食えない芸人のハローワーク「お笑いウルトラクイズ」は、骨折も厭わぬ求道者たちの輝ける場所だった

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元旦から狂ってる


今とは比べ物にならないくらい、テレビのパワーが強大だった90年代前半。当時、小中学生だった私は、当たり前のようにテレビ中心の生活を送っていました。それは、年の瀬だろうが夏休みだろうが変わりはない。
しかし、問題はお正月です。テンションの高いバラエティを好む小中学生には物足りない番組ばかり続くあの時期、よせばいいのに当時の筆者はガマンしてテレビの前から動こうとしませんでした。


なぜ、ガマンできたのか? それは、元旦からいきなり紋付袴姿でハリセン片手に被り物をかぶるビートたけしが登場してくれるから。それまでのフラストレーションは、『お笑いウルトラクイズ』の放送時間さえ来てしまえば、おつりが来るほどに一掃されてしまいます。「第425回!」と適当すぎるナンバリングを宣言するたけしの雄叫びも、あの人ならば許される。
そんな治外法権っぷりは、企画内容やキャスティングにも貫かれます。元旦の21時という素晴らしすぎる時間帯、ブラウン管に映るのは林家ペーやアゴ勇、戸塚宏といったマイナーかつスレスレな面々。行われる企画は、屈強なプロレスラーと闘った挙句に体がトリモチだらけになる「格闘技字読みクイズ」や、実の姉がモニターで隠し観るなかAV女優とどうにかなろうと土下座し懇願する姿を晒してしまう「人間性クイズ」など。
完全にどうかしているとしか思えない番組であり時代ですが、生涯で最も影響を受けたバラエティ番組だと私は断言できます。

あの番組の総合演出を務めるは、今をときめく“テリー伊藤”こと伊藤輝夫。そして、構成作家として辣腕を振るうは、たけし軍団の“鬼軍曹”として若手からの恐怖と殺意を一身に集めていたダンカン氏。我々世代からすると、ドリームチームと呼ぶにふさわしい布陣です。

「うだつの上がらない芸人たちのハローワークみたいなものを作れないかな」(ビートたけし)


「QUIZ JAPAN vol.6」にて、ダンカン氏が『お笑いウルトラクイズ』をテーマにしたインタビュー(聞き手・吉田豪)を受けています。

「クイズにゆかりのある有名人に話を聞く」がテーマの吉田氏による連載ですが、同番組がクイズ番組じゃないのは言うまでもありません。某回で、たけしが芸人たちに「この番組はクイズという名前になっていますが、クイズじゃありません」と念を押していた姿は、“お約束”のさらに向こう側にある“お約束”を皆で共有する確認作業というか。

インタビュー中、ビートたけしが番組を立ち上げるに至ったきっかけをダンカン氏は明かしてくれています。
「たけしさんの『年配の芸人さんとか、努力もしないしうだつも上がらない、文句ばっかり言ってるような人たちのハローワークみたいなものを作れないかな』っていう思いから始めたっていうのがあって」

そう。アナーキー極まりない同番組ですが、意外にも番組のスピリッツには“やさしさ”が息づいています。『お笑いウルトラクイズ』DVDを観ると当時の出演者の顔にボカシが入った映像処理が散見されますが、この世知辛さにダンカン氏は異を唱えます。
「ボカシやめてくんないかな。(中略)どこからなんだろう? 個人名は出しにくいけど、極楽(とんぼ)の山本(圭壱)君だとか、もしかしたらあそこぐらいから世の中変わったのかな?」
「キングオブコメディの高橋(健一)君なんか、あの当時だったら『しめた!』って言われてたのかな。あの時代だったら1年ぐらいの謹慎で戻ってきてたと思うんだよ。(中略)(『お笑いウルトラクイズ』があったら)間違いなく引っ張り出して、『女子校侵入クイズ』をやってますよね(笑)」

かつて、飯星景子や山本モナ、新藤恵美など“何か”があってテレビに出れなくなった人たちを率先して起用していたのが『お笑いウルトラクイズ』でした。それを、我々は“芸能界のろ過装置”と呼ぶ。(景山民夫が宗教について数時間語り続ける講演を冷凍車に入れられた芸人が延々聞かされる企画で、たけしが放った「中と外から冷えていただきたい」という痛快な一言を私は忘れられない)
矢口真里やベッキーのみならず、佐村河内守や清原和博など禊を余儀なくされた著名人たちは、どうやって舞い戻ってくるのか? いや、もう戻れないのかもしれない。
「一度失敗しちゃったからって突き放してたら、その人たちはこれからどうやって生きていくかっていうことでね。人生長いんだから、そんなに冷たくしないでもいいのに。そういう意味では、たけしさんがみんなを救ったところはあるな」
「今の時代に『お笑いウルトラクイズ』があればなあ」というつぶやきは、90年代の残党によるごくごくナチュラルな発想です。

骨折しても笑いが取れれば正義


もちろん『お笑いウルトラクイズ』を、“やさしさ”なんて要素だけで語り切ってしまうのは間違ってる。骨折辺りは完全に想定内の、命知らずな企画群たち。
例えば、第2回大会では「石倉三郎○×クイズ」なるクイズが実施されました。自分をバカにする芸人らの様子を別室モニターで観ていた石倉がキレて芸人らを追いかけ回すも、芸人らが逃げる道中に巨大落とし穴があり、その穴に大勢が一挙にハマるという内容。この時、落ちた拍子に他の芸人の体重が乗っかってグレート義太夫は足を複雑骨折してしまいます。
「(救急車が来るまで)義太夫君を座らせて待機させてたらテリーさんが近づいてきて、『ダンカンちゃん、骨折クイズ』って言ってハンマーとマイクを渡してくるんですよ」
もちろん、テリーの意図を即座に察するダンカン氏。骨折したのは右足か左足かを当てるクイズで、ヒントとして両足をハンマーで叩いてリアクションを見るという試みです。残念ながらこのクイズはオンエアされずじまいでしたが、義太夫自身が「あのクイズが一番面白かったのに」と悔やんだそうだから、惚れ惚れするというか。

そして、当然のことながらダンカン氏だって体を張ります。第10回大会にて、彼はジミー大西とともに決勝へ進出。優勝者を決めるため訪れたのは、霞ヶ浦にある「虹の塔」(高さ60メートル)。この屋上に設置された簡易滑り台に両者は寝かせられ、クイズに間違えた方がバンジーをやらされる……という形式です。
この企画を考えたのは、何を隠そうダンカン氏自身。秀逸な内容なので、やったら面白いのは確実。しかし危険極まりないため、名乗り出てくれる芸人は現れず。
「『この企画だけは絶対に世の中にアピールできるから、どうしてもやりたいんだよね。でも、やる人間が……』って言った時、会議室に20人以上いたんだけど、全員が俺のほう見てるんだよね」

こうとなったら、作家兼出演者のダンカン氏が引き受けるしかない。決勝で出題されたのは、「現存する最も大きな両生類は何?」なる問題でした。地上から決勝の様子を見守るたけしは「カルーセル麻紀?」とボケ、そして地上の声は聞こえないであろう屋上にいるダンカン氏もなんと「カルーセル麻紀〜!」と回答。師弟愛を感じさせる感動的な以心伝心の末にダンカン氏はタワーから落下。そして、CCDカメラが捉えるダンカンの断末魔の表情は、爆笑もの! 見事にやり遂げたダンカン氏は、地上にいるたけしの胸に駆け寄ってガチ泣き!! 当然、この回はダンカン氏の優勝で幕を閉じました。
これで全てが終われば最高に美しいのだけど、そうは問屋が卸さない。後日、現場の様子をスタジオで振り返るダンカン氏の表情は、数日経っているにもかかわらずあまりの剣幕で妙な表情になっており、その顔を見て堪らなくなったたけしは失笑しながら「その、ペルー人みたいな顔はやめろ(笑)」と一言。今では絶対に使えないであろう見立て。この場面を思い出すだけで、もう私は笑いが止まりません。

「これはできないだろうというラインは取っ払って考えろ」(テリー伊藤


当時、テリー伊藤は『お笑いウルトラクイズ』の会議で制作陣にこう呼びかけていたそうです。
「これはできないだろうっていうものは取っ払っちゃっていいから、なんでもいいから面白いものを書いてきな」
また、番組プロデューサーの甘利孝氏は金銭面に糸目をつけず、「最終的には死人を出さないで」「それ以外は大丈夫だよ」というスタンスを維持。結果、「まず5分間火だるまになって……」と、とんでもない企画を持ってくる作家まで現れたそうです。規制、自主規制がはびこる現代からすると、まるで別の国の話のよう。
「そんなことで、ずっと暮らしていけると思ってたんだよね。そういう夢でしたよ」

しかし、その“夢”の時代も次第に収束していく。
「世の中の流れなんだろうね。徐々に徐々にテレビ局の自主規制みたいなものがかけられてきた実感はあって。人間なんて1回すごいもの食べちゃったら、もっと美味しいもの、もっと美味しいものってなるのに、それよりもグレードが下がっていくから。こっちはやってもいいのに、世の中のほうが逆差別していったでしょ」

“夢”の時代は、終わり。おそらく、もう戻ってこないのでしょう。だから、お笑いが好きな我々は、やっぱり昔のことばかりに思いを馳せちゃうんだなあ。
(寺西ジャジューカ)