、九州・沖縄ブロック審査で最優秀賞、2015年度は、全国審査で優秀賞を受賞した。
 チーム発足時からJ2ロアッソ熊本の取材や応援番組の司会を続け、2008年のJ2参入以降は、スカパー!Jリーグ中継でホームゲームの実況をつとめる。