レッドブル・エアレース」に参戦する唯一の日本人パイロット、室屋義秀選手が、2016年の千葉大会にて初優勝。『ガンダム』のアムロ・レイに憧れたかつての少年は、世界の頂点に立ちました。

日本のアクロバット航空史に刻まれる快挙!

 千葉県の幕張海浜公園にて、「レッドブル・エアレース千葉2016」の決勝が行われた2016年6月5日(日)。日本のアクロバット航空史を語るうえで欠かすことのできない1日になりました。

 唯一の日本人パイロットとして「レッドブル・エアレース ワールドチャンピオンシップ」に参戦する室屋義秀選手は、この千葉大会初戦においてスモークが出ないトラブルに見舞われるも二戦目まで順当に勝ち抜き、決勝「ファイナル4」において好タイムを叩き出して見事、初優勝を飾りました。

 会場を埋め尽くした5万人の大観衆は、室屋選手の健闘と優勝に熱狂し、その歴史的な勝利を祝いました。


1分4秒台の好タイムを連続して記録し見事、優勝を果たした室屋義秀選手の決勝におけるパフォーマンス(写真出典:Jörg Mitter/Red Bull Content Pool)。

「世界一を目指してやってきた。届きそうで届かない。25年間かけてやっと達成できた。表彰台の頂点で『君が代』を聞く姿は何度も想像してきたが、今日の勝利はファンブースト(ファンの声援)のお陰です。人生最良の日です」と、室屋選手は初優勝の喜びを語ります。

「アムロ・レイになりたかった」小学生が

「小学生のときから『ガンダム』のパイロット、アムロ・レイになりたかった」という室屋選手がパイロットを志し、航空の世界へ飛び込んだのは1993(平成5)年、大学2年生だった20歳の頃。アルバイトで貯めたなけなしの資金を手に単身渡米し、英語ができず頼るツテもないなか、「ともかくパイロットになりたい」の一心でロサンゼルスにて飛行訓練を開始し、念願だった操縦士の資格を取得します。

 そして1995(平成7)年、室屋選手は但馬空港(兵庫県)において開催されたエアロバティックス(曲技飛行)の世界大会を観戦。「究極の操縦技術」を目の当たりにした彼は大いに感動し、ついに自分の目指すべき道を発見します。それは「操縦技術の世界一」。

 エアロバティクスの飛行訓練は、小型飛行機による通常の飛行と比べて3倍もの料金を必要とするも、室屋選手はフリーターとして働き、有り金をすべてはたいてアメリカで訓練を開始します。

 当時の教官は、室屋選手に「お前は世界一になれるよ」と言ったとか。「お世辞だったのかもしれない」と室屋選手は回想しますが、教官の予言は20年の時を経て、的中することになります。

 とはいえ、そこから室屋選手が世界一になるまでの20年間におよぶ道のりは、決して平坦なものではありませんでした。非正規雇用者という不安定な経済状況にあってお金も尽き、信頼していた教官も引退。飛行を諦め、酒に逃げて自暴自棄に陥った時期もあったといいます。

借金3000万円からの世界の頂点へ

 しかしながら室屋選手は、三十路を目前に一念発起。3000万円の借金をし、スホーイSu-26というエアロバティクス機を購入。“自分の翼”を手に入れ、資金繰りに悩みつつも多くの人より助けを得ながら、トレーニングを重ねました。

 そして「レッドブル・エアレース」のパイロットとしてスカウトされ、2009(平成21)年、同レースにデビュー。室屋選手はついに、「世界一のパイロット」になれる舞台へ立ったのです。

 それから7年、「目標」は現実のものになります。


日の丸と富士山をモチーフにしたトロフィーを掲げる室屋義秀選手(中央)と、チェコのマルティン・ソンカ選手(左)、アメリカのカービー・チャンブリス選手(写真出典:Predrag Vuckovic/Red Bull Content Pool)。

「アムロ・レイにあこがれていた頃の自分に何かひとことだけ言えるとするならば、『想いや言葉というものは凄い力を持っている。常に夢を想い続ける、そして言い続けることによって実現性を帯びてくる。妄想でもいいから言い続けること』、そう伝えたいですね」(室屋義秀選手)

 室屋選手は「レッドブル・エアレース千葉2016」に優勝したあとのインタビューにおいて、そう語りました。かつての自分自身に向けての言葉ですが、同時に、いまの子どもたちに向けたメッセージでもあるでしょう。今回の歴史的快挙を目撃した子どもたちのなかに、将来、「アムロ」ではなく「『ムロヤ』に憧れてパイロットを目指した」と答えるエアレース選手が現れるきっかけになったかもしれません。

 今後、室屋選手は「レッドブル・エアレース ワールドチャンピオンシップ」年間タイトルを目指し、残り5戦を戦います。室屋選手の2016年シーズンは始まったばかりです。