『アンソロジー 餃子』池田満寿夫ほか著 PARCO出版

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■「時折、無性にギョウザが食べたくなる」

餃子が好きで、よく食べる。餃子に季節があるのかは知らないが、1年で一番おいしく感じるのはいま時分、春から夏にかけてだ。なんといってもビールとの相性が抜群だ。筆者は、餃子とライスを一緒には食べない。あくまで酒のアテである。ビールのあとは酎ハイや紹興酒を飲む。

表紙の写真にひかれて本書を読んだ。作家やエッセイストら39人の餃子にまつわるあれこれがつづられている。餃子への思いが、餃子の具のごとくギュギュッとつまっている。

餃子愛に満ちている。「餃子こそ古今東西の料理中、最高と思う」と藤原正彦氏は断言する。高校時代に初めて食べて感激して以来、「餃子一本槍となった」という。小泉武夫氏は「『餃子丼』が大好きである」と宣言し、餃子から染み出る汁や油やしょうゆが混然一体となったメシをワシワシかき込む喜びを熱く語る。林家正蔵氏は「手前味噌で恐縮だが、我が家の餃子は旨い」と胸を張る。

ほかにも「どうして世の中にこんな旨いものがあったのかと夢見る想いで、ぎょうざを大好物の一つに数えている」(池部良氏)、「時折、無性にギョウザが食べたくなって、旨い店を探すことがある」(泉麻人氏)などなど餃子愛はとどまるところを知らない。料理名人として知られるタモリのオリジナルレシピも紹介されている。

そんななか、異彩を放つのが、山口文憲氏だ。あろうことか餃子を否定する。「餃子なんて、べつにうまいものでもなんでもない」と言い放つや、返す刀で「あんなものをうまいうまいとむさぼり食う人間の気持ちが、私にはまるでわからない」と切り捨てる。そんな山口氏もいちおう中国文化圏の本来の餃子(水餃子や蒸餃子)は認めるとしながらも、「しかし、日本式餃子はいけない」と断じる。ここまで否定されるとむしろ心地よい。清々しささえ感じる。

餃子は大ざっぱに作って大ざっぱに食べるもの

筆者も思うのだが、餃子に限らず、ラーメンでもカレーでもそばでも、なんだかやかましすぎる気がする。こだわりだの究極だの至高だのと大げさである。もちろん、特別においしい餃子もあるだろうが、そのために高いお金を出したり、わざわざ出かけて行って行列に並んだりするのは面倒だ。ふつうでいい。たいていの町のラーメン屋、中華屋には餃子があり、それなりにおいしい。それで十分だと思う。

東海林さだお氏が、作家陳舜臣氏の子息である陳立人氏に餃子づくりを教わる話がいい。餃子の皮づくりでは、強力粉と薄力粉の配合などを気にする東海林氏に、あまり難しく考えなくてよい、それほど綿密にする必要はないと陳氏はアドバイスする。

餃子なんてね、大ざっぱに作って大ざっぱに食べるものなんです」

皮の形も「まん丸じゃなくてもいいんですよ、だいたい円形になれば」とおう揚だ。具を包む際に難しいヒダヒダづくりも、いいかげんでよいとのこと。

なーんだと思い、それはそうだよなと思う。餃子は、中国では家でつくって食べるごくごくふつうの家庭料理なのだから。

本書は写真もいい。特に表紙とその見返しの光景がたまらない。気取った感じがなく、いかにも大衆食らしい餃子のおおらかさ、庶民らしい日常の雰囲気が伝わってきて、ああ食べたい、いますぐ一杯やりたいという気持ちがわきおこる。

というわけで、出かけるとしよう。梅雨まっただ中のジメジメムシムシと暑い夕刻、近所のいつもの中華屋。この店は1皿240円の安さで、パリパリ、ジュワーっとうまいうえ、下町特有の焼酎ハイボールが飲めるのがうれしくて、いま一番気に入っている餃子の店なのだ。

(ライター 田之上信=文)