今年の香港国際競走は、これが引退レースとなるモーリス(牡5歳)のためにあったといっても過言ではない興行になった。

 下馬評ではモーリスの出走する香港カップ(芝2000m)と、ハイランドリール(牡4歳)の出走する香港ヴァーズ(芝2400m)は固く、香港マイル(芝1600m)と香港スプリント(芝1200m)は傑出馬不在で、混戦と見られていた。

 しかし、競馬はそう簡単ではない。

 4つの国際競走のうち、最初に行なわれた香港ヴァーズでのハイランドリールは昨年の勝ち馬で単勝1倍台の断然人気だった。レースも序盤から自分のペースで展開を支配し、直線に向いてからもみるみる後続を突き放して、磐石の勝利かに見えた。が、ゴールに近づくにつれて、これにグイグイと迫ってくる1頭がいた。日本から参戦のサトノクラウン(牡4歳)だ。一完歩ごとに差を詰めると、ゴール間際で逆転。馬主の里見治氏は菊花賞で待望のGI初勝利(サトノダイヤモンド)を挙げており、「今年はすごいことになってきました」と笑顔を見せた。

 続く香港スプリントは、4番人気の古豪エアロヴェロシティ(せん8歳)が好位差しの正攻法で、追い込む1番人気ラッキーバブルス(せん5歳)以下を完封した。香港マイルは、復活を期待されるエイブルフレンド(せん7歳)が1番人気に推されるも末脚不発で6着に敗れ、4番人気ビューティーオンリー(せん5歳)が直線で鋭い伸びを見せて勝った。

 ここまで1番人気が3連敗。香港カップは昨年の勝ち馬エイシンヒカリ(牡5歳)を抑えて、モーリスが1番人気に推されたが、この呪縛を打ち破れるのか。

 モーリスは今年の4競走の中で絶対の信頼を集めていた。それもそのはず、昨年の香港マイルを圧勝し、続くチャンピオンズマイルも勝って香港GIを連勝している。さらにこの秋には天皇賞・秋も制覇して距離にもめどを立てた。

 何より、状態面が過去2回の香港遠征より良好で、レース前週の月曜日から意欲的に馬場に入って長めの調教をこなしていた。調教時から激しく発汗し、さらに少し疲れているような仕草を見せていた昨年の香港マイル遠征時と比べて雲泥の差だ。

 しかし今年のレースは、ゲートが開いて、ファンはいきなり絶望的なシーンを目にする。モーリスが大きく立ち遅れたのだ。この日の1番人気はやはり運がないのか。それでも慌てることなく、鞍上のライアン・ムーア騎手は馬群にモーリスを収め、後方から数えて3番手あたりを追走する。

 一方、パドックでのひと暴れが不安視されたエイシンヒカリはすんなりと先手を取る。外からホースオブフォーチュン(せん6歳)に並ばれるも、引っ掛かることなくこれをいなし、2コーナーから徐々に後続を引き離すと完全な一人旅に。3コーナーに入ってから、さらに後続を引き離しにかかり、昨年とほぼ同ラップで再現を狙う。当然、後続勢もここから進出。続々と鞍上に促されながら、前との差を詰めに掛かる。ここで落ち着いていたのがムーア騎手とモーリスだ。追撃で勢いのついた前の馬たちがコーナーで膨れるのを見越したかのように、ラチ沿いを通って巧みに前との差を詰めにかかる。

 直線に向いて、エイシンヒカリが後続を振り切りにかかるが、残り200mを切った付近で急激に失速。これと同じタイミングで、モーリスが猛烈な勢いでインコースを突き抜け、下がってきたエイシンヒカリを軽くいなすように交わすと、あとは独走。追い込んだシークレットウェポン(せん6歳)以下に3馬身差をつける完勝で、有終の美を飾った。僅差の3着争いは、ステファノス(牡5歳)がラブリーデイ(牡6歳)を抑え、ワンツーフィニッシュこそならなかったが、日本調教馬が上位に顔を並べた。

 エイシンヒカリが止まったのも大きかったが、モーリスの後半800mのラップは45秒85。日本でも簡単に計時できる後半のラップではない。ましてや、今年のシャティンの芝はやや時計がかかるほうだったのだから、驚き以外の何ものでもない。最後の最後でまた、モーリスがその能力の高さを世界に示した。翌日の現地の紙面では「神の領域に達した」とまで評された。

 ついに現人神ならぬ"現馬神"となったモーリスだが、ここに至るまでは決して順風満帆ではない。1歳時のサマーセールで150万円の低額で落札され、ハードトレーニングを積まれて上場された2歳時のトレーニングセールでも1050万円という取引価格だった。無事にデビューにこぎつけたが、2、3歳時では重賞に出走するも、勝つことはおろか連対すらもできずに終わる。堀宣行調教師の後のコメントによれば、「トレーニングセールに出るための無理が残ったのか、背腰の疲れが抜けきらない」ため、堀厩舎に転厩してきてからはそのケアに重点が置かれるようになった。

 初GI タイトルとなる昨年の安田記念も、出走そのものが薄氷を踏むものだった。というのも、4月に行なわれたGIIIダービー卿チャレンジトロフィーを勝利した時点では、賞金順で安田記念への出走が確実ではなく、それを確実にするためにはもう一走して賞金を上積みする必要があったのだ。しかし、前述のようにケアが十分でなく、仮に出走権を得たとしても、それと引き換えに安田記念で十分なパフォーマンスが発揮できない可能性が高い。そこで陣営はコンディションを優先させる賭けに出た。幸いこの思惑が的中し、安田記念の勝利へとつながったのだ。

 その後も、勝ち鞍を順調に重ねてはいたが、やはり調整そのものは順調とはいい難かった。昨年のマイルチャンピオンシップも、安田記念からぶっつけ本番。続く香港マイルはその反動が出て、調教の時点で激しく発汗し、ギリギリまで軽めの調整に終始する。5歳初戦の香港のGIチャンピオンズマイルも、本来は3月のGIドバイターフからの始動する予定だった。

 しかし、これらをすべて乗り越えることで、モーリスは着実に"神"への階段を昇ることができた。5月頭のチャンピオンズマイルのレース後は、異例ともいえるレース直後の帰国輸送を行ない、安田記念に備えた。それでも2着と取りこぼしてしまったあたり、調整の難しさは依然として残っていたようにも思える。

 それでもその後、狙いすました秋の2戦、天皇賞・秋と香港マイルは、完璧な状態でレースを迎えることができた。特に香港での状態は、過去2回の香港での調整過程を間近に見てきているだけに、見違えるほどのデキの良さであった。仮にエイシンヒカリが完璧に走ったとしても、このモーリスが相手では勝ち切るのは難しかったのではないか。

 これだけの圧勝劇を見せつけられると、現役を退くことが惜しく感じられるが、「一番いいときに引退するのが一番。いいときに引退することで、いい仔を作ることができる」と吉田和美オーナーは言う。今後は北海道で種牡馬となり、いずれ南半球へもシャトル種牡馬として渡ることも計画されているようだ。モーリスがどんな「神の仔」を送り出すのか。今から楽しみである。

土屋真光●文 text by Tsuchiya Masamitsu