JFE東日本の中野大地捕手【写真提供:JFE東日本野球部】

写真拡大

休部の名門野球部から羽ばたいた一人の捕手、今も受け継ぐ「日産魂」

 今年の都市対抗野球大会に千葉市代表として出場したJFE東日本野球部。惜しくも1回戦で敗退してしまったものの、前身の「川崎製鉄千葉」時代を含め、出場22回を誇る名門だ。今年からチームのキャプテンを務めるのは、日産自動車野球部の休部に伴い、1年でJFE東日本野球部に移籍した中野大地捕手(29)。「川崎製鉄千葉」時代を含めた長い野球部の歴史の中で、他のチームから移籍してきた選手がキャプテンを務めるのは初めてだ。

 明治大学時代、いくつかの企業から声をかけてもらっていたが、大企業であり、野球部も神奈川の強豪ということで、日産自動車野球部への入部を決めた。しかし、入社前の2009年2月、年内いっぱいで野球部が休部となることが決まった。

「入社する年の1月から、チームの寮に住んで練習をしていました。その翌月、2月に休部が伝えられました。前年に『三菱ふそう川崎』が休部になり、強いチームでもそんなことがあるんだと学生ながらに思っていましたが、まさかそれを自分が経験するなんて、考えてもいませんでした」

 中野は、休部を告げられた日のことを鮮明に覚えている。

「グラウンドで朝から練習をしていたら、寮の食堂に集合するように言われました。その日が決算報告の日だったこともあり、休部を感づいている先輩たちもいました。『野球部、陸上部、卓球部が休部になることが発表される』と部長に言われた時は、右も左もわからない新人でしたが、体がずっしりと重くなったのを覚えています。

 事の大きさにびっくりして、この先どうしようというところまで考えが及びませんでした。次の日、スポーツ紙が1面で取り上げているのを見て『これだけ影響力のあることなんだ』と改めて思いました」

1年だけでも日産野球部でのプレーを希望

 その年に入社予定の新人は中野を含め6人。休部を受け「入社しない」という選択も可能だった。当時の久保恭久監督からは「今後どうするか考えてきてくれ」と話があった。

「『本当に申し訳ない』と監督に言われました。それでも、新人6人全員、1年だけでも入社させて欲しいと伝えました。日産で野球をやりたいという気持ちで練習をしていました。野球を続けられるかわからなかったですが、まずは与えられた環境で精いっぱいやろうと思いました。野球をやりたい気持ちが強かったですが、休部後は社員として働くことも考えました」

 休部の年の都市対抗野球大会が終わったころ、JFE東日本野球部から移籍の話をもらった。千葉製鉄所の近くで生まれ育った中野には、「JFE東日本」という会社には馴染みがあったという。

「自分の地元の企業ということもありましたし、大学生の時にもお話をいただいていて、もう1回声をかけてくれるなんて本当にありがたかったので、移籍を決めました」

 中野は移籍後初年度からレギュラーとして活躍。その年の都市対抗野球大会では8強入りを果たした。

「会社も違うし、チームも違う。もちろん、雰囲気も違いました。JFE東日本では新人でしたが、日産で1年やった経験を活かした方が、自分のためになると思って遠慮せずにやらせてもらいました」

 JFE東日本野球部に移籍してきた当初、「こういうノックやっていたけど、あれはどうやるの?」「日産のランナーはどうしてああいうリードを取るの?」「あの時はどういうサインが出ているの?」と、日産の野球のことをチームメートに聞かれたという。

「対戦していても、気になっていたんだと思います。それだけあのチームには影響力があった。対戦相手から興味を持ってもらえるチームでした」

日産同期入社にはプロ入りした選手も、「本当にプロに行ってよかった」

 今年からキャプテンを務めているが、チーム内のルールは作らず、基礎を大切にすることに重点を置いている。「若い選手は、すごく練習をするし、野球が好きだと思います。ただ、変なところで要領が悪い。でも、グラウンドでは余計な上下関係を気にせずやってほしいと思っています。一塁までの駆け抜け、フライを上げた時の次の塁への走塁、ベンチでの声出し。それだけやっていればチームは締まってくる。それ以外は好きにやってくれればいいと思います」。

 そんな「基礎を大切にする」という信念は、日産野球部で培われたものだ。

「(日産野球部に)入部して最初にサインプレーを覚えましたが、作戦の細かさにびっくりしました。これは今までの野球とは違う。ほかの社会人チームでもここまでやっているチームはないだろうと思いました。日産のノックはめちゃくちゃきつくて、毎日疲れました。

 でも、先輩たちは上手いし、しっかりやっている。ベテランの選手がチーム引き締め、新人の僕らを後押ししてくれました。これが神奈川の強豪チームの野球なんだと思いました。日産の野球は軽いプレーが許されない。本当に厳しかったですが、基礎の大切さを学びました。JFE東日本でも基礎の大切さを伝えたいと思っています」

 阪神タイガースで育成から支配下登録され、5月15日に1軍で初登板を果たした田面巧二郎投手は日産自動車の同期入社。日産野球部の休部後、田面も中野と同じくJFE東日本野球部に移籍した。

「日産の時から仲のいい後輩でした。同期入社ですが、田面は高卒での入社なので弟分でしたね。JFE東日本に移籍当初は、公式戦で投げていませんでしたが、ものすごくいいものがありました。日産のコーチやチームメートから『田面を頼むな。プロに行ける力を持った選手だから』と言われていました。本当にプロに行ってよかったと思います」

大学時代には広島・野村ともバッテリー組む、「謙虚で控え目で、優秀な選手だった」

 また、今シーズンここまでセ・リーグ最多となる12勝を挙げている広島カープの野村祐輔投手とは明治大学時代にバッテリーを組んでいる。

「僕が4年生の時、野村が1年生でした。1年生の時から投げていましたが、バッテリーを組んでいてとても賢い選手だと思いました。バッターを見られずに、投げることに精いっぱいの1年生が多い中で、バッターをしっかり見ていて、首を振ることもできる。けん制、フィールデイングも上手でした。性格も謙虚で控え目で、優秀な選手でした」

 中野はそう振り返る。

 今後の目標は、都市対抗野球大会への連続出場だ。JFE東日本野球部は、ここまで2年に1回出場していて、まだ連続出場がない。自分がキャプテンを務めているうちに連続出場したいと話す。

「今年の都市対抗野球大会の決勝を見に行きましたが、市を代表して戦い、社員が一丸となって会社を応援する姿をスタンドから見て、社会人野球はすごいと思いました。JFE東日本も、外野席まで埋まっています。その中でプレーできることは本当に幸せだと思います。社内を歩いていても『頑張れよ』と声をかけてくれる社員も多く、野球部は愛され、期待されているのをすごく感じます。高校や大学で、たくさんの人が野球をやっている中で、社会人チームの採用は毎年数人です。その中で野球をできる喜びを、改めて感じています」

 惜しまれながら休部になった日産自動車野球部。残念ながら復活への動きはないが、対戦相手も目を見張る日産の野球、タフに最後までやり通す「日産魂」はチームを変えて、今も受け継がれている。

篠崎有理枝●文 text by Yurie Shinozaki