5月1日巻選手 (2)

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第9回 「巻誠一郎選手ロングインタビュー」  インタビュアー・山雄樹

当たり前じゃないときに気づくこと
――今シーズン、お疲れ様でした。
 お疲れ様でした。
――きょう(12月9日)で、今シーズンの全体練習が終わりました。どんな気持ちですか。
 やっと1年が終わったかなというような気持ちです。
――「やっと終わった」ですか。
 満足感は、今シーズンに関しては、あまりないかなとは思います。それでも、プロ選手として1年、1年を全力でやっているので、やり切ったなという思いもあります。そういう気持ちは、ちゃんと一旦は持たないと、次につながらないので。取りあえず、「1年間、自分、お疲れ」みたいなところです。

――今年も、全力でしたよね。特に、本当に今年は、ピッチ内でもピッチ外でも。
 そうですね。それがいつも心掛けていることですが、サッカー以外の部分でもやれることは、やれるだけやりたいなとは思いながら、いろんなことをやりました。
――僕らも、取材中に、巻選手の言葉に救われたところがたくさんあって。
 本当ですか。ありがとうございます。
――例えば、8月の中旬、熊本地震から4か月たったときに巻選手が、「きつい、きついでは、今まで何だったの?と、地震に負けたような気持ちになってしまう。こういう気持ちが芽生えたとか、こういうものが生まれたとか、そういうことが大事なんだ」ということを話してくれて、その通りだと思いました。
 自分の中でも毎日、全力ではやっていましたけど、サッカー選手としては、淡々とトレーニングをして、試合をして、過ぎていく中で、非日常というか、当たり前じゃないことが起こりました。そういう中で、僕自身も、いろいろ考えていました。

――「いろいろ考えた」というのは?
 サッカーに取り組む姿勢も、もちろん毎日、全力でやっていましたけど、「普段のトレーニングから全力でやっているの?」とか、「試合の中でも最後の1分、1秒まで走れているの?」とか、考えました。
 今までも、スタジアムを使えるのが当たり前、たくさんの方が応援してくれることが当たり前、とは思っていませんでしたが、どこかで、普通に試合はできる、スタジアムは使えるっていうのがスタンダードになっていた部分がありました。それができなくなったときに、人間って本当にそういうものに気付くんです、当たり前じゃないということに。
 そういう感謝の気持ちを持つこともそうですし、試合を観に来てくれる人たちは、自分も被災してきつい中で、僕らを応援しに来てくれました。その人たちが、試合を見てくれたときや、練習場に足を運んでくれたときに、何を思って帰ってくれるかということも、すごく大事だと思います。震災のときに思ったのは、「いきなり何かをやろうと思ってもできない」ということです。
 特に、気持ち的の部分で、日頃からしっかりと緊張感を持って、「人のために何かをやろう」という心構えを持っているとか、他人とコミュニケーションを取るとか。
 そういった日頃の積み重ねが、あの地震のときに、すごく僕の役に立ちました。だから、日々の1分、1秒にしても、何気ない会話にしても無駄じゃないんだな、ということを、すごく感じました。

日頃の積み重ねが復興支援に生きる
――その「積み重ね」を生かして、いち早く復興支援活動に取り組もうと思われたのは、何か過去の体験や誰かからの影響によるところはありますか。
 少なからずいろんな人の影響を受けてきました。サッカーの場面だけではなく、人としての振る舞い方とか、プロとしての振る舞い方とか、プロとして成長する中で、多くの指導者の方に教えていただきました。あとは、いろんな先輩方の背中を見て、積み上げてきたものというか、真似をしてきたということは、大きいかもしれないです。
 東日本大震災ときも、小笠原(満男・鹿島アントラーズ)さんたちが、率先して動いている姿を、僕も見てきているし、誰かがそうやって動くと、周りが反応して動いてくれるということを見てきたので、そういうことが大きかったと思います。あとは、日頃からプレーでも、人が嫌がることとか、人がやりたくないこととか、人がなかなかできないことを、僕は見つけてやりたいと考えています。
「かゆい所に手が届く」じゃないですけど、そういうプレーを心掛けています。普段からトレーニングの中のワンプレーでも、いろんな人の表情を見ながら、メンタル面も気にしながら、本当に細かく気を使っているので、そういうことは、(復興支援活動に)生きたかなとは思います。
 意外に繊細なんです(笑)。
――いや、いや。
 「大ざっぱ」ぽいでしょ?
――いや、「大ざっぱぽく」はないです。
 いや、大ざっぱなんです、基本的に。大ざっぱなんですけど、いろんなとこに、自分の中でコンプレックスがたくさんあるので、そういうところを、いろんなことに細かく配慮することで隠しているんです。だから、そういうことが、すごく生きたなというのは思います。ちっちゃなときから、そうやって生きてきたので。

避難所での触れ合いに救われた
――スポーツ一家(父・昇治さんは国民体育大会アイスホッケー競技で熊本県チームの監督をつとめた。妹・加理奈さんはハンドボール元日本代表。弟・佑樹さんは、名古屋グランパスなどでプレーした元Jリーガー)で育ったという家庭環境やご両親の教育もありますか。
 もちろん家族の影響も少なからずあります。また、熊本で育ってきた環境、小さい頃は宇城市小川町でずっと育ってきて、そこから大津高校に行って、いろんな地域の人たちとの関わりの中で育んだものというのは大きかったかと思います。だから、今回、(復興支援活動を通して)、ちょっとでも地域の人たちに還元できたのでよかったなと思います。


<熊本市東区の拠点から支援物資を運び出す巻誠一郎選手>

――避難所を訪問して、物資を届けたり、サッカーで交流したり、という活動は、体力や時間の面で、練習やプレーに影響しない程度に「ぎりぎりのところを見極めている」と言われました。
 そうですね。最初の3か月ぐらいは、本当に寝るだけのために家に帰っているような感じでした。地震の後、丸々3か月間は、空いている時間に、毎日、避難所へ行ったり、幼稚園、小学校を回ったり、それが日課みたいになっていました。なので、そんなにきついとか感じないんです。
 避難所に行くと、「いつも頑張って」と言ってくれるし、おじいちゃん、おばあちゃんと話をしたり、子どもたちと遊んだりするぐらいなので、そんなにたくさん体を使っているわけでもありません。ある意味、心の充電ができました。避難所を回ったり、子どもたちと触れ合ったりすることで、逆に救われました。
 なので、皆から「きつくない?きつくない?」って結構、言われましたが、僕は、避難所に行くと「また頑張ろう」、「また行かなきゃ」と思いました。本当に自分のモチベーションになりました。
 ずっと緊張感を保つのって、すごく難しいことじゃないですか。ロアッソも、そうでしたけど、地震の後、リーグ戦に復帰して、最初は、皆全力でプレーしていましたが、途中、「ふっ」と、切れてしまって、全然勝てない時期がありました。気持ち的な、メンタルな部分が続かなくて、僕が見ていて、そういうことが切れたなということは思いました。
 なので、そういう意味で、僕は、地震の景色というか、壊れた家とか、倒壊した家とかを見ながら避難所を、回っていたので、ずっと緊張の糸を保つことができました。(緊張の糸を)切っちゃ駄目だっていうことを、自分で体感していました。

――分かります。分かりますと言うのは、例えば、今もそうですが、巻選手から、シーズン中に、炎天下のときもあれば、連戦のときも、貴重な話をきかせてもらいました。一緒に取材をしていたスカパー!Jリーグ中継リポーターの風戸直子さんと、駐車場で、「私たちも頑張らなきゃね」と言っていつも帰っていました。だから、誰かと話してエネルギーをもらうことが、こんなにも重要で、こんなにも大きいんだと思いました。
 そういうところで、緊張の糸は切れずにずっと張り続けますね。いまだにずっと(復興支援活動を)続けています。頻度は少なくなってきましたが、継続することがすごく大事かだと思っているので、継続していろんな地域を回ることを続けていこうと思っています。

たくさんの涙
――今年は、随分と一緒に涙を流させてもらいました。まず、熊本地震発生後、クラブハウスで、選手、チームスタッフ、クラブスタッフが集まり、今後の方針を話し合った4月21日、インタビューさせてもらったときの涙は、どういう涙だったのでしょうか。
 チームには、家が倒壊した選手もいました。選手で、いろんな話をしていく中で、今、サッカーのことを考えられないっていう選手もいましたし、おじいちゃん、おばあちゃんが心配とか、家族を置いて遠くには行けないとか、いう選手もいました。そんな議論をした後に、インタビューで、そういう話を自分でしてしまって、それを思い出してしまいました。
 自分の感情というより、いろんな人の思いが入ってしまって、涙が出てしまいました。


<チームの今後を話し合い、その後のインタビューで、チームメートを思い涙する巻誠一郎選手>

――「サッカーどころではない選手もいる。だけど、みんな熊本に残って頑張ると言ってくれた」と話されたとき、確かに感極まっていました。でも、あのとき、「今まで以上の熊本をみんなの力でつくっていきたい」とすぐに、歩み出そう、踏み出そうと、思えたのは、どうしてですか。
 (地震発生から1週間がたった)21日の時点では、いろんな所でいろんな情報もありましたし、自分の中ではいろいろとアクションを起こして形にした後だったというのはあるのかなと思います。
――支援物資の集積・輸送拠点をつくったり、復興支援サイトを立ち上げたりしたのも、4月17日と早かったですね。
 そうですね。そういうことも、日頃の積み重ねが生きました。いろんな人とコミュニケーションを取ったり、熊本で生まれ育って、いろんな人に支えられてきたりしたことが、こういう地震のときにも役に立ちました。
 僕が「こういう形があるんですけど」と話をしたら、「うちの倉庫、使ってください」とか、「ボランティア集めましょうか」とか、「こういうこともできますねと」か、すぐにいろんな人が動いてくれて、僕1人の力だったら、あそこまで絶対できませんでした。
 そういう支援の輪というか、同じ思いの人たちがたくさん一気にガッと集まると、あれだけ大きな力が生まれるんだと思いました。だから、そういうことが多分、いろんな避難所やいろんな地域で起こっていたのでしょう。やっぱり人間の力ってすごいですよ。
 僕らもいろんな避難所を回って、思いました。本当に困っている人ほど、自分のことよりも、「あの人の方が困っている」って、「私はこれだけでいい」って言います。「皆の分なくなるから、ちょっとでいい」って、「きょうの分があればいい」って言います。僕が「いっぱいあるから大丈夫」って言っても。そういうのを見たり、聞いたりすると、「自分も頑張らないと」と思います。

避難所通いで家族のように
――4月19日に、巻選手に、お父様を通して連絡させていただいて、「復興支援活動を取材させてください」とお願いしたときに、「今はもうそれどころじゃない。正直、今は邪魔になります」ときっぱり言われました。
 言いましたね(笑)。
――僕は、巻選手らしいなと思って、逆に「ほっとしたじゃない」けど、「それはそうだよな」と思いました。
 すみません(笑)。本当に気の向くままというか、そんな感じで移動していました。いろんなところから「物資が足りない」とか「来てほしい」とか、メッセージをもらったり、電話をもらったりしていました。そこに向かって途中まで行っていても、連絡が来ると「じゃあ、今度、そこに行こう」と目的地が変わったりしました。「ここは何か足りない」って言われたら、いきなり「グン」と動くので、そこで取材についてきてもらうのも、すごく申し訳ないなって思いました。それと、被災した方の中には、そういうのを好まない人たちもいますので。
――僕も、避難されている方たちを、取材すること、撮影することにについて、「申し訳ない」と思うこともありましたし、話をきかせてもらえることが、いかにありがたいこと感じました。
 はい。本当は、いろんな人に伝えたいと思ったし、現状を知ってもらう、そういうチャンスだとも思いましたが、それよりも一番困っている人たちが快適に、という思いの方が強かったです。すみません。
――いえ、いえ。ただ、本当にきっぱりと言ってもらいましたし、「取材してもらえるような状況になったら言います」と言ってもらいました。その後、5月1日に同行取材もさせてもらいました。5月2日の全体練習が始まる前日でした。あのときも、翌日に全体練習が再開されるにもかかわらず、時間をかけて避難所を回られました。(午後2時に熊本市東区にある物資の輸送拠点を出発し、訪問を終え、避難所を後にしたのが午後7時15分だった)
 でも、あのときはまだすごく人数も少なかったですし、時間も早かった方です。
――あの時間で、ですか。
 早かったです。多い地域はお昼ぐらいに行って、真っ暗になってから帰っていました。だから、夜の8時とか、9時ぐらいなのかな。寝る前にラジオ体操をする所もあって、そこで一緒にラジオ体操をして、「よし、じゃあ、帰ろう」と言って帰ったこともありました。
 そこから、自分で食事をして、自宅に帰ったら10時とか、11時ぐらいで、もう寝るだけみたいな感じでした。そういうことを、ずっと繰り返していました。皆、よく話すんですよ。おじいちゃん、おばあちゃんも話したいし、僕も話したいことたくさんあるし、「はよう(早く)」って言われましたから。「そこはそんだけ(それだけ)でいい」って。
――次の人が、話す順番を待っているのですね。
 そう、そう。次の人が、「早くこっちにおいで」って。そう言ってくれるから、「また来てね」って言われるから、僕が「また来たよ」って言ったら、「また来たの」って言われますから。でも、「来てくれて嬉しい」って言ってくれるので。回数をちゃんと数えている人もいました。おばあちゃんが、「きょうで7回目」とか、「8回目」とか、「ちゃんと私、数えてるの」って言って。
――数えている方もすごいですけど、巻選手が7回目、8回目と通っているということがすごいです。
 だから、最後の方は、避難所の人たちを他人として思えなかったです。「あそこのおばあちゃんはどうした?」ってきくと、「もう仮設に移ったよ」という答えが返ってきて。「よかったね」とか。試合を見に来てくれた子どもたちも「あれ? あそこにいた子だよね」みたいな感じで、分かりました。「元気?」ってきくと、「元気」って言ってくれて、嬉しいです。
――同行取材させてもらったときに、95歳のおばあちゃんと話すときに、巻選手が、目線を合わせてようと、膝を付いて大きな体を丸めていました。話すときは、熊本弁ですね。
 熊本弁です。でも、意識しているわけではないですけど、熊本弁で話さないと、心を開いてくれないんです(笑)。自分でも、「俺も熊本弁、こんな話せるんだな」と思いました。


<避難所で95歳の女性と会話する巻誠一郎選手>

涙の理由
――その後の涙というと、5月15日、フクダ電子アリーナで行われた、J2第13節ジェフユナイテッド千葉戦、ロアッソにとってのリーグ復帰戦ですね。あの試合後の涙は、どんな思いからのものですか。
 こうやって震災が起こって、僕らは熊本の象徴のクラブとして世の中に発信しなきゃいけないという責任感や、思いをすごく強く持っていました。そういうときに、僕らは、普段、出ない力が出ると思うんです。
 実際、体力も消耗していく中で、いつも以上に走ったと思いますが、スポーツの勝負の世界というのはそんなに甘くなくて、あの試合も2対0で負けました。皆、一生懸命やったのに勝てなかったという無力感がすごくありました。
 悔しさとか、申し訳なさとか、いろんな感情が込み上げてきて、あとは、試合が終わった後は、スタジアム全体がエールをくれて、感謝で感極まった思いとか、いろんなものがぐちゃぐちゃになっていました。
――そうですよね。「何の涙か」と言われても、理由は1つじゃないですよね。
 そうです。だから、いろんな思いがもうぐちゃぐちゃになって、「わっ」と出てしまいました。「絶対、我慢しよう」と思っていたんです。「冷静に話そう」と思っていたんです。自分の中では、絶対に、いろんな人に、思いをしっかりと伝えなきゃいけないと思っていて、すごく冷静に、ちゃんと自分の言葉で伝えようと思いましたが、駄目でした(笑)。
――いや、いや、文言として、特に乱れているとか、感情が高ぶりすぎているとか、いうような感じではなかったです。
 ちょっと申し訳なかったですね。

――あの試合、僕は、スカパー!Jリーグ中継のピッチリポーターで、ピッチで選手たちの姿を見ていました。巻選手が1失点目(後半11分)の後に、膝に手を付いていたんです。
「え? あの巻選手が、そんなしんどそうな表情をするんだ」と、ショックというか、いかにそのゲームを戦うことが大変なのかということを思いました。
 そうですか。僕は、覚えていないです。
――僕は「あの巻が膝に手を付いています」とリポートを入れました。体力的には相当きつかったですか。
 きつかったです。自分の中では一生懸命、短い準備期間の中であそこまで持っていきましたが。2週間、3週間近く体を休めることっていうのは、普通のシーズンオフでもそんなにあることではなく、1週間とか、10日ぐらい最大でも体を休めても、そこから1か月、2か月ぐらいかけて体をつくっていくわけじゃないですか。それを、(地震の影響で)2週間、3週間、休んだ体を、(復帰戦にむけて)持っていくことは、すごく大変でした。
――その後は、日立柏サッカー場でホームゲーム(5月22日・第14節水戸ホーリーホック戦)を開催しました。あのときも、インタビューで、「歯を食いしばって何度でも何度でも挑戦する」という言葉を、また涙ながらに話してくれました。千葉戦と水戸戦は何か違いがありましたか。
巻:水戸戦は、1試合、ゲーム(千葉戦)を戦った後だったので、ある程度ゲームで、自分たちがどれぐらいできて、どれぐらいできないんだなということをイメージできました。体力的にはまだ厳しいと思いました。じゃあ、ちょっと温存というか、体力の配分を考えなきゃいけないとか、ゲームプランもどうするとか、リーグ戦に復帰して、J2の中での自分たちの立ち位置も、ある程度、分かりかけたところでした。そういう中で本当に勝ちにいこうっていうような試合でした。そういう試合で、このときも0対1で終盤(後半36分)に失点して負けてしまいました。
――やはり、涙も「悔しさ」からくるものだったと。
 悔しかったです。もちろん悔しいです。早く勝ちたいと思っていましたから。早く熊本に勝利を届けたいと思っていたので。

チームの戦いの変化
――その後、FC町田ゼルビア(5月28日・第15節2対0で敗戦)、ファジアーノ岡山(6月4日・第16節1対0で敗戦)にも敗れました。この辺りから巻さんも、ツエーゲン金沢戦(6月8日・第17節)に出発する日(6月7日)だったと思いますが、「ちょっとチームとしての戦い方に何かもどかしさを感じている」と話していました。
 そうですね。復帰して2試合、3試合は、緊張感を持ってやっていたんですけど、暑さもあったし、連戦もありましたし、なおかつ自分たちの生活もまだ安定してない中で、最初は頑張ろうっていう思いがありましたが、それぐらいの時期になると、だんだん気持ちが切れているというわけでもないけど、一つになっていないなっていうのをすごく感じていました。それこそ、本当に金沢戦の前です。
 一人一人は絶対、頑張っているはずです、あのときも。けど、そういうのがチームとして機能しているか、というと、まったく機能していなくて、「自分は頑張っている」みたいな、「俺は頑張っている」、「俺も頑張っている」みたいな、そういう感じに見えてしまったんです。見えたというか、そういう雰囲気をすごく感じました。だから、金沢戦の前日のホテルで、皆でミーティングをしたんです。
 そのときに僕は、「一人一人はすごく頑張っている。でも、サッカーって11人でやるスポーツだから」っていう話をしたんです、確か。「うちのチームは11人で戦って初めてチームとして成り立つチームだから」って言って、「だから、自分がチームメイトのために走ろう、そしたら、他のやつも自分を助けてくれるよ」って、「皆のいいところを生かし合おう」っていう話をしたんです、確か。

――金沢戦に出発する日に、クラブハウスの前の腰ぐらい高さのコンクリートの所に、巻選手が座って、結構、長い時間、話してくれました。「言えることと言えないこととがあるし、それも書いていいことと書いちゃいけないこととがあるけれども、ちょっともどかしいんだ」と。巻さんは、それはもうコンクリートに汗のしみが残るぐらいの時間でした。僕は「そんな難しい状況なのか」と思いながら、金沢戦の実況を始めたんです。すると、試合開始からわずか20秒で平繁選手のゴールで先制しました。でも、その話し合いが持たれたということを、僕は知らないので、一体、前日から何があったのかと思いました。明らかに動きが違ったので。
 あの金沢戦ぐらいから、またチームとして何とか持ち直せたかなというのはあります。
(第17節金沢戦2対0で勝利、第18節ザスパクサツ群馬戦1対1で引き分け、第19節カマタマーレ讃岐戦2対0で勝利、第20節FC岐阜戦3対2で勝利、第8節延期分京都サンガFC戦1対1で引き分け、5試合で3勝2引き分け無敗)
 チームって生き物なので、相手もあることだし、1+1が2じゃなくて、僕らは11人でやるスポーツで、11以上の力にどうやってするかというのは、すごく大事だなと思っています。

――金沢戦で、やっと熊本地震の後、初めて勝てたというような気持ちはありましたか。
 本当に「やっと」というところで、ちょっと遅かったなと思いました。本当はもっと早く勝利をもたらしたかったという気持ちはありました。でも、震災後の初勝利だったので、もちろん、思いは、特別でしたよ。だけど、あまり喜び過ぎても良くないなと、僕は思っていました。
――そうなんですね。あのときは、「ひさしぶりの勝利なので喜び方を忘れました」とインタビューに答えてくれましたけど。
 そう言いましたね。
――一方では、「喜び過ぎちゃいけない」という思いもあったんですね。
 そうですね。大事な1勝でしたけど、たかが1勝です。僕らの目標は、もうちょっと先にあるのかなと思っていました。応援してくれる皆が喜んでくれるのは嬉しいですけど、僕らは、しっかりと次の試合や、その先を見据えなきゃいけないなと思っていました。

――その後、「本当に喜ぶことができた」という試合はありましたか。
 いや、ないです。正直、今年に関しては、ないです。最初にも言いましたが、シーズンは終わって、ほっとはしていますけど、満足はしていません。震災が起こって、「自分たちに何ができて、何ができなかったのか」、震災があって「こういう経験をできた」ということを、今後、自分たちの中で、財産として、どう次の一歩を踏み出すかということが、すごく大事だと思っています。
 今シーズンに関しては、震災で起こったことを、自分たちの中で消化して、ポジティブな空気にしてチームの中に還元できなかったなと、僕自身は思っています。自分たちで「熊本を元気に」というエネルギーが生み出せなかったと思っています。チームとしても、個人個人としても、そういうところでちょっと満足できないなという思いが強いです。
 だから、こういう悔しい思いや、一つになれなかった感じも含めて、僕らが、今年経験してきたことなので、来年はちゃんと準備ができて、自分たちの戦いができます。これから先、何ができるかということが大事でしょう。
 もちろん、このクラブを去っていく選手もいるし、選手も変わるし、いずれは会社のスタッフや、僕らもいなくなる存在ですが、それでもロアッソというクラブは残っていくんです。
 そのときに、この地震が起こったということは、クラブの歴史に絶対、刻まれるわけです。地震の後に、僕らがどういう行動をして、どういう試合をして、どうサポーターと向き合ったかっていう部分も含めて、今後のロアッソの歴史になっていくわけです。
 そういうものを、今年、どれだけ僕らは残せたのかといったときに、やっぱり残せていないなって思います。今年に関しては、僕ら一生懸命、もちろん戦いましたけど、サポーターをはじめ、熊本の人たちに支えられてJ2に残留させてもらったなという思いがあります。どちらかというと、「僕らが元気を皆に届ける」というよりも、「僕らが皆から元気をもらっている」と思っています。皆の力で最後、頑張らせてもらったなと思っています。なので、今度は、僕らはちゃんと準備できるし、僕らがちゃんと皆に、力を届けようと思います。
 未来をどういうふうにつくるかというのは、これからの僕らにかかっています。それは、新しい選手が入ってきてもそうです。それを、経験した僕らは伝えなきゃいけないし、そういう思いを共有しなきゃいけないと、ずっと思っています。
 なので、僕は今年に関しては、申し訳ないですけど、納得できないというか、すごく消化不良だなと。ほっとはしていますし、シーズンが終わって、一旦は気持ちをリセットしますけど、そういう気持ちです。

プロの世界
――でも、巻選手が先頭に立って復興支援活動に取り組んで、選手たちも被災しながら必死に戦いました。まず、そこがあったから、これだけ賛同を得られて、応援を受けることができたのではないですか。
 でも、僕らはプロの世界で生きているので。地震の中で、皆、言うんです。「連戦だった」、「大変だったね」と言って、それは周りが評価する分にはいいと思います。でも、僕らはプロサッカー選手として生きているわけで、結果を求めなければならない立場です。
 そういう意味では、(他のチームと同じように)42試合ちゃんとやらせてもらったし、僕ら平等なんです。試合数を与えてもらっているので。そういう中で結果を出せなかったということは、真摯に受け止めるべきだと思います。僕は、少なくともそう思っています。評価は下のほうだなと思います。

――思ったような結果を残せなかったことについては、連戦とか、被災生活とかも、僕らメディアからすれば、十分、客観的で建設的な理由や根拠になるとは思います。でも、プレーヤーとしては、あくまでも結果が重要だと。
 そうですね。試合にむけて、準備をする時間がまったくなかったわけではありません。J1とJ2でも環境は違うし、クラブハウスがあるチームもあれば、クラブハウスがないチームもあるじゃないですか。
 それも、「時間が少ないので、環境が違うので、勝てませんでした」では通用しないじゃないですか。それと僕は一緒だと思っています。「日程が厳しいから」、「移動時間が長いから」とかも同じです。それこそ、(北海道コンサドーレ)札幌なんて、アウェイは飛行機で遠い距離を移動してくるわけじゃないですか。
 そういうのを考えたときには、僕は、本当に平等だなと思っていました。同じ試合数をやらせてもらってありがたいなと。そういうものです、プロっていうのは。

子どもたちが未来を見続けられるために
――最後に。復興支援活動の中で、巻選手のつながりの中で、いろんな人たちが熊本にきてくれました。例えば、日本代表の香川真司選手が来たときは、巻選手は「子どもたちに嫌な思い出を全部、いい思い出に変えてあげたい」と言われていました。
 地震の後、子どもたちは、「俺、何ともなかったよ」とか、強がって言うんです。でも、お父さんや、お母さんに聞くと、家の中で怖がっていると。スクール(出身地の宇城市と合志市で開いている巻フットサルセンターカベッサ熊本でのスクール)の、いつもふざけている子どもたちが、地震の直後は、コートの真ん中で「怖い、怖い」って言いながら、うずくまっていました。子どもたちにとって、「地震は怖い」というイメージが絶対あるんです。
 そういう光景をみてしまうと、「地震があったから、こんないいこともあったんだな」ということを体感してほしいなっていう思いになります。そして、こうやって地震が起きて、これから「今まで以上の熊本をつくろう」というときに、熊本をつくっていくのは子どもたちだと思うんです。地震の影響で、夢を諦める子どももいるし、経済的な理由で諦めなきゃいけなくなっちゃう子どもたくさん出てきていると思うんです。
 だから、子どもたちが、夢を追い続けられるように、未来をずっと見続けられるような、サポートをしたいです。気持ち的なサポートもそうです。将来的にはそういう子どもたちを何とか救ってあげたいという思いを、すごく強く持っています。子どもたちの夢や、未来に、僕も、何かしらちょっと助けることができるようなことはができたらと、ずっと考えています。
 もちろん、いまだに地震の被害に苦しんでいる人たちも、何とかしてあげたいとは思います。でも、僕の力では、そこまでいろんなことにアプローチすることはできないので、いろんな人に、現状を伝えて知ってもらって、支援をしてもらうしかありません。
 逆に言うと、僕は子どもたちに対しては、いろんなアプローチができると、思っています。そのことを、この地震を通して感じることができました。それこそ、いろんな日本代表の選手も来てくれるし、全国からJリーグの超一流のプロサッカー選手も来てくれるし、そういうことで、子どもたちの夢の後押しはできるのかなと思っています。
 そこに対して、僕は今後、1人の熊本のプロサッカー選手として、アプローチできるのかなとは思っています。今も、そうやってちょっとずつアプローチしていますが、それがより一層、いろんな子どもたちに影響を与えられるようなことをやりたいなと思っています。
――それを、継続していくということですね。
 そうですね。一過性のものでは終わらずに、ずっと継続してやっていくことが大事なのかなと。最後、熊本城が元に戻るのは何十年かかるって言っていましたが、それぐらい復興というのは、1回、壊れたものを取り戻す、というのは、人の心も含めて大変な作業だと思うんです。
 なので、一歩ずつ、一歩ずつ前に進んでいかなきゃと思います。皆に「助けてくれ」って言っているだけでは駄目だし、僕らも自分たちから、チャレンジして、いろんなことに取り組んでいかないといけないと、僕自身は思っています。

――きょうは、貴重なお話をありがとうございました。
 ありがとうございました。しゃべり過ぎましたね(笑)。
(インタビュー予定時間は30分だったが、45分を超えた)
――いや、こちらこそ、大丈夫かなと思って、でも、次の予定への出発時間が迫っているでしょう?すみません。いろいろ、もうちょっと掘り下げて詳しく聞きたいことが出てきたり、「あのとき、こうだった」と、自分の話もしたくなってきたりしてしまって。
 じゃあ、また話しましょう(笑)。
――ぜひ、よろしくお願いします。ありがとうございました。
 ありがとうございました。

このインタビューは2016年12月9日(金)に行われました。

◇著者プロフィール:
山雄樹(やまさき ゆうき)
熊本放送(JNN・JRN)アナウンサー。1975年(昭和50年)6月16日、三重県鈴鹿市生まれ。立命館大学産業社会学部を卒業後、1998年熊本放送入社。主にスポーツの中継アナウンスや取材、番組制作を担当。系列のアナウンサーの技量を競う「アノンシスト賞」では、「テレビスポーツ実況」部門で二度、「ラジオスポーツ実況」部門で一度、九州・沖縄ブロック審査で最優秀賞、2015年度は、全国審査で優秀賞を受賞した。
 チーム発足時からJ2ロアッソ熊本の取材や応援番組の司会を続け、2008年のJ2参入以降は、スカパー!Jリーグ中継でホームゲームの実況をつとめる。